2026年2月2日月曜日

オースティン-スパークス、『天上に招き給う召し――第一巻』、第三章

天上に招き給う召し――第一巻
The On-High Calling - Volume 1
セオドア・オースティン-スパークス著

第三章 主の晩餐と仲間たち
Chapter 3 - The Lord's Table and the Companions 

引用聖句:出エジプト記12章1~16節、21~24節。ルカ22章1、7、8、14~21節。

これまで、天の召しを受けた仲間たち(companions)の生き方に対して、主が求めておられるものを見てきました。また、そのこととの関わりで、古い時代のイスラエルが主の期待を裏切ったこと、そして、彼らの裏切りが明らかになった時、イスラエルが生まれる前から、主が願ってきたものが何だったかが明らかになったことを学びました――それは、天のいのちと霊的な性質を持つ民です。

2025年12月14日日曜日

オースティン-スパークス、『天上に招き給う召し――第一巻』、第二章

天上に招き給う召し――第一巻
The On-High Calling - Volume 1
セオドア・オースティン-スパークス著

第二章 仲間たちとは誰か?
Chapter 2 - Who are the Companions? 

これから、この手紙をもっと広く見ていくことにしますが、この中に私たちが特別に注目していること、このヘブル人への手紙の中心的なテーマであると私たちが信じているある事実を見ることができます。

古い写本では、この手紙の題名は単に「ヘブル人へ」となっていますが、これはヘブル人のキリスト教徒、あるいは、生まれながらのヘブル人であるキリスト教徒を指していると理解されています。

2025年11月6日木曜日

オースティン-スパークス、『天上に招き給う召し――第一巻』、第一章

天上に招き給う召し――第一巻
The On-High Calling - Volume 1
セオドア・オースティン-スパークス著

第一章 仲間たちの目的
Chapter 1 - The Purpose of Companions

『そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。』(ヘブル3:1)
"Wherefore, holy brethren, partakers of a heavenly calling" (Hebrews 3:1). 

『もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。』(ヘブル3:14)
"For we are become partakers of Christ, if we hold fast the beginning of our confidence firm unto the end" (Hebrews 3:14). 

2025年11月5日水曜日

オースティン-スパークス、『天上に招き給う召し――第一巻』、まえがき

天上に招き給う召し――第一巻
または
キリストと天からの召しの仲間たち
T. オースティン=スパークス著

The On-High Calling - Volume 1
or
COMPANIONS OF CHRIST AND OF A HEAVENLY CALLING
by T. Austin-Sparks

1964年にWitness and Testimony Publishersから初版が出版されました。この版はエマニュエル教会より出版されています。

第一巻――大いなる転換

序文
第1章――仲間たちの目的
第2章――仲間たちとは誰か
第3章――主の食卓と仲間たち

2025年5月9日金曜日

祈りのハイド(5/5)、フランシス・A・マッゴー著

祈りのハイド
PRAYING HYDE

フランシス・A・マッゴー著
FRANCIS A. McGAW
瀬尾要造訳
いのちのことば社

21.詩篇二二篇

私は、ジョンの姉妹メリーにあてた手紙の中に、この驚くべきメシヤ詩篇について以下のような注釈が残されていたことを神に感謝するものです。彼は聖句をしるさず、箇所のみをしるしているので、私が聖句を書き加えました。少々配列を変えましたが、注釈は親愛なるジョン自身のものです。

詩篇二二篇
一、二節――「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。」

2025年5月8日木曜日

祈りのハイド(4/5)、フランシス・A・マッゴー著

祈りのハイド
PRAYING HYDE

フランシス・A・マッゴー著
FRANCIS A. McGAW
瀬尾要造訳
いのちのことば社

17.変えられた人々

ひとりの婦人宣教師の生涯と奉仕にどのような影響を与えたかを見ましょう。彼女は長年その教区で熱心に働きましたが、これという結果を見ることができませんでした。ある日、彼女はハイドの祈りの生活についての記事を読み、神のことばと御旨を学ぶため、祈りと神を待ち望むことに自分の最良の時間をささげる決心をしました。彼女は祈りを第一とし、それまでしてきたように第二にすることはありませんでした。彼女は神の力によって祈りの生活を始めました。神は彼女に語られました。「わたしを呼び求めよ。そうすれば、わたしは、あなたの理解を越えた大いなることをあなたに示そう。あなたはわたしに呼び求めなかったから、これらのことをあなたの働きの中に見ることがないのだ。」彼女はしるしています。「私はどのような犠牲を払っても、主を知り、この祈りの生活を実現しなければならないと感じました。そしてついに心中の戦いはやみ、勝利を得たのでした。」彼女が祈った一つのことは、神が彼女を隠しておかれるようにということでした。彼女が小羊に従う者であろうとするなら、誤解されることがあっても、黙して、自己弁護のために口を開いてはならないのです。

