[3]正しいキリスト者
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
救われる前、人は罪とそむきの中に死んでいます。その人は義に
ついて何も知りません。救われた後は、少しずつ、神の清さと正しさを理解し始めます。しかし、ここに若い信者が持つ危険があります。新生の後で得た知識か
ら生じる危険さです。この危険の性質はどのようなもので、どこに現われるのでしょう?若いキリスト者は、その態度や言動において過度に正しくなろうとする
あまり、人にも多くを求めてしまうことがあります。新しく得た光の故に、善と悪の違いに敏感になりすぎ、新しい自分の良識と相反する他の者たちを裁いてし
まうのです。この時期には正常なキリスト者に対して、大きな怒りを抱くことすらあります。人の中に何か、受け入れがたいものを見出すと、こんなふうに言っ
て、すぐ相手を非難します、『なぜ、この人は、こんなことをしたり、あんなふうにするのだろう?こんなふうに振る舞うのはなぜだろう?』これは、若い信者
がとくに、よくすることです。
『正しさを拠り所とする』信者とは、一般に、神の恵みをあまり多く受けていない人たちです。彼らが、主の道
に深く分け入り、霊的ないのちが豊かに築かれたら、他の人にももっと、恵み深くなるはずです。いわゆる山上の垂訓の中で、主がこう語られたと記録されてい
ます、私たち信じる者は、他の者に義であることを求めるべきではないと。主は、私たちが、自分を打つもの、迫害するもの、だまし取るものに対してすら、義
を求めることを望んでおられません。主は、私たちがそれに堪え、優しさで報いるようにと命じ、教えています。天なる父が完全であるように、私たちも完全で
なくてはなりません。主は、義でないものにも、義なるものと等しく雨を降らせてくださいます。主人の教えに従っていないと、世からそしられることのないよ
うに気を付けましょう。
キリスト者は、自分は正しく、しかし、他者にはいつくしみ深くあるべきです。自分の権利を要求したり、正当に扱わ
れることを求めてはいけません。これがキリスト者の寛容です。キリスト者は、自分は正しくあっても、人には正しくあることを求めません。このように歩むこ
とで、主とともに世を治めるものとなれます。
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