[21]思いやる心
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
神なる生活の中に、人への思いやりに欠けることがあってはいけません。信者でさえ、生活のうちに、神の恵みが完全に働いていないと、人に対して冷淡で無関心な行動を示すことはよくあるものです。例えば、人のことで心を痛めたり、相手が直面している困難に同情することをしないのです。人への無関心というこの病いは、聖者の間にもよく見られるもので、実は、最も成熟した聖者にすら、あるのです。人への思いやりをなくするのは、気持ちが緩んだときです。このようになってしまうのは、自分の心を完全に抑えることができない人ばかりです。人に無頓着なのは、自分の心を完全に統制できていないものの性格だからです。その心は、いつも千々に乱れており、気持ちを一点に定めることができません。この人は、必要なときも、その場の状況に集中できず、そのため、思慮に欠けているのです。他者とのやり取りにおいては、軽率になりがちです。
自我を大切にしすぎることは、思いやりを無くする大きな原因となります。そのような人は、他者の求めるものに無関心ですが、それは、自分の個人的な関心ごとばかりに心を傾けているからです。例えば、人が寝ているとき、気づかずに物音を立てます。(悲しいことに、時に、それは祈ったり、聖書を読む声なのです!)あるいは、仲間たちと集うとき、個人的な都合に合わせるため、他の人たちを待たせることもあります。また、自分を守るという目的のために、他の人を非難すらします。自分の利益のためには、人を傷つけることすらいといません。このような行いはすべて、十字架の精神が欠けていることから来ています。自分で気づいていても、いなくても、他の人をかえりみず、相手への思いやりを忘れることは、誰にもよくあります。時には、悪気のない、無邪気な考えから、このようにしてしまうこともありますが、それでも、人の心を傷つけてしまうのです。またある時には、人にかかわりを持たないのは、率直で偽りのない気持ちの現れであって、心の中身を隠すことなく出しているのだから、むしろよいことだと考えさえします。
しかし、意図的ではなく、自分で気づいていなかったとしても、人に対して厳しくあることは、御霊の実ではありません。いつでも思いやりにあふれ、人が求めているものを思い、人の困難に同情する心を持ち、また、人を困らせる言葉を口に出さない。こういった行いこそ聖者たちが追い求めるべきものです。主の十字架と御霊の働きは、すべてを打ち壊して作り直す力があり、このおかげで、厳しい性格の人も優しくなれるのです。思いやりのある人になるには、相手の必要なものを思い、苦しみを分かち合う心が必要です。人は、本当の意味で自分のいのちに死ななくてはなりません。そうなって初めて、自分の持つ権利を投げ打ち、苦しみを喜んで受け、他の人のよろこびを求める者となります。私たちは意識が、心を支配するように、自分を訓練しなくてはいけません。そうでないと、心は散漫で、人が求めているものに気持ちが及ばなくなります。『こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです(第2コリント4:12)。』母親を使徒ヨハネにゆだねた時の主イエス様のことばが、私たちにとっての最良の手本です(ヨハネ19:26を参照)。
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