2025年5月7日水曜日

祈りのハイド(3/5)、フランシス・A・マッゴー著

祈りのハイド
PRAYING HYDE

フランシス・A・マッゴー著
FRANCIS A. McGAW
瀬尾要造訳
いのちのことば社

14.一九〇九年の聖会―一日にふたり

再びジョン・ハイドは、明確で執拗な求めによって神のみこころをとらえました。今度は、一日にふたりのたましいを、というものでした。この聖会において、神はこれまでよりもいっそう力強く彼をお用いになりました。神はそのしもべジョン・ハイドを通して語られました。息を殺して、すべての学課のうちで最も神聖なもの――彼が、私たちの罪のために打ち砕かれたキリストのみこころに私たちをあずからせたこと――についてお話ししましょう。神はこの啓示を一度に現して私たちを圧倒することはなさいませんでした。それに耐え得る私たちの能力に応じて、静かに、またやさしく啓示されました。ああ、「みこころを深く悲しませる」全世界の邪悪によって引き裂かれた愛のみこころを、主がどのように示されたかを、だれが忘れることができるでしょう。

2025年5月6日火曜日

祈りのハイド(2/5)、フランシス・A・マッゴー著

祈りのハイド
PRAYING HYDE

フランシス・A・マッゴー著
FRANCIS A. McGAW
瀬尾要造訳
いのちのことば社

9.一九〇五年の聖会――「罪のための嘆き」

パンジャブ祈禱同盟は、毎年春に年会をもちました。しかし、この集会の準備として、指導者たちは多くの時を、祈りと断食と徹夜の見張りに費やしました。そして、同盟の人々が集まると、次の年のために神の指導を仰ぐのです。ひとりの兄弟はこうしるしています。「一九〇五年早々の年会において、神は私たちの心に、罪に沈みゆく世のための重荷を負わせられました。私たちはある程度まで、キリストのご苦難を分担することを許されました。それは、一九〇五年の秋に開かれる聖会のための栄光ある準備でした。」

2025年5月5日月曜日

祈りのハイド(1/5)、フランシス・A・マッゴー著

祈りのハイド
PRAYING HYDE

フランシス・A・マッゴー著
FRANCIS A. McGAW
瀬尾要造訳
いのちのことば社

1.家庭内のキリスト

「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」(ルカ一九・五)とイエスは言われました。その日はザアカイにとって、何という恵みの時であったことでしょう。キリストが家に来られたのですから。

人々がしばしば「祈りの使徒」と呼ぶジョン・ハイドは、イエスが常に臨在され、たえず祈りがささげられる家庭に育ちました。私は、ジョンの父である神学博士スミス・ハリス・ハイド氏とは、彼がイリノイ州カルセージの長老教会で牧会していた十七年間、親しくしていました。シカゴのヘリック・ジョンソン博士は永眠する少し前に、ハイド氏についてこう書いています。

2025年5月3日土曜日

オースティン・スパークス、『キリストの学校』、第八章 神の愛を支配する法

キリストの学校
T. オースティン スパークス著
The School of Christ by T. Austin-Sparks 

第八章 神の愛を支配する法

ヨハネ1章4節、2章3節、3章3節、4章13~14節、5章5~9節、6章33~35節、9章1~7節、11章1~6節、17節、21節、23節、25~26節。

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。(ヨハネ1章4節)

ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。(ヨハネ2章3節)

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3章3節)

2025年3月7日金曜日

オースティン・スパークス、『キリストの学校』、第七章 油注ぎのもとで学ぶ

キリストの学校
T. オースティン スパークス著
The School of Christ by T. Austin-Sparks

第七章 油注ぎのもとで学ぶ

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。(マタイ11:29

そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」ヨハネ1:51

こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。マタイ3:16

2024年12月30日月曜日

オースティン・スパークス、『キリストの学校』、第六章 開かれた天

キリストの学校
T・オースティン-スパークス著
The School of Christ by T. Austin-Sparks 

第六章 開かれた天

私たちは、これまでの瞑想の中で、キリストの学校にいることの意味を考えるように導かれてきました。この学校では、すべての学び、すべての指導、すべての訓練が、キリストを知ること、キリストを学ぶこと、キリストについて学ぶのではなく、キリストを学ぶことに向けられています。ものごとを平易、かつ、明確にしようとするときに、これはもっとも難しい点です。私たちは、キリストに関する多くのことがらを教義、教えとして取り上げることはできますが、それは私たちが求めていることではありません。それは、主が求めているものとは全く違います。求められているのはキリストご自身です。キリストご自身が、すべての真理、すべてのいのちの生きた個人的な具現化、人格化であって、主の私たちに対する目的と願いは、さまざまな側面から見た真理を知るようになることではなく、ある一人のお方、そのお方の生きた人格を、生きたかたちで知ることであり、また、その人格が私たちに伝えられ、私たちがその人格へと組み込まれることによって、すべての真理が、単なる理論的、方法論的な真理ではなく、生きた真理となることにあります。

2024年11月1日金曜日

『神への渇き』、第十章―生活の聖礼典(サクラメント)終章

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第十章―生活の聖礼典(サクラメント)

だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。――第一コリント一〇・三一

心の平和に到達しようとするキリスト者が出会う最大の邪魔ものの一つは、われわれの生活を聖と俗との二面に分ける、あの広く行われている習慣である。この二つの面は別々に存在し、道徳的にも霊的にも両立出来ないものと考えられている。そして、われわれは生活の必要上その一方から他方へ常に行ったり来たりしているので、私たちの生活は破綻してしまい、統一した生活が出来なくなって、分裂した生活を営むようになりやすい。

2024年10月24日木曜日

『神への渇き』、第九章―柔和と魂の安息

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第九章―柔和と魂の安息

柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。――マタイ五・五

山上の垂訓をひっくり返しにして、「これが人類の姿だ」と言ったら、それは人類の真相をかなり正確に伝えたものと言っていいだろう。なぜなら、山上の垂訓で説かれているいろいろな徳目の正反対が、人間の生活および行為のいちじるしい特徴になっているからである。

2024年10月20日日曜日

『神への渇き』、第八章―創造主と被造物との正しい関係の回復

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第八章―創造主と被造物との正しい関係の回復

神よ、みずからを天よりも高くし、みさかえを全地の上にあげてください。――詩篇五七・五

自然界の秩序が正しい関係に基づいていることは明白なる事実である。つまり、万物が調和して存在するためには、おのおのの物がお互いの関係において正しい場所におかれていなければならないのである。人間の生活もやはりそうである。

2024年9月17日火曜日

『神への渇き』、第七章―魂の凝視

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第七章―魂の凝視

信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。――ヘブルー二・二

第六章で述べたあの知的な常識人がはじめて聖書を読むようになったと仮定してみよう。彼はその内容については何の予備知識もなしに、聖書に近づく。彼は全然偏見を持っていない、別に何かを証明しようとするのでもなく、また弁護しようとするのでもない。

2024年8月29日木曜日

『神への渇き』、第六章―語る声

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第六章―語る声

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。――ヨハネ一・一

キリスト教の真理について教えられたことのない知的な常識人が右の聖句に出会った場合、彼はおそらく、ヨハネは、語ること、つまり自己の思いを他の者に伝えることが神の性質である、と教えるつもりだったのだ、と結論することだろう。そして、その結論は正しいと言えよう。言葉は思想を表わす手段である。それが永遠なる御子に適用されるとき、自己表現は神性に内在するものであり、神は永遠に御自身を被造物に向かって語ろうとしておられるという信仰にわれわれは導かれる。聖書全体がこの思想を支持している。神は常に語っておられる。神は語られた、ではない、神は語りつつあるのだ。神はその御性質のゆえに絶えず明瞭に語っておられる。神は世界をその語る声をもって満たしておられるのである。

2024年8月28日水曜日

オースティン・スパークス、『キリストの学校』、第五章 いのちの光

キリストの学校
T・オースティン-スパークス著
The School of Christ by T. Austin-Sparks 

第五章 いのちの光

『すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現われた。その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。主の栄光が東向きの門を通って宮にはいって来た。霊は私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。なんと、主の栄光は神殿に満ちていた。』(エゼキエル43・2、4~5)

『彼は私を、北の門を通って神殿の前に連れて行った。私が見ると、なんと、主の栄光が主の神殿に満ちていた。そこで、私はひれ伏した。』(エゼキエル44・4)

2024年8月14日水曜日

『神への渇き』、第五章―宇宙における神の内在

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第五章―宇宙における神の内在

わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。
わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。
――詩篇一三九・七

すべてキリスト教の教えの中には、ある種の基本的な真理が含まれている。それは時には隠されており、また積極的に主張されるよりもむしろ当然のこととして前提されているが、しかもあらゆる真理にとって必要なのである。それはちょうど、原色が完成された絵画にとって必要であるのに似ている。このような基本的真理が神の内在ということである。

2024年7月27日土曜日

『神への渇き』、第四章―神を捉えること

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第四章―神を捉えること

味わい、これを見つめよ。――詩篇三四・八

二十五年以上も前に、神に対する普通人の持つ信仰の推論的性格に注意を換起したのは、インドのキャノン・ホウムズであった。たいていの人々にとっては、神は推論であって、実在ではない。つまり、神は彼らが十分だと考える証拠から演釈されたものではあるが、個人によって親しく知られることはないのである。彼らは言う、「神はあるにちがいない、だからわれわれは神があると信ずるのだ」これはまだよい方で、そこまですら行っていない人たちもいる。彼は神については噂で知っているだけなのだ。彼らは自分で考えぬく労をとることなく、他の人たちから神様の話を聞き、神に対する信仰を、彼らの全信条を形成しているいろいろながらくたと一緒に、心の奥の方に投げ込んだままでいる。さらに他の人々にとっては、神は一つの理想、すなわち真や善や美の別名にすぎない。あるいは、神は法則とか生命とか、存在現象の背後にある創造的衝動とかに考えられている。