2020年1月25日土曜日

【Daily Open Windows】1月25日

一月二十五日

こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。(コロサイ三・一)


心が完全に神のみに向けられている人に向かって、『あなたはこれをあきらめなくてはいけないし、あれもあきらめなくてはいけない』などと伝える必要はありません。このような人は主にお任せしておけば、全てはうまくいくでしょう。主だけに向けられた心に出会うことは、それ自体、大きな祝福です。心がこのような状態にあるとき、何ひとつ、思うわずらう必要などありません。あらゆる不安は、心が完全に主に向けられていないところに存在するのです。あの使徒がテサロニケの人たちに書いた二通の手紙は喜びに満ちています。彼は、この人たちのことを思い出すたびに、主に感謝したのです。手紙を書いた使徒は、彼らのことを、どれだけ賞賛し、また、彼らがどれだけ輝いていたかを語っても足りないほどでしたが、それはひとえに、彼らが世に背を向けて、神の方を向き、『生けるまことの神に仕えるようになり、また、御子が天から来られるのを待ち望むようになった』からであり、彼は、この人たちには、何の心配もしていませんでした。コリントの人たちに目を向けると、・・・こちらは、問題だらけでした。そこは、荒れ野の状態に戻っっており、すなわち人々の心は分断されていました。


復活を人生の基本として生きることは、神に対し、人を世から、まっすぐ主へと向けさせる機会を与えます。それが意味するものの大きさを、私たちは学ばなくてはなりません。主とともに進んでいるとき、私たちは、予想だにしなかったことにぶつかることになります。これは神から来たことであるから、信じようとはっきり心に定めたことがら、そして、一瞬たりともそこに疑いを挟むことはないと思ってきたことが、苦難に変わります。それが神から来ていなかったからではなく、それは、ある時点までは神から来ていたのに、今は、それを越える何かがそこに生まれたからです。そして、私たちが、そのより大きな何かに進んでいかなければ、良いものが、最大の敵となってしまいます。そして、それが持つ価値を比較相対しながら、私たちは、より良いものを得るために、良いものを捨て、後には、最良のものを得るために、より良いと思ったものを捨て去らなければならなくなります。このようなことが起こるのは、私たちが本当に、主とともに進んでいるときに限られます。しかし、そこで求められるのは、まず第一に、私たちが、自分の気持ちをはっきりさせて、惑うことなく、こう述べることです、『私は、復活という土台に立つようになったのだ。今や、完全に主とひとつになっている。』

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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