ウォッチマン・ニー
神前有能
第1部、だから、こう祈りなさい。
第1日
なぜ祈るのか?この不可思議
『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。』マタイ7:7
祈りとは霊的な世界において、最もすばらしい行動であり、もっとも不可思議な行いでもあります。祈りとは謎です。そして、祈りについて、いくつかの質問を投げかけて、その答えをじっくり考えてみれば、今よりなお、祈りを取り巻く不思議な性質を理解できるはずです。それは、簡単に答えが見つかる質問ではないからです。しかし、ここで言いたいのは、祈りの不思議さは人にはとうてい理解できないとか、祈りに関わる様々な問題は説明できるものではないといったことではありません。ただ、祈りについて本当によく分かっている人は一握りしかいないことを示しているだけです。こう考えてみると、祈りの中で、神のために多くを為すことができるのは限られた人たちだけです。祈りの力は、どれだけ多く祈るかではなく、私たちの祈りがどれだけ、祈りの原理に沿っているかというところにあります。このような祈りだけに、本当の価値があります。
初めに答えていただきたい質問は、なぜ祈るのでしょう?祈りの効能とは何でしょう?神は全能なうえに、全知なるお方ではなかったでしょうか?ではなぜ、人が祈るのを待ってから、働きを始められるのでしょう?すべてご存知のはずなのに、願っていることを話さなければならないのは何故でしょう(ピリピ4.6)?全能の神はどうして、直接、働かれないのでしょう?なぜ、私たちの祈りを必要とされるのでしょうか?求めた者だけが与えられ、捜した人だけが見つけ、叩いたものだけが中に入れる(マタイ7:7)のは、何故なのでしょう?なぜ神は、『あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです』(ヤコブ4:2)などと言われるのでしょう?
この質問と同時に、私たちはこう問いかけなくてはいけません。祈りは神の御心と相反するものだろうか?祈りと義の関係はどのようなものだろう?
神が決して、ご自身の御心に反することをしないと、私たちは知っています。扉を開けることが神の御心なら、なぜ御自身で開けずに、私たちが叩くまで待たれるのでしょう?主は、人に戸を叩くよう求めたりせずに、御心のままに、自分から、扉を開けたらよいのではないでしょうか?全知なる神は、扉を開けなければ、私たちが中に入れないことはご存知です。ではなぜ、私たちが叩くまで待ってから、開かなければならないのでしょう?扉が開けるためにあり、扉を開けることが神の御心にかなうなら、また、それだけでなく、開けてもらわなければ人は中に入れないことをご存知だったら、なぜ神は私たちが叩くのを待つのでしょう?私たちが扉を叩くことで、神は何か得るところでもあるのでしょうか?
まだ続けて、尋ねるべき質問があります。神の御心は扉を開けることにあり、また、扉を開けることが義にかなっているとしたら、神は私たちが叩かなくても、扉を開けるでしょうか?それとも、神は、御心と義をあえて行わないまま、私たちの祈りを待つでしょうか。神は本当に、扉を開けたいという御心を、私たちが叩かないために、抑えこんだままにしておくでしょうか。
そうなると、神の御心を、私たちが制限することになるのでしょうか?そんな神が本当に全能なのでしょうか?神が全能なら、なぜご自身から扉を開けず、私たちが叩くまで待たなければならないのでしょうか?神は本当に、ご自身の御心を達成することができるのでしょうか?もし、本当にできるなら、なぜ扉を開けること(神の御心)は、私たちが叩くこと(人の祈り)に、支配されるのでしょう?
この全ての質問を通して、祈りが大きな神秘であることが分かってきます。ここに神の働きの原理を見るからです。それは、神の人々が先に祈らなければ、神が立ち上がって働くことはできない、神の御心は、ご自身に属する人々の祈りを通してのみ実現される、そして、信者の祈りが御心を達成するものである、という原理です。神は、一人だけで御心を満たすことはしません。神の人たちが、共に働きたいという思いを祈りの中で示して、はじめて働かれます。
このように考えてみると、祈りとは信者たちが神とともに働くという作業に他ならない、と言うことができます。祈りとは信者たちの思いが、神の御心とひとつになることです。信者が地上で口に出す祈りは、天の主の御心を言葉にしているに過ぎません。祈りとは、神に願いを伝えて、自分の要求を聞き入れ、個人的な願いを満たしてもらうよう求めることではありません。祈りとは、御心を変えて、主が望んでいないことをしてくださいと迫るものでもないのです。そうではなく、祈りとはただ、神の御心を信者の口を通して語ることです。神の前で信者は、主の御心がなりますようにと、祈りの中で願うのです。
祈りによって、神が決めたことが覆ったりはしません。祈りは何も変えません。主が既に定めたことを成し遂げるだけです。しかし、祈りをしないことは、ある変化をきたします。なぜなら、人が祈りをとおして神と共に働かないと、そのために多くの問題の解決が宙に浮いてしまうからです。
『まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです(マタイ18:18)。』私たちがよく知っている主の御言葉ですが、これが祈りについて語っていることに気を付けてください。そして、後にすぐ、キリストの次の言葉が続きます、『まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。(19節)。』
12月20日
美しいものを愛していますか?
すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。
黙示録21:27
この世界のあり方や社会をつぶさに見れば、罪の無残で醜い傷跡が目に留まります。罪は、この世界をみだらに傷つけ、汚し、そこから、一致、調和、美しさを取り去ってしまいました。
とても暗い世界に見えます。神に感謝しましょう。天国はあらゆる魅力、あらゆる調和と美しさにあふれた場所だと言う、明るい約束と展望が示されています。
これはうわべだけの言葉ではあありません。美しいものを愛するなら、地獄は避けた方がいいでしょう。地獄とは、道徳的に醜く、みだらなあらゆるものを具現化した場所だからです。地獄は造られたすべての物の中で最も醜悪なところです。
事実、この世界は、醜いものであふれた地獄と、美しいもので満ちている天国の間に置かれています。ここに住んでいる限り、この両極端な場所のどちらに行くかを考えなければいけない日が来ます。すべてがよい場所か、すべてが悪い場所のどちらかです。
信者である私たちは、永遠なる御子が私たちを救い、美しい天国と、神との永遠の交わりの中に送り出してくれるために来たという、その思いにしっかりと抱かれています。
愛する主よ、あなたの創造されたもの、七色の虹、美しい落日、花が咲き乱れる野原の中に、あなたの恵みと美しさを見せていただけることに感謝します。私たちはそこに、永遠の命を受けた者のために蓄えられている美を見出します。
エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』
子供 Children
ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。 ■ 使徒16:31
なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。 ■ 使徒2:39
あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。 ■ イザヤ54:13
わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。 ■ イザヤ44:3
イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。 ■ マルコ10:14-16
あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。 ■ 詩篇128:3
見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。
若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。
幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。 ■ 詩篇127:3-5
しかし、貧しい者を悩みから高く上げ、その一族を羊の群れのようにされる。 ■ 詩篇107:41
孫たちは老人の冠、子らの光栄は彼らの父である。 ■ 箴言17:6
彼らは自分の幼子たちを羊の群れのように自由にさせ、彼らの子どもたちはとびはねる。 ■ ヨブ21:11
12月18日
神に支配権をゆだねなさい
私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。私はその道を喜んでいますから。
詩篇119:35
自分でもしつこいとは思いますが、これは何度でも繰り返して語る必要があります。私たちの主は、御自分がで命令できない相手を救うことはありません!
神が、私たちに与えてくれた地上の人生は、決断するための期間です。個々の人間は、いずれ住まうことになる永遠の世界に対する決断を、自分で下します。私たちはイエス様、油注がれた救い主、王の王であり、すべての主の主を、そのままのお方として受け取るという決断しなくてはなりません!自分が主に導かれ、自分の人生を主が支配できることを理解しないままで、その人を救い、召すというのは、主のなさることではありません。
罪の根となるものは、神に対する反逆です。そして、地獄は、御心に従うことを拒否する反逆者が、一人ずつ送られるアルカトラズ刑務所です。
地獄がどのようなところか、たくさんの議論があります。そこで人は、炎、燃えたぎる硫黄や蛆虫に耐えなければならないのかもしれません。しかし、地獄と道徳的存在である人への裁きの本質とは、自分は反逆を犯したゆえにそこにいると気づき、それを意識し続けることです!
