[47]休むことは力
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』(イザヤ30:15後半)
霊的な生活において、人がよく陥る過ちがあります。外から見て忙しく立ち働いているときほど、内面では混乱してしまうのです。忙しさで手一杯にはなっていなくても、やはり、私たちの内なるいのちは乱されています。このような状態ですと、外の状況に対応する能力が失われてしまいます。休むことは、キリスト者の生活における力であると覚える必要があります。神ご自身がこう言われたからです、『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』興奮しやすい人は、神の前に強くありません。心の乱れている人々は主の前で力を持っていません。私たちの強さは、内なる静けさと休息から来ることを、理解しなければいけません。
渦巻く風の奥には中心があります。風は外側では高速で渦巻いていますが、中心はもっとも静かです。同じように、内面が静かな生活が、私たちに力を与えてくれます。外の世界では風が吹き荒れていても、内側は完璧な静けさを保っています。『落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』心が外の騒がしさにかき乱されて、静寂を失うことはあってはいけません。そうなれば、周りの世界に押し流されてしまいます。
海を考えてみてください。表面では、波が高く上がり、風が強く吹きつけもしますが、深い底では、何一つ動くものはありません。静寂に満ちています。海底に棲む生物を調べた人々は、その研究結果から、大洋の底ではほとんど動きがないことを証明したそうです。同じように、キリスト者としての生活においても、静寂と休息が必要です。ゆっくり休むことはできなくても、忙しく働く中に、内なる静けさを保つような者であるべきです。内なる休息があれば、敗北することはありません。どのような状況にあっても、私たちは主の前に、何一つ起こっていないかのように生きることです。主が私たちの中におられて、静穏な人生を求めることを助けてくださっています。
休むことの秘訣とは何でしょう?ひとつはピリピ書4章6~7節に見られます、『何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』
キリスト者が休息を得るための一番の秘訣は、生きていく上で出会うすべてのこと、要求、仕事、必要、困難などを主に打ち明け、真摯にこう告白することです、『主よ、私はこれらすべてをあなたの御手にゆだねます。』こういった問題に直面したら、祈りと願いによって、感謝とともに、それを主にゆだねてください。何が起ころうと、それを神にゆだねてください。ゆだねたその時、神の平安があなたの心を守り始めます。ゆだねさえすれば、主の平安はすぐにでもやってきます。こうなれば、あなたも私も、日の出から日の入りまで、外の世界に押し流されることはなくなります。困難がどれほど大きくても、どのような問題があろうと、神の平安は私たちに留まり、良心を安らかに保ってくれます。
二つ目の秘訣はマタイ11:29に与えられています、『わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。』一つ目の秘訣は信仰であり、二つ目は従順です。神があなたの上に次々と困難な状況を起こすとき、主から与えられた試練に抗ったり、主の御心に逆らい、また、御心とは違うことを求めれば、内なる平和はありません。休息とは献身からやってくることを、覚えてください。困難が起こったとき、ただ、あなたが主から学び、主のくびきを負いさえすれば、自分の思いを遂げることができずにいらだっていても、やはり、心には平安が生まれます。もし、主に向かって、『主よ、あなたが何をして欲しいのであれ、私は喜んでそれをします、』と言えば、間違いなく魂に安らぎを見出すでしょう。人間的な不満や期待は必ず、休息を奪ってしまいます。
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える(エゼキエル36:26)
2016年9月10日土曜日
2016年9月3日土曜日
心から心への言葉[46]貧しさについて
[46]貧しさについて
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
神の子供たちにはひとつの問題があります。ラオデキアの考え方と目的(黙示録3:14以降を参照)を持っていることです。つまり、彼らは現実には貧しいのに、自分は富んでいると思っているのです。霊的なことがらにおいて、何かを持っているか、いないかという問題を解決することは容易ですが、富んでいるか、貧しいかという問題を解決するのはとても難しいことです。持たざる者はたやすく神に出会えるでしょうが、自分を富んでいると考える者が主を見出すことはありません。そのような人が、神の手助けを得るのはもっとも難しいことです。一方で、貧しいものの最大の問題は、自分の貧しさに気づくことの難しさにあります。本当に何ひとつ持たない者にとって、貧しさはあまりに明白な事実であって、容易に認めることができます。ところが、貧しさとは比較の問題であり、富んでいるのか、貧しいのか、自分の状態を定めるのは難しいことです。子供が初めてなにがしかのお金を手にした時、自分が世界一の金持ちであるかのように思いこみ、本当は貧しいことに気付きません。しかし、全く何ひとつ持っていないと想像してみると、いやでも自分の本当の貧しさに気づくでしょう。この世のものを何か少しでも持っていたら、それがいかにつまらないものか、認めることは難しくなります。
