2024年10月24日木曜日

『神への渇き』、第九章―柔和と魂の安息

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第九章―柔和と魂の安息

柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。――マタイ五・五

山上の垂訓をひっくり返しにして、「これが人類の姿だ」と言ったら、それは人類の真相をかなり正確に伝えたものと言っていいだろう。なぜなら、山上の垂訓で説かれているいろいろな徳目の正反対が、人間の生活および行為のいちじるしい特徴になっているからである。

2024年10月20日日曜日

『神への渇き』、第八章―創造主と被造物との正しい関係の回復

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第八章―創造主と被造物との正しい関係の回復

神よ、みずからを天よりも高くし、みさかえを全地の上にあげてください。――詩篇五七・五

自然界の秩序が正しい関係に基づいていることは明白なる事実である。つまり、万物が調和して存在するためには、おのおのの物がお互いの関係において正しい場所におかれていなければならないのである。人間の生活もやはりそうである。

2024年9月17日火曜日

『神への渇き』、第七章―魂の凝視

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第七章―魂の凝視

信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。――ヘブルー二・二

第六章で述べたあの知的な常識人がはじめて聖書を読むようになったと仮定してみよう。彼はその内容については何の予備知識もなしに、聖書に近づく。彼は全然偏見を持っていない、別に何かを証明しようとするのでもなく、また弁護しようとするのでもない。

2024年8月29日木曜日

『神への渇き』、第六章―語る声

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第六章―語る声

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。――ヨハネ一・一

キリスト教の真理について教えられたことのない知的な常識人が右の聖句に出会った場合、彼はおそらく、ヨハネは、語ること、つまり自己の思いを他の者に伝えることが神の性質である、と教えるつもりだったのだ、と結論することだろう。そして、その結論は正しいと言えよう。言葉は思想を表わす手段である。それが永遠なる御子に適用されるとき、自己表現は神性に内在するものであり、神は永遠に御自身を被造物に向かって語ろうとしておられるという信仰にわれわれは導かれる。聖書全体がこの思想を支持している。神は常に語っておられる。神は語られた、ではない、神は語りつつあるのだ。神はその御性質のゆえに絶えず明瞭に語っておられる。神は世界をその語る声をもって満たしておられるのである。

2024年8月28日水曜日

オースティン・スパークス、『キリストの学校』、第五章 いのちの光

キリストの学校
T・オースティン-スパークス著
The School of Christ by T. Austin-Sparks 

第五章 いのちの光

『すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現われた。その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。主の栄光が東向きの門を通って宮にはいって来た。霊は私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。なんと、主の栄光は神殿に満ちていた。』(エゼキエル43・2、4~5)

『彼は私を、北の門を通って神殿の前に連れて行った。私が見ると、なんと、主の栄光が主の神殿に満ちていた。そこで、私はひれ伏した。』(エゼキエル44・4)

2024年8月14日水曜日

『神への渇き』、第五章―宇宙における神の内在

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第五章―宇宙における神の内在

わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。
わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。
――詩篇一三九・七

すべてキリスト教の教えの中には、ある種の基本的な真理が含まれている。それは時には隠されており、また積極的に主張されるよりもむしろ当然のこととして前提されているが、しかもあらゆる真理にとって必要なのである。それはちょうど、原色が完成された絵画にとって必要であるのに似ている。このような基本的真理が神の内在ということである。

2024年7月27日土曜日

『神への渇き』、第四章―神を捉えること

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第四章―神を捉えること

味わい、これを見つめよ。――詩篇三四・八

二十五年以上も前に、神に対する普通人の持つ信仰の推論的性格に注意を換起したのは、インドのキャノン・ホウムズであった。たいていの人々にとっては、神は推論であって、実在ではない。つまり、神は彼らが十分だと考える証拠から演釈されたものではあるが、個人によって親しく知られることはないのである。彼らは言う、「神はあるにちがいない、だからわれわれは神があると信ずるのだ」これはまだよい方で、そこまですら行っていない人たちもいる。彼は神については噂で知っているだけなのだ。彼らは自分で考えぬく労をとることなく、他の人たちから神様の話を聞き、神に対する信仰を、彼らの全信条を形成しているいろいろながらくたと一緒に、心の奥の方に投げ込んだままでいる。さらに他の人々にとっては、神は一つの理想、すなわち真や善や美の別名にすぎない。あるいは、神は法則とか生命とか、存在現象の背後にある創造的衝動とかに考えられている。