地獄は、『私は神に何の借りもない』と述べた、すべての不従順な反逆者が永遠に住まう場所となるでしょう。
愛する主よ、恐ろしい地獄の現実が、私たちの教会で語られることは、もうほとんどなくなっています。罪の行く末を誰も恐れないことも、不思議ではないのかもしれません。教会が尻込みせずに、聖書のすべての真実を世界に伝えることができるように私は祈ります。
エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』
12月16日
神の隠れた働き
それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。
テトス3:7
人の胸の内で行われる神の隠れた不思議な働きを、私は信じています。救い主、イエス・キリストの中に、寛容で人を変える力を持った神の恵みを見出した後、私もその働きを信じずにいられなくなりました。
私の父と母は、人間性という面では高い水準にありましたが、神を思う気持ちはまったく持っていませんでした。二人とも、神を求める心が現れることはなく、その態度は冷たく、世俗的で、現実しか見ていないようでした。
こんな100パーセント、不信仰に取り巻かれた環境にいながら、なぜ、私は17歳で、母の屋根裏部屋に続く道を見出し、ひざまずいて、心と人生の全てをイエス・キリストに捧げることができたのでしょう?
理由はとても説明できません。私にただ言えるのは、神の呼びかけを聞く鋭敏さを持った人間の中には、神の秘めた働きとも呼ぶべきものがあるということです。私自身、自分のイエス・キリストへの回心は、はっきり起こった事実であり、他のどんな人の回心と変わるところがなかったと、証しできます!
愛する仲間たちよ、神の霊が今も、あなたの心を揺り動かしているなら、神に感謝してください。そして、光を追いかけて行きなさい!
主よ、ほとんどの信者は、あなたが人の心の中で成す『隠された働き』を、個人的な経験から知っています。私は今日、世界中の犯罪者やテロリストたちの、今はかたくなな心にあなたが働いてくださるよう祈ります。そして、天の御使いたちにも、その働きの成果を喜んでいただけますように!
エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』
12月15日
賛美で手いっぱい
彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主。」
黙示録4:8
死が私たちの態度や性質を変えると願い、また、信じることは、人間にとって、明らかに誤った考え方です。
私が言いたいのはこういうことです。もしこの人生で、天国とその喜びについて語り、歌うことに、本当に心からの幸せを感じていなければ、死が私たちを熱心な信者に変えるはずなどありません!今、神を礼拝し、敬慕する気持ちがないのなら、死ぬ時が来ても、それは重苦しいものでしかないでしょう。
神が、無理やり人を天国に送ろうとされるでしょうか。私には分かりません。神が、誰かに向かって、『あなたは、地上にいる間、私を拝むことに興味がなかったけど、天国に来たら、それがあなたの最大の関心ごとになって、絶え間なく拝み続けるようにしてあげよう』など言うとは、とても思えません。
問題ある発言ですか?
そうかもしれませんが、ヨハネは天国の場面で、生き物たちが昼も夜も絶え間なく、こう叫んでいるところを描いています、『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな!』私が恐れるのは、この世で、神への信仰をうたっている人の多くが、生ける神を褒めたたえ、賛美しようと努めながらも、合間に手を止めている時間が長すぎることです!
主よ、私の人生の全てが、今日のこの日も含めて、あなたへの礼拝の捧げものとなりますように。そして、私が天国に着く時には、あなたを拝む準備が整っていますように。
エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』
ほどこし Charity
幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。
主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、地上でしあわせな者とされる。どうか彼を敵の意のままにさせないでください。 ■ 詩篇41:1-2
寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。 ■ 箴言19:17
祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たちを招きなさい。
その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。 ■ ルカ14:13-14
持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。 ■ ルカ12:33
自分の隣人をさげすむ人は罪人。貧しい者をあわれむ人は幸いだ。 ■ 箴言14:21
与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。 ■ ルカ6:38
彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠に堅く立つ。その角は栄光のうちに高く上げられる。 ■ 詩篇112:9
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。 ■ 1コリ13:13
貧しい者に施す者は不足することがない。しかし目をそむける者は多くののろいを受ける。 ■ 箴言28:27
ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。 ■ 2コリ9:7
ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。
おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。 ■ 箴言11:24-25
私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。 ■ 詩篇37:25
この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。
また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。 ■ 1テモ6:17-18
あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。 ■ 伝道者11:1
飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。 ■ イザヤ58:10
飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。
そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。 ■ イザヤ58:7-8
あなたのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるであろう。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。 ■ 申命14:29
イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 ■ マルコ10:21
その人はいつも情け深く人に貸す。その子孫は祝福を得る。 ■ 詩篇37:26
人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。 ■ マタイ6:1-4
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』 ■ マタイ25:34-40