霊的な生活において、神は、何も持たない者をどうすればよいか、よくご存知ですが、貧しくてもわずかな物を持っていると、そのわずかな物が自信を持たせてしまうので、大きな問題となります。高ぶりのない貧しさは決して打ち破ることのできない壁ではありませんが、貧しいのに自分を誇る者には、ほとんど希望がありません。したがって、問題は貧しさではなく、その人がラオデキアの教会のようであるか否かというところにあります。悲しむべきことに、多くの神の子供は、ひとつの輪の上をひたすら回るだけで、先へ進むことがありません。その理由はただひとつ、現実には貧しいのに、自分は富んでいると言い切ってしまうことが、その人を殺すのです。
多くの信者が肉について語りながら、肉とはなんであるか、分かっていません。啓示についても話しますが、それが本当に意味するところを知りません。彼らはまた、従順、御国、十字架、自分との葛藤や生まれながらのいのちと言ったことについても、いろいろと語りたがりますが、ご立派な演説をぶっても、自分の貧しさを露呈するだけです。神に触れたことがないのですから、彼らは自分で体験していないものについて、語っていることになります。彼らにできるのは、自分を欺き、自分と同じような人をごまかすことだけです。霊的なことがらにおいては、自分が霊的に富んでいると信じ込んでいる限り、人に富んでいると思ってもらうことはできず、むしろ、霊的な貧しさが誰の目にも明らかになってしまうからです。
貧しいとはどういうことでしょう?霊的な貧しさとは、量の問題ではなく、質の問題です。第1コリント3章は、金、銀、宝石が木、草、わらとは違い、反対の性質を持つものであることを示しています。第2テモテ2章は、金と銀の器を、木や土の器と比較して、その違いを語っています。このふたつが、讃えられるべきものは何か、また、恥ずべきものは何かを教えてくれます。あなたの手の中にあるものが、このふたつのどちらなのかを、教えていただく必要があります。私たちの生きている世界では、大量の木、草、わらを持っていても、貧しいことに変わりはありません。一方、霊的な世界においては、器を持っているだけでは十分ではありません。手の中にあるのが金や銀の器か、それとも、木や土の器なのか、自分に訊いてみなくてはなりません。私たち信者は、自分が霊的な何かを持っているかのように思い込んで、いとも簡単に高ぶってしまいますが、実際には手の中にあるものが何なのかもよく分かっていません。これこそ、霊的に貧しいということです。
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
神の子供たちにはひとつの問題があります。ラオデキアの考え方と目的(黙示録3:14以降を参照)を持っていることです。つまり、彼らは現実には貧しいのに、自分は富んでいると思っているのです。霊的なことがらにおいて、何かを持っているか、いないかという問題を解決することは容易ですが、富んでいるか、貧しいかという問題を解決するのはとても難しいことです。持たざる者はたやすく神に出会えるでしょうが、自分を富んでいると考える者が主を見出すことはありません。そのような人が、神の手助けを得るのはもっとも難しいことです。一方で、貧しいものの最大の問題は、自分の貧しさに気づくことの難しさにあります。本当に何ひとつ持たない者にとって、貧しさはあまりに明白な事実であって、容易に認めることができます。ところが、貧しさとは比較の問題であり、富んでいるのか、貧しいのか、自分の状態を定めるのは難しいことです。子供が初めてなにがしかのお金を手にした時、自分が世界一の金持ちであるかのように思いこみ、本当は貧しいことに気付きません。しかし、全く何ひとつ持っていないと想像してみると、いやでも自分の本当の貧しさに気づくでしょう。この世のものを何か少しでも持っていたら、それがいかにつまらないものか、認めることは難しくなります。
霊的な生活において、神は、何も持たない者をどうすればよいか、よくご存知ですが、貧しくてもわずかな物を持っていると、そのわずかな物が自信を持たせてしまうので、大きな問題となります。高ぶりのない貧しさは決して打ち破ることのできない壁ではありませんが、貧しいのに自分を誇る者には、ほとんど希望がありません。したがって、問題は貧しさではなく、その人がラオデキアの教会のようであるか否かというところにあります。悲しむべきことに、多くの神の子供は、ひとつの輪の上をひたすら回るだけで、先へ進むことがありません。その理由はただひとつ、現実には貧しいのに、自分は富んでいると言い切ってしまうことが、その人を殺すのです。
多くの信者が肉について語りながら、肉とはなんであるか、分かっていません。啓示についても話しますが、それが本当に意味するところを知りません。彼らはまた、従順、御国、十字架、自分との葛藤や生まれながらのいのちと言ったことについても、いろいろと語りたがりますが、ご立派な演説をぶっても、自分の貧しさを露呈するだけです。神に触れたことがないのですから、彼らは自分で体験していないものについて、語っていることになります。彼らにできるのは、自分を欺き、自分と同じような人をごまかすことだけです。霊的なことがらにおいては、自分が霊的に富んでいると信じ込んでいる限り、人に富んでいると思ってもらうことはできず、むしろ、霊的な貧しさが誰の目にも明らかになってしまうからです。
貧しいとはどういうことでしょう?霊的な貧しさとは、量の問題ではなく、質の問題です。第1コリント3章は、金、銀、宝石が木、草、わらとは違い、反対の性質を持つものであることを示しています。第2テモテ2章は、金と銀の器を、木や土の器と比較して、その違いを語っています。このふたつが、讃えられるべきものは何か、また、恥ずべきものは何かを教えてくれます。あなたの手の中にあるものが、このふたつのどちらなのかを、教えていただく必要があります。私たちの生きている世界では、大量の木、草、わらを持っていても、貧しいことに変わりはありません。一方、霊的な世界においては、器を持っているだけでは十分ではありません。手の中にあるのが金や銀の器か、それとも、木や土の器なのか、自分に訊いてみなくてはなりません。私たち信者は、自分が霊的な何かを持っているかのように思い込んで、いとも簡単に高ぶってしまいますが、実際には手の中にあるものが何なのかもよく分かっていません。これこそ、霊的に貧しいということです。
