12月6日
誰でも来なさい
いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。
黙示録22:17
神の人への接し方には、不思議な美しさがあります。主は、世の救いをひとりの人間の中に込め、そして、その人を地上に送って、こう言いながら目立たない道を歩くようにされました、『願うなら誰でもわたしについて来なさい!』派手な鳴り物もなく、足を踏み鳴らして従う軍勢もいません。
やさしい『旅人』がこの地上を歩いています。その声はあまりに静かで、この世の喧騒の中に消えてしまうこともあります。しかし、それは神の最後の声であり、そして、私たちは静まって耳を傾けるまで、真実のメッセージを受けることはありません。
『だれでも』というこの言葉で、主の招きがすべての者に向けられていること、そして、人間にはそれに応じる自由な意思があることを、主は教えてくれます。誰でも来てよい。来なくてはいけないのではない。そして、来るものは、自分でそれを選んだのです。
この意味で、誰にとっても、未来は自分の手の中にあります。世界の権力者たちだけでなく、多くを語ることのない無名の人も、『運命の人』となります!人は、魂の進む道を自分で決めます。人は自分で選び、運命の待つ方向に足を踏み出します。自分の決断によって、地獄に飲み込まれるか、天国に新しい家が用意されます!
ご自身の中の実に大きなものを、神は人間にくださいました!
愛する主よ、私は今日も家族と近しい友人のために祈ります。その中に、まだ賢い選択をしていない者がおり、まだ、家の外からこちらを見ています。主よ、私は、あなたの霊が彼らの心を溶かし、いつの日かあなたの元に来るように祈ります。
エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』
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