ウォッチマン・ニー
神前有能
第2部、あなたが祈るとき。
第10日
主イエスの名によって祈りなさい
あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。(ヨハネ14.14)
主イエスの名前は、特別なものです。キリストは地上で、この名前を持っていませんでした。地上におられた時の名前はイエスといいました。マタイ伝1章に、そう書かれています。しかし、これに加えてピリピ書2章には、自分を卑しくして、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた主を、神はまた、高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになったことが示されています。この名前とは何でしょう?ピリピ書の2章10~11節を読んでみましょう、『それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。』その名前とは、『イエスの御名』です。主は、地上におられた時も、確かにイエスと呼ばれてはいました。しかし、これは主が天に昇られた後で、与えられた名前です。死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われるまでに、神に従順であったがゆえに、主は、高く上げられて、すべての名にまさる名を与えられたのです。そして、このすべての名にまさる名こそ、イエス様という御名です。
主イエス様の御名が、これほど大きく変わってきたと語ったのは、啓示を受けたパウロだけではありません。主イエス様ご自身さえ、この御名が劇的な変貌を遂げてきたことを示されています。『あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。・・・その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。』(ヨハネ16章24節、26節前半)イエス様は、今日ではなく、『その日には』と言われています。その日が来るのを待ち、それから、わたしの名によって求めるのです。こう語られた日、主はまだ、このすべての名にまさる名を持っていませんでした。しかし、主はすべての名にまさるその名を、『その日』にお受けになるのであり、そして、『その日』に私たちは、父のもとに行って、主の御名によって求めることが許されるのです。
神が私たちの目を開き、天に昇られた後、主イエス様の御名が大きく変わったこと、私たちの心にはとても把握できないほど大きく変わったことを、分からせてくださいますように。その名は神に与えられた名前です。その名は、すべての名にまさるものです。
その名は何を表しているのでしょうか?それは権威に加えて、力を表すものです。何故、その名は権威と力を表しているのでしょうか?『それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。』これが権威というものです。
誰もが、イエスの御名において頭を垂れるべきです。誰もが、イエス様が主であると告白すべきです。すなわち、イエスの名は、神が主に何ものにも勝る権威と力を与えられたことを意味しているのです。
地上で弟子たちと過ごしたの最後の夜、主イエス様はこう言われました、『わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。』(ヨハネ14:13)主は、途方もない価値を持つものを彼らにゆだねました。その御名を彼らに与えたのです。主の御名は権威です。主が私たちに下さったものを超えるものなど、何ひとつありません。主イエス様が委ねられたこの名前を、自分勝手に使ったら何が起こるか、想像してみてください。例として、ここに、大きな権力を持つ人がいるとします。彼が何を指令するとき、その指令は印を押した時から有効となります。その印を他の誰かに渡したとしましょう。この人が下す命令には、その印が押されていますから、権力者は、下される全ての命令に責任を負わねばなりません。この権力者は、どんな人にでも不用意にこの印をゆだねると思いますか?もちろん、そんなことはしません。しかし、主イエス様はその御名を私たちにゆだねました。主イエス様の御名は、すべての名にまさるものです。それなのに、主はその御名を私たちにゆだねたいと願っているのです。その御名を私たちに与えることで、主御自身が負われた責任の重さを、私たちは本当に分かっているでしょうか?そして、私たちが主の名において行うことは何であれ、神がその責任を取ってくださるのです。実にすばらしいことです!主イエス様の名前において行われることは何でも、神は責任を持っています!
この名前は、権威と力、そのものであり、教会の手に委ねられていることを理解しているでしょうか?教会には主の御名を賢く用いる義務があります。私たちはときに、教会が指導者であると言いますが、この名を持つことなしにどうして、人を導くことなどできるでしょう?教会は御国への鍵を持ち、御国を来たらせる責任を担っています。それでも、この御名がなければ、教会には御国への扉を開くことすら叶わないのです。神の目的とは まさしく、教会において、いのちが死を飲み込み、教会を通して、サタンを抑え込むことです。しかし、私たちがこの御名を帯び、その名を正しく使わなければ、この使命を果たすことはできません。従って、この名前が主イエス様によって、教会に与えられたことを、私たちは知らなければなりません。
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