2016年8月23日火曜日
心から心への言葉[45]良心の示す道に従いなさい
[45]良心の示す道に従いなさい
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
自分を欺くことはやめて、御霊に従うことを学び、また、自分の良心の命ずる声を聞きましょう。内なる声から逃げようせず、注意深く耳を傾けてください。御霊に従えば、私たちはどんな時もへりくだって、良心の正す声に耳を傾けることができます。信じる者が、自分の多くの罪をひとつひとつ見つけだして、数え上げることなどできるはずがないと考えて、あいまいで通り一遍の告白をするのは間違ったことです。このような漠然とした告白は、良心の正しい働きを殺してしまいます。このようなことをせず、御霊が良心にふれるにまかせ、自分の罪をひとつづつ、はっきりと現していただくべきです。信者が行うべきはへりくだって、静かに、そして、従順に、良心がひとつひとつの罪を現すのに任せることであり、そうすることで、良心の裁きを受け入れ、神に抗うすべてのものを吐き出したいと願うようになります。
あなたは、良心に、自分の生き方をすべて探っていただこうという考えがありますか?自分の良心に、本当の心の状態を明らかにしてもらう勇気がありますか?自分の良心に願って、あなたの生活とのすべてを、神の御心の前に広げてもらおう思う気持ちを持っていますか?自分の良心を切り開いて、すべての罪をさらけ出してみたいと思っていますか?その考えがなく、そうするつもりもなく、恐れて身を引いてしまうなら、それはあなたのいのちの中に憎むべき多くの罪があることを現しています。その罪は十字架の元へ引き出されなければなりません。それはまた、あなたが神に従順ではなかったこと、御霊にも完全に従ってこなかったことも意味しています。そこには、神との交わりを妨げる何かがあることがはっきり現れています。主に向かって、『あなたと私の間には何の関わりもありません』などと言うことはできません。
良心とは、私たちの精神の窓です。そこは天の光が差し込むところであり、信者の精神とその存在のすべてが光で満たされます。ここに私たちは天の光を見ます。その光は良心を貫いて、私たちの思い、言葉、行いを照らし、私たちの過ちを現して、罪をさらけ出します。良心が働くことを許し、主の命じるままに、自分の罪を取り除けば、その時、天の光はいっそう明るく輝きます。罪を告白せず、取り除くこともなければ、罪の傷跡が残り、良心は汚されます(テトス1:15を参照)。その結果、窓は日ごとに暗くなってゆき、光は中まで入り込むことがなくなります。こうなると信者は、不注意に罪を犯し、それが悪いと気づくこともありません。覆い隠されると良心は鈍くなり、鋭敏さを失います。一方で、信者が自分の精神を研ぎ澄ませば、それだけ、良心も鋭くなってゆきます。
信者にとって、これ以上、告白する必要もなくなるほど、霊的になれることなどありません。どれだけ深遠な知識、精一杯の働き、熱意や鉄の意志をもってしても、良心の鋭敏さの代わりになることはできません。信者が良心をながしろにして、代わりに自分で心と感情を成長させようと考えれば、その人は疑いなく、霊的な旅路において後退して行くことになります。
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
自分を欺くことはやめて、御霊に従うことを学び、また、自分の良心の命ずる声を聞きましょう。内なる声から逃げようせず、注意深く耳を傾けてください。御霊に従えば、私たちはどんな時もへりくだって、良心の正す声に耳を傾けることができます。信じる者が、自分の多くの罪をひとつひとつ見つけだして、数え上げることなどできるはずがないと考えて、あいまいで通り一遍の告白をするのは間違ったことです。このような漠然とした告白は、良心の正しい働きを殺してしまいます。このようなことをせず、御霊が良心にふれるにまかせ、自分の罪をひとつづつ、はっきりと現していただくべきです。信者が行うべきはへりくだって、静かに、そして、従順に、良心がひとつひとつの罪を現すのに任せることであり、そうすることで、良心の裁きを受け入れ、神に抗うすべてのものを吐き出したいと願うようになります。
あなたは、良心に、自分の生き方をすべて探っていただこうという考えがありますか?自分の良心に、本当の心の状態を明らかにしてもらう勇気がありますか?自分の良心に願って、あなたの生活とのすべてを、神の御心の前に広げてもらおう思う気持ちを持っていますか?自分の良心を切り開いて、すべての罪をさらけ出してみたいと思っていますか?その考えがなく、そうするつもりもなく、恐れて身を引いてしまうなら、それはあなたのいのちの中に憎むべき多くの罪があることを現しています。その罪は十字架の元へ引き出されなければなりません。それはまた、あなたが神に従順ではなかったこと、御霊にも完全に従ってこなかったことも意味しています。そこには、神との交わりを妨げる何かがあることがはっきり現れています。主に向かって、『あなたと私の間には何の関わりもありません』などと言うことはできません。
良心とは、私たちの精神の窓です。そこは天の光が差し込むところであり、信者の精神とその存在のすべてが光で満たされます。ここに私たちは天の光を見ます。その光は良心を貫いて、私たちの思い、言葉、行いを照らし、私たちの過ちを現して、罪をさらけ出します。良心が働くことを許し、主の命じるままに、自分の罪を取り除けば、その時、天の光はいっそう明るく輝きます。罪を告白せず、取り除くこともなければ、罪の傷跡が残り、良心は汚されます(テトス1:15を参照)。その結果、窓は日ごとに暗くなってゆき、光は中まで入り込むことがなくなります。こうなると信者は、不注意に罪を犯し、それが悪いと気づくこともありません。覆い隠されると良心は鈍くなり、鋭敏さを失います。一方で、信者が自分の精神を研ぎ澄ませば、それだけ、良心も鋭くなってゆきます。
