12月12日
ただの名前ではなく
主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。
第2テモテ2:19
いつの世も、キリスト者と自称する人たちがいて、こう言い張ってきました、『私は正しい、私はイエスの名によって祈っている。』彼らは、神への礼拝は何か決まった形式に基づいて行われると信じ込んでいるようです。イエスの名を唱えることを、何かの魔法の呪文とでも考えているのでしょう。
御霊の助けを借りて、注意深く、聖書を調べるなら、イエスの名前と性質は、ひとつであることに気づくでしょう。イエスの名前のつづり方を知っているだけでは十分ではありません!
私たちが主と同じ性質を持つようになり、御心に従って求めることができるところまで来たら、主は私たちが欲し、必要としている良いものをくださいます。
私たちが神を崇めるのは、新しく生まれ変わった結果です。その時、神は喜んで、私たちに名前以上のものを与えてくださったのです。
主が、私たちにくださったのは新しくなった性質です。ペテロはこの真実をこのように表現しました、『その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。』(第2ペテロ1:4)
主よ、私は祈ります。使徒パウロが信者たちを『神のご性質にあずかる者』と書き記した言葉のように、キリストの御体(なる教会)も自分をみなすようになって欲しいと。この思いを込めて自分を見れば、イエス様が弟子としての私たちに期待しているものに、変わっていくことができるでしょう。
エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』
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