2016年4月4日月曜日

心から心への言葉[19]主を愛せよ

[19]主を愛せよ
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

主は愛するに値する方です。愛の経験について言えば、献身は、この経験の始まりであり、終わりでもあります。愛のあるところには、いつでも、献身があります。今日の信者は、より多くの愛と献身を求める気持ちが欠けています。愛があるところ、献身は必ずついてきますが、献身があっても、愛は常にあるとは限りません。『たとい、私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ(第1コリント13:3後半)。』この状況は実際に起こりうるのです。外に現れる行動はすべてが、心の内に沸き起こる深い愛に動かされたものでなければなりません。そうでなければ、私たちの主は、献身を受け入れてくれません。その献身は、外に向けた形式にすぎず、まず心に愛があって、そこから生まれたものではないからです。私たちが愛に燃えていますように!主のために労苦し、自分自身と持てるすべてを、愛を持って捧げられますように。『私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか(第1ヨハネ3:18)。』

一方、心の中だけで主を愛しても、外に向けて表すことがなければ、その愛はあまりに弱々しいものです。お金であれ、物であれ、信者の持てる富の扱い方は、そこに主への愛の広さが現れる温度計です。あなたが持つ富のうち、どれだけの部分が主のために使われていますか?どれだけをあなた自身、家族や子供たちのために使っていますか?この質問への答えで、どこまで主を愛しているかが分かります。主のための働きを、生活や子供の世話よりも、軽視していないでしょうか?乏しい中から捧げられるものと、あり余る中から捧げられるもの、主が喜ばれるのはどちらでしょうか?(ルカ21:1~4を参照)

主を愛するものの多くは貧しい人ですが、中には比較的裕福な人もいます。心に愛があれば、貧しいものも銅貨二つを持つのです。本当に主を愛していたら、ふたつの銅貨にあたるものを捧げずに、取っておくことなどできるでしょうか?言い難いことですが、金持ちが捧げるものが、主には食卓から落ちるパンくずのように見なされることは、良くあるのです。『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』(第2コリント8:9)ですから、私たちも主のために、貧しくなるべきです。主の働きを支えたために、日々の生活に必要なものが得られなくなることなど、決してありません。

裕福なキリスト者が主を真に愛していれば、神の聖なる働きを支えながらも、生活に必要なものを何ひとつ切り捨てずにいられます。銀行に預金したお金は、回り回って主に用いられます。彼らが生活の何かを犠牲にしなくていけないとしても、それによっては、主の心はどれほど喜ぶでしょう。捧げることの喜びを知っている人は、なんと少ないことでしょう!この訓戒の言葉は、一般の信者だけではなく、主に仕えるものにも、そのまま当てはまります。収入が限られていても、愛をこのようなかたちで現すことをやめてはいけないのです。旧約聖書の時代のレビ人も十分の一を収めていたことを思い出してください(民数記18:26を参照)。私たちは、主に仕えながら、神のお金を使っているのかも知れませんが、それでも、涙とともに捧げるものを、主が喜ばれいことは決してありません。

(注意しましょう。私たちが与えるものは、主の働きのためです。キリストの真実から離れてしまった教会は数多くあります。彼らが伝えるものは本物の福音ではなく、彼らがすることは神の御心に沿ってはいません。したがって、与えるときは慎重に考えて、神が受け入れるものだけを与え、異説を伝えるものを助けないように気を付ける必要があります。)

最後にひとこと、付け加えさせてください。あなたが持てる富、時間や力を埋もれさせてしまえば、いつか、それを主のために使わなかった過ちを後悔する日が来るでしょう。

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