信者にとって、これ以上、告白する必要もなくなるほど、霊的になれることなどありません。どれだけ深遠な知識、精一杯の働き、熱意や鉄の意志をもってしても、良心の鋭敏さの代わりになることはできません。信者が良心をながしろにして、代わりに自分で心と感情を成長させようと考えれば、その人は疑いなく、霊的な旅路において後退して行くことになります。
2016年8月12日金曜日
心から心への言葉[44]困難は私たちのパン
[44]困難は私たちのパン
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
民数記14章に、カレブがイスラエルの全会衆に向かって言ったことばが記録されています、『ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼ら(背の高いアナク人たち)は私たちのえじきとなるからだ(9節前半)。』彼は、イスラエルの子供たちに、なぜすぐに出発しなければいけないか、なぜ彼らは必ず勝てるのか、そして、その地に住む人々(アナクの子孫であるネフィリム人)は彼らのえじきであり、恐れる必要がないのはなぜなのか、その理由を語りました。えじきとは、食べることで、力が増し加えるものです。アナク人たちがどれだけ立派な体格をしていても、イスラエルの民なら、彼らをたやすく打ち破ることは、カレブの目に確かでした。カレブが神の約束を信じきっていて、困難をものともしなかったからです。
本当に信じる者は、いつでも、主の約束を強く心に抱いているから、苦難にあってもくよくよと悩むことはしません。しかし、だからと言って、高ぶることがあってはいけません。私たちはまず、主の前にへりくだり、それから、主の勝利に立たなくてはなりません。
ですから、困難な状況に立たされたら、そのたびに、こう尋ねることです、『今度は、私は飢えるのですか?それとも食べるのですか?』と。もし、あなたがキリストの力を通して勝利し、そこから主の力が現れるなら、あなたは再び育まれます。あなたの力は強められ、満たされ続けるでしょう。食べなければ誰も成長できないことを、いつも心にとめておきましょう。
とは言え、私たちの食べ物はいつも、神の御言葉の中にだけあるわけではなく、神の御心を行う中でのみ見いだすものでもありません。アナク人も、やはり私たちの食べ物なのです。アナク人は人生で出会う困難の象徴です。多くの人が神の御言葉を食べ、神の御心を行うことを自分の食べ物としてきました。しかし、ネフィリム人をえじきとすることで自分を育ててきたものは多くありません。多くの人は、アナクの子孫たちを、ほんの少ししか食べていないのです。それは多く食べるほど、強くなるものです。この点において、カレブはとても良い模範となります。アナク人をえじきとした彼は、85歳になっても力に満ちていたからです。40歳の時の強さを、85歳になるまで持ち続けました。えじきとなったアナクの多くの子孫たちが、カレブの中に年を取らない人を形作ったのです。
このようなことが、霊的な面では現実に起こります。主にある兄弟姉妹の多くは、人生において大きな苦難がありません。しかし、人は苦難の中にこそ、自分の弱さを見出すものです。このような人たちは、えじきとしたアナク人があまりに少ないため、神の前に何の力もありません。一方では、苦難にぶつかっても、ものともせずに跳ね返し、また、誘惑にも打ち勝つ人も、いたるところで見ることができます。彼らが強いのは、多くのアナク人をえじきにするからです。ですから、私たちも多くの苦難と誘惑を食べることが必要です。私たちの進む道にサタンが置く苦難と誘惑が、パンとなり得るのです。神はこのようにして、私たちが成長する道を整えられます。信仰のないものは、困難にぶつかると希望を失ってしまいます。しかし、信仰を持つ者に主は、『これが私のパンです』と教えてくれます。神を讃え、感謝しましょう。私たちの行く手に置かれる困難や試練の中に、食べられないようなものはありません。食べても成長の助けとならない苦難などありません。苦難が多いほど、大きく成長できるのです。
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
民数記14章に、カレブがイスラエルの全会衆に向かって言ったことばが記録されています、『ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼ら(背の高いアナク人たち)は私たちのえじきとなるからだ(9節前半)。』彼は、イスラエルの子供たちに、なぜすぐに出発しなければいけないか、なぜ彼らは必ず勝てるのか、そして、その地に住む人々(アナクの子孫であるネフィリム人)は彼らのえじきであり、恐れる必要がないのはなぜなのか、その理由を語りました。えじきとは、食べることで、力が増し加えるものです。アナク人たちがどれだけ立派な体格をしていても、イスラエルの民なら、彼らをたやすく打ち破ることは、カレブの目に確かでした。カレブが神の約束を信じきっていて、困難をものともしなかったからです。
本当に信じる者は、いつでも、主の約束を強く心に抱いているから、苦難にあってもくよくよと悩むことはしません。しかし、だからと言って、高ぶることがあってはいけません。私たちはまず、主の前にへりくだり、それから、主の勝利に立たなくてはなりません。
ですから、困難な状況に立たされたら、そのたびに、こう尋ねることです、『今度は、私は飢えるのですか?それとも食べるのですか?』と。もし、あなたがキリストの力を通して勝利し、そこから主の力が現れるなら、あなたは再び育まれます。あなたの力は強められ、満たされ続けるでしょう。食べなければ誰も成長できないことを、いつも心にとめておきましょう。
