[01] へりくだり
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
載せている荷物が重いほど、舟は水の中へ深く沈みます。たくさんの実をつけるほど、枝は垂れ下がります。樹が大きいほど、根は深く張っています。これは、神から多くの恵みを受けた人たちも同じなのです。少ししか恵みを経験していない人ほど、自分が受けた恵みを鼻にかけます。しかし、へりくだっているのは神の恵みで満ちている人たちです。神のみが人をへりくだったものへと変えられるからです。へりくだりとは、自分のことを、できるだけ思わないようにすることではありません。自分への思いとは関係がないのです。へりくだっているとは、自分を低く見ることではありません。自分をどう見るかということとは、まったく違うのです。真にへりくだった人とは、自分に死んだ人のことです。自分に死んでいない人も、外から見れば同じように行動してるかもしれませんが、内側では、いつも自分を誇っています。まさしく、『人の心は何よりも陰険(エレミヤ17:9)』なのです。
へりくだりとは、人前に出ることを避けて身を引いたり、何かを恐れることとは、まったく、別のものです。このふたつは明らかに意味が違います。自分の力で、また、生来の気性のままに(へりくだった性格の人もいるからと言って)、へりくだろうとしても、そのような人たちはいずれは、引きこもったり、あきらめてしまうことになります。しかし、主にあって本当にへりくだっている人は、責任から逃げようとせず、正面から向かい合います。神と生きる中で、勇気をもって前へと進みますが、その中でも常に、自分が汚れており、無力な者であることを認めています。それでいて、主に信頼すること、主にすべてをゆだねることをやめません。責任を避ける人は、へりくだっていません。むしろ、そうすることで、その人の霊的なあり方に問題を抱えていることが現れてしまいます。
へりくだって主に仕えながら、責任を真摯に負う人はなんと少ないことでしょう。『私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです(ピリピ4:13)。』そして、『このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばです(1テモテ4:9)。』私たちが、主を見上げていますように。
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
載せている荷物が重いほど、舟は水の中へ深く沈みます。たくさんの実をつけるほど、枝は垂れ下がります。樹が大きいほど、根は深く張っています。これは、神から多くの恵みを受けた人たちも同じなのです。少ししか恵みを経験していない人ほど、自分が受けた恵みを鼻にかけます。しかし、へりくだっているのは神の恵みで満ちている人たちです。神のみが人をへりくだったものへと変えられるからです。へりくだりとは、自分のことを、できるだけ思わないようにすることではありません。自分への思いとは関係がないのです。へりくだっているとは、自分を低く見ることではありません。自分をどう見るかということとは、まったく違うのです。真にへりくだった人とは、自分に死んだ人のことです。自分に死んでいない人も、外から見れば同じように行動してるかもしれませんが、内側では、いつも自分を誇っています。まさしく、『人の心は何よりも陰険(エレミヤ17:9)』なのです。
へりくだりとは、人前に出ることを避けて身を引いたり、何かを恐れることとは、まったく、別のものです。このふたつは明らかに意味が違います。自分の力で、また、生来の気性のままに(へりくだった性格の人もいるからと言って)、へりくだろうとしても、そのような人たちはいずれは、引きこもったり、あきらめてしまうことになります。しかし、主にあって本当にへりくだっている人は、責任から逃げようとせず、正面から向かい合います。神と生きる中で、勇気をもって前へと進みますが、その中でも常に、自分が汚れており、無力な者であることを認めています。それでいて、主に信頼すること、主にすべてをゆだねることをやめません。責任を避ける人は、へりくだっていません。むしろ、そうすることで、その人の霊的なあり方に問題を抱えていることが現れてしまいます。
へりくだって主に仕えながら、責任を真摯に負う人はなんと少ないことでしょう。『私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです(ピリピ4:13)。』そして、『このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばです(1テモテ4:9)。』私たちが、主を見上げていますように。
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