ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
人の一生がどのようなものだったか、いくつかの節目となる出来事だけで説明することはできません。それは、むしろ、全生涯を通して日々、行ってきた事柄に現れます。人がどれだけ霊的であるかは、説教がどれだけ的確であるか、教会で来訪者と仲良くやっていけるか、とか、表向きの生活がうまくいっているかといったことで、測ることはできません。それは、生活の内面から推し量るべきものです。すなわち、その人の喜びや悲しみ、言葉や行い、そして、他の人とどう接するかといったことです。
キリスト者の歩みの初期の段階には、多くの『作り物の』愛、信仰、忍耐などが現れるものです。自身の努力から来るこう言ったものは、外に向けた霊性であって、心の中の神の働きから生まれたものではありません。自我を覆って、人目から隠すことはできても、本物の自我は、自分でも気づかないうちに、すべて現われてしまいます。このようなとき、この人の心には純粋に罪を憎む気持ちが欠けているのです。なぜ、こうなるのでしょう?この人の心の動きを見てみましょう。例えば、ちょっとした欠点が人に知られると、大きく気持ちが沈み、悲しみに包まれます。一方で、誰もそれに気づかなければ、神の前に、それを嘆くこともしません。
そのような状態で生きていることに気付いた時、信者がそこから抜け出す最善の道は、自分の『顔』へのこだわりを捨てることです。その人がすべきは、神の前に、自分の自我がいかに憎しみに満ち、よこしまなものであるかを告白すること、聖霊を通して、完成された偉大な十字架の御業を自分のものとし、自我を死に渡すこと、そうして、自分の中にキリストのいのちが自由に生きられるようにすることです。日々、聖霊と共に働き、『(自分の)道を主にゆだね、主に信頼すれば、主が成し遂げてくださる(詩篇37:5)』ことを学ぶべきです。自分ではキリストの中に生きているつもりなのに、生活のすみずみにまで主が現れていなかったら、神の御前に行って、自分の本当の霊的な状態がどんなものか示してくださいと、お願いするべきです。
0 件のコメント:
コメントを投稿