とは言え、私たちの食べ物はいつも、神の御言葉の中にだけあるわけではなく、神の御心を行う中でのみ見いだすものでもありません。アナク人も、やはり私たちの食べ物なのです。アナク人は人生で出会う困難の象徴です。多くの人が神の御言葉を食べ、神の御心を行うことを自分の食べ物としてきました。しかし、ネフィリム人をえじきとすることで自分を育ててきたものは多くありません。多くの人は、アナクの子孫たちを、ほんの少ししか食べていないのです。それは多く食べるほど、強くなるものです。この点において、カレブはとても良い模範となります。アナク人をえじきとした彼は、85歳になっても力に満ちていたからです。40歳の時の強さを、85歳になるまで持ち続けました。えじきとなったアナクの多くの子孫たちが、カレブの中に年を取らない人を形作ったのです。
このようなことが、霊的な面では現実に起こります。主にある兄弟姉妹の多くは、人生において大きな苦難がありません。しかし、人は苦難の中にこそ、自分の弱さを見出すものです。このような人たちは、えじきとしたアナク人があまりに少ないため、神の前に何の力もありません。一方では、苦難にぶつかっても、ものともせずに跳ね返し、また、誘惑にも打ち勝つ人も、いたるところで見ることができます。彼らが強いのは、多くのアナク人をえじきにするからです。ですから、私たちも多くの苦難と誘惑を食べることが必要です。私たちの進む道にサタンが置く苦難と誘惑が、パンとなり得るのです。神はこのようにして、私たちが成長する道を整えられます。信仰のないものは、困難にぶつかると希望を失ってしまいます。しかし、信仰を持つ者に主は、『これが私のパンです』と教えてくれます。神を讃え、感謝しましょう。私たちの行く手に置かれる困難や試練の中に、食べられないようなものはありません。食べても成長の助けとならない苦難などありません。苦難が多いほど、大きく成長できるのです。
2016年7月31日日曜日
心から心への言葉[43]神のあわれみ
[43]神のあわれみ
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
『したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。』(ローマ9:16)熱意を持って、神を追い求めることは自分への助けとなります。とは言え、熱心であること、自分自身を探し求めること自体は、意味のないことです。長く待ちすぎることは、まったく待たないのと同じです。走るのに速すぎても、遅すぎても、どちらでもよいことです。あまりに多く聞きすぎても、少なく聞き過ぎても、違いはありません。私たちがすることはすべて、神の哀れみだけに頼っています。御霊だけが、人をまっすぐな道へと導き、その道を歩かせてくれます。少なくとも一生に一度、神のあわれみがどのようなものかを見極めることがどうしても必要です。もちろん、主の哀れみをより多く体験するほど、あなたは成長してゆきます。ある一瞬ですべてを目の当たりにするにせよ、人生全体を通して見続けるにせよ、主の哀れみにふれるときは必ず、そこに霊的な真実を見出すはずです。それはただ心に感じているだけでなく、現実であり、すべてが神のあわれみなのです。
神の哀れみは事実であって、心の中にだけあるものではありません。例として、『生まれ変わる』ことを考えてみましょう。私たちはいつも罪人にこう言います、『あなたははっきりと悔い改めて、少なくとも一度は主を信じなくてはいけません。』また、信者にはこんなふうに言います、『あなたははっきりと一度、自分を聖別しなくてはいけません。』同じように、神の哀れみを知るためには、あなたも神の哀れみにはっきりと出会うことが必要です。
神にいつも手助けしてもらえる3種類の人があります。強い意志を持った人たち、強い感情を持った人たち、そして、強い心を持つ人たちです。多くの人は、この3つの強さのうち、一つ以上に支配されています。この3つの強さのすべてを、神に砕いていただかなくてはいけません。神は、人の弱いところではなく、強いところに手を下そうと考えておられます。人の強さが、弱さよりも、霊的な成長を妨げることが多いのです。この3つの強さを変えていただかなくては、神のあわれみを認めることはできません。
神の助けを受けた後は、霊的な生活が変えられていくことを体験するでしょう。人生の多くの場面で、何かが多すぎたり、少なすぎたりすること、長く待ち過ぎること、まったく待たないことも、妨げとなります。私たちの霊的な生活の中にこのような面があれば、それは正さなければなりません。信者の中には、内なる人が十分、成長しきっておらず、外なる人のほうが強すぎるものがいます。これは、ごく普通の体型の場合、頭の長さは体全体の7分の一であることに例えることができます。もし頭の大きさが体全体の4分の一、または、16分の一であったら、どちらの場合もうまく行かないでしょう。心があまりに強すぎる人がおり、また、感情が激しすぎる人もいます。どちらの場合も、内なる人が十分、大きくありません。どちらの場合も、状況を補正してゆくことが求められます。
私たちに本物のへりくだりをさせてくれるのは、神の哀れみしかありません。小さな苦悩を難なく乗り切ったために人の心は高ぶることがあります。一方では、大きな苦悩を必死で乗り越えることが、人にヘリ下りをもたらしてくれるのです。
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
『したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。』(ローマ9:16)熱意を持って、神を追い求めることは自分への助けとなります。とは言え、熱心であること、自分自身を探し求めること自体は、意味のないことです。長く待ちすぎることは、まったく待たないのと同じです。走るのに速すぎても、遅すぎても、どちらでもよいことです。あまりに多く聞きすぎても、少なく聞き過ぎても、違いはありません。私たちがすることはすべて、神の哀れみだけに頼っています。御霊だけが、人をまっすぐな道へと導き、その道を歩かせてくれます。少なくとも一生に一度、神のあわれみがどのようなものかを見極めることがどうしても必要です。もちろん、主の哀れみをより多く体験するほど、あなたは成長してゆきます。ある一瞬ですべてを目の当たりにするにせよ、人生全体を通して見続けるにせよ、主の哀れみにふれるときは必ず、そこに霊的な真実を見出すはずです。それはただ心に感じているだけでなく、現実であり、すべてが神のあわれみなのです。
神の哀れみは事実であって、心の中にだけあるものではありません。例として、『生まれ変わる』ことを考えてみましょう。私たちはいつも罪人にこう言います、『あなたははっきりと悔い改めて、少なくとも一度は主を信じなくてはいけません。』また、信者にはこんなふうに言います、『あなたははっきりと一度、自分を聖別しなくてはいけません。』同じように、神の哀れみを知るためには、あなたも神の哀れみにはっきりと出会うことが必要です。
神にいつも手助けしてもらえる3種類の人があります。強い意志を持った人たち、強い感情を持った人たち、そして、強い心を持つ人たちです。多くの人は、この3つの強さのうち、一つ以上に支配されています。この3つの強さのすべてを、神に砕いていただかなくてはいけません。神は、人の弱いところではなく、強いところに手を下そうと考えておられます。人の強さが、弱さよりも、霊的な成長を妨げることが多いのです。この3つの強さを変えていただかなくては、神のあわれみを認めることはできません。
神の助けを受けた後は、霊的な生活が変えられていくことを体験するでしょう。人生の多くの場面で、何かが多すぎたり、少なすぎたりすること、長く待ち過ぎること、まったく待たないことも、妨げとなります。私たちの霊的な生活の中にこのような面があれば、それは正さなければなりません。信者の中には、内なる人が十分、成長しきっておらず、外なる人のほうが強すぎるものがいます。これは、ごく普通の体型の場合、頭の長さは体全体の7分の一であることに例えることができます。もし頭の大きさが体全体の4分の一、または、16分の一であったら、どちらの場合もうまく行かないでしょう。心があまりに強すぎる人がおり、また、感情が激しすぎる人もいます。どちらの場合も、内なる人が十分、大きくありません。どちらの場合も、状況を補正してゆくことが求められます。
私たちに本物のへりくだりをさせてくれるのは、神の哀れみしかありません。小さな苦悩を難なく乗り切ったために人の心は高ぶることがあります。一方では、大きな苦悩を必死で乗り越えることが、人にヘリ下りをもたらしてくれるのです。
2016年7月19日火曜日
心から心への言葉[42]御霊に従うためには
[42]御霊に従うためには
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
御霊が、私たちの精神の中に入らなければ、霊的な感性を持つことはできません。しかし、御霊が中に入っていなくても、私たちの心は、自分の考えを形作ることはできます。ただ、自分なりに心を用いればよいのです。キリスト者は、精神を通じて神と交わります。神は、精神のうちに住まわれるからです。精神によって、人間は神の御霊の動きを感じ取ることができます。これが、神と交わりを持ち、神を知り、神の御心を知ることを可能とするのです。救われるまでは、誰もが自分の心により頼んできました。しかし、救われた後も、自分の心だけを用いて、内なる御霊の動きに従うことをしなければ、キリスト者としての歩みにおいて、大きな間違いを犯すことになるでしょう。
神の御霊に従うにはどうすればよいか、キリスト者となって何年経っても学ぶことがなければ、御霊の導く手が自分に触れても気がつかないでしょう。御霊が、私たちの中に入り込んできてはじめて、御霊が触れていることを感じ取ります。そこで初めて、自分の心で考え、内なる御霊の動きの意味を理解することになります。しかし、御霊が中で動き始めても、個人的なことばかりに心を奪われていれば、すべては失われてしまいます。
私たちは、もともと賢い人ほど神に関わるものごとを早く理解できるし、生まれつき鈍い人は霊的な事柄を学ぶにも時間がかかると思いがちです。しかし、神のみ言葉のどこにも、そのようなことは言われていません。聖書にはこうあります、『それは、こう書いてあるからです。わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。』(第1コリント1:19)神は、賢いものもおろかなものも同じ高さに置かれます。どちらも神の前には役に立たないものです。どちらも、啓示が必要だからです。
神は、人間と相談する必要などありません。『だれが主の相談相手であっただろうか。』(ローマ11:34新共同訳)神は、ご自身の御心だけによって働かれるのであり、人がこうあるべきと思うように働くのではありません。神は、こう語られました、『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。』(ローマ9:13)また、神は、こうも言われました、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。』(15節)ここに現れているように、神は、ご自身の思うところのみによって働かれるのであり、人間的な論拠、視点や公平性にたって働かれることはありません。神に従うにあたって、自分の視点、論拠や公正さに基づいて行うなら、神に対して、人間の良識に従うよう求めていることになります。しかし、私たちは神の奴隷であり、塵に過ぎません。私たちにできるのは、神の御座の前にひれ伏すことだけです。神に言葉を返すことなど、どうしてできるでしょう?
