2016年2月3日水曜日

心から心への言葉[07]方策

[7]方策
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

この商業主義の時代にあって、今は、あらゆる物事が人の企てによって動きます。悲しむべきことに、その影響は信じる者の間にも及んでいます。『想い』と『企て』は、違うものであることを知っておく必要があります。誠実に人を愛することと、何か目的があって愛することの間には、大きな隔たりがあります。人を本当に愛する者は、心から愛するのですが、何かのもくろみからそうする人は、愛するように自分を仕向けています。心から相手を愛する人は、真に心の底から愛が生まれるのに対し、愛するふりをしている人は、無理してそう見せ掛けなくてはいけません。

心からの愛はきわめて自然なものです。内に向けた想いと、外に向けた想いが一致しているからです。これに対し、計略としての愛は、意図的に作り出されたもので、内側と外側で食い違っています。世にあるキリスト者は、自分の心のうちの企みに大きく支配されており、それがゆえに、不自然な行動をとります。そこでは、うちなる真実が外に湧き出ることはなく、むしろその行動は、批判されることの恐れや、賞賛を求める気持ちから生まれるものです。

たとえとして、兄弟の愛を考えてみてください。主キリストにある兄弟への愛を口にしても、そこに本当に愛の心はなく、霊的ではないと批判されることを恐れてそうしている人もいるでしょう。ああ、愛と呼ばれるものの多くは偽物です。本物の愛ではないのです。私たちから、そんな見せ掛けの愛が現れることのないよう、主よ、助けてください。

使徒パウロが第1コリント13章で言ったことは、本当に、私たちの気持ちと思いの奥深く入り込み、心を揺さぶります。自分の体を火の中に捧げるような立派な行いをしながらも、そこに愛がないこともあるのです。その行いは誠実な心から生まれるものでなく、何かの目論見があって出てくるものです。使徒パウロは、そんな行いは『何の役にも立たない(3節)』と言い切っています。企ての中から現される愛は、外面的な愛であり、そこでは、心と言葉が一致していません。外に向けて取り繕ったものであって、そこには内なる神の恵みの働きがありません。このような愛は、他の人だけでなく、自分をも欺くものです。その愛は目的があって生まれるものであって、そこには敵のたくらみがあります。この愛は長く続くことはなく、いずれ、本当の心の状態が現れます。このような作りものの愛、まやかしの愛は人の霊的な生活にとって、何の助けにもなりません。

主の十字架に、心の中の全ての毒を消し去っていただきましょう。使徒ペテロが、第1ペテロ1:22と4:8に書いたような者になりましょう、『あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。』

使徒ヨハネのこの言葉もいつも心に留めておきましょう、『子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか(第1ヨハネ3:18)。』

0 件のコメント: