[13]おごり
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
若い信者が持つ危険のひとつであり、年かさの聖人さえも陥りがちな罠は、自分を間違ったところに置いてしまうことです。十字架が心に働きかけて初めて、自分を誇示すことをやめ、他の人こそ誉れを受けて欲しいと望むようになります。このような人は、神の前に静まり、主への怖れの中にあっても、気持ちは安らいでいます。キリスト者の生活は、一瞬たりとも、十字架と切り離すことはできません。神の聖霊が手を差し伸べて、私たちの堕落しきった状態をさらけだしてくれます。私たちは、神の霊の訓練を通して、自分の絶望的な状態を、真摯に受け止めることができます。そうなったら、あえて自分を誇ることはなくなり、むしろ、自分を恥じるようになるでしょう。神が、私たちの本当の状態を明るみに出され、自らの目で確かめられるようにしてくださったからです。自分を知るほどに、誇る気持ちは消えてゆきます。本当の姿を知らないのは哀れなことです!神の光のうちに光を見ることができますように(詩篇36:9後半を参照)。
自分を誇る強さにもいろいろな段階があります。聖人の中にも、高らかにラッパを吹き鳴らす人がおり、また、穏やかな言葉で自慢をする人もいますが、そのどちらにも、自画自賛したい気持ちが隠れています。あるものは、自尊心からうぬぼれを持ち、自分が他の人より強いと思い込みます。あるものは、嫉妬心から自分を持ち上げ、他の人と対等だと思い込もうとします。これは、すべてが肉の働きです。動機が何であれ、確実に危険へと導いてゆきます。
創造主ではなく、被造物を拝むことは、人間がよく犯す過ちのようです。主が、人間に栄光や名声を与えたら、そこには必ず、英雄崇拝が生まれます。人の賞賛を受けたくて、意図的に目だった行動をするとき、そこに他の人を讃える言葉がなければ、私たち自身も地に落ちてしまいます。外からは、ある程度、霊的によい状態に見えたとしても、霊的な戦いにおいては、私たちは破れ、地にまみれているのです。今日も、数え切れないほど多く、敗北を伝える知らせが舞い込んでいます!この知らせの中に、神の誉れとなるものなど、何ひとつありません。ですから、私たちも人を批判することのないよう、主よ、助けてください!神への賛美のようでありながら、人への賛辞、自分への賛辞が隠されていることが多くあります!ああ、私たちは心の中で、人が神を讃えるよう願いながら、同時に自分も誉めて欲しいと、望んでいるのではないでしょうか!神のための働きなのに、神が置き去りにされていることが多くあります。これでは、横で見ている私たちは、誰に寄り頼めばいいのか、分からなくなってしまいます!自分を讃えることで、自分を義とすることなど、決してできません。
キリストにおいて幼子であったとき、私もそうしていなかったでしょうか?人から賞賛を受け、働きをほめられたとき、心はどれだけ踊ったでしょう!主が私たちの姿を知らせてくださって、人目につかずに、静まっている本当の神の人たちの中に入れますように。
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