すなわち、内なる御霊の動きにつき従う以外に道はないのです。私たちが立つべき土台は服従のみであり、対話ではありません。人が、神の話し相手になることなどできません。人の心は、いつも何かの論拠を探し求め、そこに意味があるか、どうかを考えています。しかし、神は人間に説得してもらうことなど欲していません。ただ、ご自身の御心を行うよう望まれています。主は、私たちと比べることすらできないお方だからです。神と人との間の距離は、あまりにかけ離れていて、測るすべもありません。どんな人間も、神の栄光に近づくことさえできません。神の栄光をほんのわずかでも垣間見たら、私たちは人間的な論拠などすべて投げ出して、主の前にへりくだり、ひれ伏すしかなくなります。ですから、人間の論拠という器官を用いながら、神に従い、御心を知ることはできません。まずは、別の器官を使わなければいけません。それは、人間の霊と言う器官です。
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
御霊が、私たちの精神の中に入らなければ、霊的な感性を持つことはできません。しかし、御霊が中に入っていなくても、私たちの心は、自分の考えを形作ることはできます。ただ、自分なりに心を用いればよいのです。キリスト者は、精神を通じて神と交わります。神は、精神のうちに住まわれるからです。精神によって、人間は神の御霊の動きを感じ取ることができます。これが、神と交わりを持ち、神を知り、神の御心を知ることを可能とするのです。救われるまでは、誰もが自分の心により頼んできました。しかし、救われた後も、自分の心だけを用いて、内なる御霊の動きに従うことをしなければ、キリスト者としての歩みにおいて、大きな間違いを犯すことになるでしょう。
神の御霊に従うにはどうすればよいか、キリスト者となって何年経っても学ぶことがなければ、御霊の導く手が自分に触れても気がつかないでしょう。御霊が、私たちの中に入り込んできてはじめて、御霊が触れていることを感じ取ります。そこで初めて、自分の心で考え、内なる御霊の動きの意味を理解することになります。しかし、御霊が中で動き始めても、個人的なことばかりに心を奪われていれば、すべては失われてしまいます。
私たちは、もともと賢い人ほど神に関わるものごとを早く理解できるし、生まれつき鈍い人は霊的な事柄を学ぶにも時間がかかると思いがちです。しかし、神のみ言葉のどこにも、そのようなことは言われていません。聖書にはこうあります、『それは、こう書いてあるからです。わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。』(第1コリント1:19)神は、賢いものもおろかなものも同じ高さに置かれます。どちらも神の前には役に立たないものです。どちらも、啓示が必要だからです。
神は、人間と相談する必要などありません。『だれが主の相談相手であっただろうか。』(ローマ11:34新共同訳)神は、ご自身の御心だけによって働かれるのであり、人がこうあるべきと思うように働くのではありません。神は、こう語られました、『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。』(ローマ9:13)また、神は、こうも言われました、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。』(15節)ここに現れているように、神は、ご自身の思うところのみによって働かれるのであり、人間的な論拠、視点や公平性にたって働かれることはありません。神に従うにあたって、自分の視点、論拠や公正さに基づいて行うなら、神に対して、人間の良識に従うよう求めていることになります。しかし、私たちは神の奴隷であり、塵に過ぎません。私たちにできるのは、神の御座の前にひれ伏すことだけです。神に言葉を返すことなど、どうしてできるでしょう?
すなわち、内なる御霊の動きにつき従う以外に道はないのです。私たちが立つべき土台は服従のみであり、対話ではありません。人が、神の話し相手になることなどできません。人の心は、いつも何かの論拠を探し求め、そこに意味があるか、どうかを考えています。しかし、神は人間に説得してもらうことなど欲していません。ただ、ご自身の御心を行うよう望まれています。主は、私たちと比べることすらできないお方だからです。神と人との間の距離は、あまりにかけ離れていて、測るすべもありません。どんな人間も、神の栄光に近づくことさえできません。神の栄光をほんのわずかでも垣間見たら、私たちは人間的な論拠などすべて投げ出して、主の前にへりくだり、ひれ伏すしかなくなります。ですから、人間の論拠という器官を用いながら、神に従い、御心を知ることはできません。まずは、別の器官を使わなければいけません。それは、人間の霊と言う器官です。
2016年7月10日日曜日
心から心への言葉[41]霊の敏感さについて
[41]霊の敏感さについて
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
パウロは旧約聖書からの言葉を引用していますが、引用のしかたは、当時のパリサイ人とは大いに違っています。パウロには御霊がありましたが、パリサイ人にありませんでした(ヨハネ5:39-40を参照)。霊的な事柄においては、『類似』とは、教えの内容が完全にひとつであることを意味していません。そこには、異なった内なる事実が込められているはずです。似ていることは、同一であることとも違います。彼らは完全に違っています。誰かの声色、身振りや教えまでそっくりに真似できるとしましょう。すべてがその人と同じように聞こえるかもしれませんが、しかしそこには、精神が欠けています。それは、文字にすぎません。キリスト信仰の基本となるのは、そこに御霊が臨在するかどうかです。
