ウォッチマン・ニー
神前有能
第3部、神がたまわる力
第29日
群れでする祈り
わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。(第二歴代誌7:14)
キリスト教の独特なところは、その本質において、個人的ではなく、集団的であることです。キリスト教は、聖徒たちがひとつに集まることに重きをおきます。他のあらゆる宗教は個々の敬虔さを重視します。キリスト教だけが、人々に集まることを求めます。神の特別な恵みが、信じる者たちの集まりの上に注がれます。
この理由から、神の御言葉は、ひとつに集まることをやめないようにと、私たちに命じています。旧約聖書の中でも、神はユダヤ人たちがひとつに集まるようにと定めました。そして、彼らを主の集会と呼びました。集会となるためには、彼らはひとつに集まらなければなりませんでした。このように、旧約聖書の中で、すでに神は信じる者たちの集まりを重んじていました。新約聖書では、主の恵みを受け取るために、人はひとつに集まるべきであることが、より明確になっています。聖書の命令するところはこれです、『いっしょに集まることをやめたりしないように。』そのような集まりをやめる者は、必ず恵みに背を向けることになります。聖徒たちと集うことをやめるのは、愚かなことです。
聖書には、人々がひとつに集まった出来事が、多く記録されています。地上に住まわれた間、主はことあるごとに弟子たちと会いました。時に、その中の誰かと個人的に対話することもありましたが、主は彼らとひとつに集まることに大きな関心を持っていました。舟の上で、家の中で、山の上で、そして、渡される夜、家の主人から借りた二階の広間でも、主は彼らとひとつに集まりました。よみがえられた後で、主は人目につかないところで彼らと会いました。五旬節の前、弟子たちは心をひとつにして集まり、そして、休むことなく祈り続けました。五旬節の日になってもなお、彼らはやはり一緒で、ひとつところにとどまっていました。使徒行伝の2章を見ても、御言葉をいただいて、洗礼を受けた者たちは皆、『使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた』(使徒2:42)ことが分かります。後に、迫害を受けるようになると、彼らは仲間たちのところへ向かい、そこでは、祈りのための集まりが開かれました。奇跡的に刑務所から解放された時、ペテロもまた、人々が集って祈っている家へと向かいました。多くの書簡もまた、信じるものたちに共に集まることを決してやめないよう命じています。コリント人への手紙は、教会全体がひとつになるようにと、とくに力を入れて諭しています。教会に属する者は決して、自分自身をこのような会合から遠ざけるべきではありません。
ギリシャ語の『教会』(もっと正確に言えば、『集会』)ということばの意味は何でしょう?『Ek』とは、『外に』という意味であり、『klesis』は、『召し』を意味します。『Ecclesia』という言葉は、『召し出されて集まった者たち』という意味になります。今日、神は、人々を召し出しただけではなく、彼らがひとつに集まることをも望んでおられます。召された者たちが、一人ずつ、自立したままでいようとしたら、教会など存在できないでしょう。ここに、ひとつに集まることの大切さが示されているのです。
教会の祈りについて語るとき、私たちは、一人だけでする祈りの方を軽視することはないし、個人的な祈りも同じくらい大切なものと捉えています。それでもやはり、神の御国においては、ある人物にできないことが何かあれば、お互いが協力し、助け合って成し遂げる決まりであることを理解しましょう。とくに祈りの問題においては、相互の助け合いが必要となります。主のすぐ後を付いていく者たちが、他の信者たちと共に祈る必要を感じることは多くあります。彼らは時には、自分自身の祈りを不適切なものと感じます。とくに、何か極めて大きな問題、たとえば、神の御国のことを祈る場合は、教会全体の力が求められます。『わたしの家は』と、主は言われています、『祈りの家と呼ばれる。』(マタイ21:13)ここに、『私たちが神の家なのです』(ヘブル3:6)を加えてもよいでしょう。
キリストの御体は、私たちを派閥や宗派主義から解放してくれます。また、私たちを自我と個人主義からも救い出してくれます。多くのものにとって、御体(みからだ)ではなく、それぞれの自我が、生きる上での原則となっているのは実に悲しいことです。この個人主義という原則は、多くの面で見られるのではないでしょうか。例えば、祈り会で、他の人たちと一緒に祈ることができず、自分一人でしか祈れない人がいるかもしれません。彼の身体は他の人たちと一緒にひざまずいても、その意識は、自我によって束縛されています。この人は自分が祈るときは、他の人たちにそれを聞いて欲しいと願いますが、他の人たちが祈るときは聞こうとしません。彼の心は、他の人たちの祈りに反応することはなく、アーメンを捧げることさえできません。この人の意識は、他の人たちの意識から切り離されています。そのため、彼は自分の祈りを祈り、他の人たちには彼らの祈りを祈らせます。この人の祈りと、他の人の祈りの間には、何の関連もないかのようです。彼が会合に来るときは、何か、自分の中に溜め込んだ言葉を吐き出し、これで自分の仕事は片付いたと感じるという目的のためにだけ来ているとしか思えません。他の人が表わす祈りの重荷や意識の中に隠れているものを、この人は気にもかけません。これは個人主義の原則であって、御体を動かす原理ではありません。実際のところ、この人は御体を見たことがなく、そのため、神の御前で他の人たちと協力することができないのです。
私たちは、しばしば、祈りの中での交わりを学び、困難の中で交わることを学び、神の御心を求める中で交わることを学び、私たちの未来を案じる中で交わりを学び、そして、神の御言葉との関連の中で交わりを学ぶ必要があります。交わりの意味とは、祈っている課題に対して自分は不適格であることを知って、一緒に祈ってもらう他の二、三人を求めることです。一人では、困難を解決する能力がありませんから、二、三人の兄弟に、私と一緒にこの状況に対処してくくれるようにお願いします。一人だけでは、神の御心を知ることができないので、他の二、三人の助けを乞います。私自身の心は、自分の将来のことで、混乱しきっており、それ故、二、三人の兄弟姉妹に、交わりを持って、私の将来がどのようなものであるべきかを、一緒に決めていただくように求めます。私は自分だけでは、神の言葉を理解できないので、今、神の御言葉を、二、三人の兄弟姉妹とともに学んでいます。交わりの中では、自分が不適格で無能力であることがはっきり分かりますし、自分には御体が必要であることも認めます。私は、自分には限界があり、過ちを犯しやすいものであることを告白し、その故に、霊的な判断力を備えた兄弟姉妹たちに、切に助けを願います(愛情を示してくれる人たちにだけ助けを求めることはしません)。私は不適格なものであり、だからこそ、他の兄弟の助けが必要です。
私たちはキリストの御体の各部分であり、それぞれの場所に置かれていますから、この体がいのちと力を得る助けとなることを求めなければなりません。どのような集まりであっても、口を開かずとも、静かに祈ることはできます。話すことができなくとも、神の方に目を向けることはできます。これが、体の意識です。御体を見たことがあれば、私たちは、自分がまったく、存在する意義すらないなどとは言えないはずです。私たちはむしろ、こう言います。私は、この御体の部分ですから、果たすべき義務があります。私には、話すべき言葉があります。私には、口から出すべき祈りがあります。会合に来る時は、神が私にして欲しいことは何でもしなければいけません。私は、傍観者でいるわけにはいきません。これこそ、本当に御体を捕らえた時、私たちが話し、行うようになることです。そして、私たちが皆、役割を果たすとき、集まり全体のいのちが、すべての死を飲み尽くすことになります。多くの会合が、死にも打ち勝つこの力を示ことができずにいるのは、そこに傍観者の数が多すぎるからです。
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