マタイ伝7章で、主はこう言われています。来るべき日、主の裁きの座で、一群の人々が御前に引き出されます。その人たちは、主の名によって熱心に預言をし、悪霊を追い出し、また、奇蹟をたくさん行なってきたのですが、主が彼らにかける言葉は、『わたしはあなたがたを全然知らない』(22~23節)。ここから分かるように、どれだけ熱心に主に仕え、主の権威の下に悪霊を追い出したり、大きな奇跡を行ったとしても、問題の核心は、私たちがどれほどのことを成したかではなく、その行いが肉から生まれたか、または、御霊から生まれたかにあるのです。霊的な心に感じるものは、すべて御霊から生まれたものです。主に受け入れてもらえるのはこれだけです。内住の御霊は、私たちの生まれかわった心に、何かが本当に御霊から来ているか、見極める感性を与えてくれます。御霊は、私たちを急がせたり、押さえつけたりし、また、歩かせることも、引き止めることもあります。霊的なものを感じ取る力があれば、御霊の道に沿って生き、仕えるにはどうすればよいか、理解できます。
これは馬の口に噛ませたくつわに例えると分かりやすいでしょう。乗り手は手綱を引いて、自分の思う方向に馬を進めます。乗り手が小さな動きを見せるだけで、馬は曲がるのか、まっすぐ進むのか、もっと早く走るのか、それとも、速度を落とすのか、ただちに理解します。手綱を引かれると、馬は手の動きを感じ取り、乗り手の行きたい方向に進みます。気づかないほど小さな手の動きで、乗り手は馬を思いのままに操ることができます。
同じやり方で、御霊は私たちの心の中を動かします。私たちがあまりに話しすぎると、主は懲らしめを与えます。道に迷いそうなときは、声をかけて教えてくれます。ある兄弟は証しの中で、救われるまでの自分は、晩餐の席でいつも注目の的だったと話しました。しかし、救われた後、彼はどの晩さん会に行っても注目を浴びることはなくなりました。話しすぎた日はいつも、家に帰った後でいやな気持ちになるからです。それまでの彼は、話を聞いてくれる人が多いほど、高揚した気分になったものでした。しかし今や、聞き手の数が多ければ多いほど、落ち込むようになったのです。これは御霊の導きでした。
あなたが、ある人に福音を伝えるように導かれたと感じたとしましょう。これは御霊がそうさせているためです。御霊が、その導きを伝え、あなたの霊のうちにそのような気持ちを引き起こしています。あなたがその導きに、どこまでも従いぬくなら、結果として、あなたは平安と喜びを感じます。私たちが生きて、御霊に仕えているときは、内なる御霊の動きに従っているだけなのです。走っている馬と同じです。馬は何をすべきか、自分で考えているのではなく、乗り手の指示にしたがっているに過ぎません。馬は、人の手の動きの意味をいくつか知っているだけですが、示されるとおり、前に進みます。私たちも、内に住まう御霊が動くのを感じとれたら、聖霊に忠実に従うことができます。
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
パウロは旧約聖書からの言葉を引用していますが、引用のしかたは、当時のパリサイ人とは大いに違っています。パウロには御霊がありましたが、パリサイ人にありませんでした(ヨハネ5:39-40を参照)。霊的な事柄においては、『類似』とは、教えの内容が完全にひとつであることを意味していません。そこには、異なった内なる事実が込められているはずです。似ていることは、同一であることとも違います。彼らは完全に違っています。誰かの声色、身振りや教えまでそっくりに真似できるとしましょう。すべてがその人と同じように聞こえるかもしれませんが、しかしそこには、精神が欠けています。それは、文字にすぎません。キリスト信仰の基本となるのは、そこに御霊が臨在するかどうかです。
マタイ伝7章で、主はこう言われています。来るべき日、主の裁きの座で、一群の人々が御前に引き出されます。その人たちは、主の名によって熱心に預言をし、悪霊を追い出し、また、奇蹟をたくさん行なってきたのですが、主が彼らにかける言葉は、『わたしはあなたがたを全然知らない』(22~23節)。ここから分かるように、どれだけ熱心に主に仕え、主の権威の下に悪霊を追い出したり、大きな奇跡を行ったとしても、問題の核心は、私たちがどれほどのことを成したかではなく、その行いが肉から生まれたか、または、御霊から生まれたかにあるのです。霊的な心に感じるものは、すべて御霊から生まれたものです。主に受け入れてもらえるのはこれだけです。内住の御霊は、私たちの生まれかわった心に、何かが本当に御霊から来ているか、見極める感性を与えてくれます。御霊は、私たちを急がせたり、押さえつけたりし、また、歩かせることも、引き止めることもあります。霊的なものを感じ取る力があれば、御霊の道に沿って生き、仕えるにはどうすればよいか、理解できます。
これは馬の口に噛ませたくつわに例えると分かりやすいでしょう。乗り手は手綱を引いて、自分の思う方向に馬を進めます。乗り手が小さな動きを見せるだけで、馬は曲がるのか、まっすぐ進むのか、もっと早く走るのか、それとも、速度を落とすのか、ただちに理解します。手綱を引かれると、馬は手の動きを感じ取り、乗り手の行きたい方向に進みます。気づかないほど小さな手の動きで、乗り手は馬を思いのままに操ることができます。
同じやり方で、御霊は私たちの心の中を動かします。私たちがあまりに話しすぎると、主は懲らしめを与えます。道に迷いそうなときは、声をかけて教えてくれます。ある兄弟は証しの中で、救われるまでの自分は、晩餐の席でいつも注目の的だったと話しました。しかし、救われた後、彼はどの晩さん会に行っても注目を浴びることはなくなりました。話しすぎた日はいつも、家に帰った後でいやな気持ちになるからです。それまでの彼は、話を聞いてくれる人が多いほど、高揚した気分になったものでした。しかし今や、聞き手の数が多ければ多いほど、落ち込むようになったのです。これは御霊の導きでした。
あなたが、ある人に福音を伝えるように導かれたと感じたとしましょう。これは御霊がそうさせているためです。御霊が、その導きを伝え、あなたの霊のうちにそのような気持ちを引き起こしています。あなたがその導きに、どこまでも従いぬくなら、結果として、あなたは平安と喜びを感じます。私たちが生きて、御霊に仕えているときは、内なる御霊の動きに従っているだけなのです。走っている馬と同じです。馬は何をすべきか、自分で考えているのではなく、乗り手の指示にしたがっているに過ぎません。馬は、人の手の動きの意味をいくつか知っているだけですが、示されるとおり、前に進みます。私たちも、内に住まう御霊が動くのを感じとれたら、聖霊に忠実に従うことができます。
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