2020年1月24日金曜日

【Daily Open Windows】1月24日

一月二十四日

しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。(ローマ七・六)

主への奉仕は、世からの分離、この世の王国からの解放から始まりますが、この奉仕とは、徹底して身を捧げるべきものです。ああ、この解放と分離のことで、神が最後に語られたことばがこれであったことは、教会も認めるはずです、『ひづめ一つも残すことはできません』(出エジプト十・二十六)。すなわち、モーセの奉仕は、どこまでも徹底した奉仕で、余すところなく突きつめたため、ひづめ一つも残らなかったのであり、これでこそ神への奉仕といえるのです。『このとおり、民は完全に離れてしまい、世とのつながりは何一つ残っていません・・・。』


神への奉仕が常に、何によって支配されるかを思い出してください。それは、深い内なる分離です。世から離れて、神の民の一部となるだけでは十分ではありません。それ以上の何かが必要です。私たちの中の自分を中心とした生き方に手を下して、完全に取り除かなければならず、そのために大きな分離が起こることが必要です。衝動的で熱く、情熱的だったモーセは、静かで、がまん強く、心優しいモーセとならなければなりません・・・そのために、おそらく、他の何にもまして、柔和と忍耐を学びました。あの四十年間というもの、自分を空にする鍛錬はどれほどのものだったでしょう。今のこの時代、人が本当に、人生をかけた働き、人生を捧げる奉仕に入るとき、もっとも必要となるもののひとつが忍耐であり、そして、何もできいことに耐え忍ぶ鍛錬は、他の何にも増して、強い忍耐を生み出してくれるはずです。

いつも手一杯で、何に忙しくしていることによって情熱的な思いが満たされるとき、私たちは忍耐を学ぶことはありません。しかし、何もさせてもらえないとき、主のための責任、働き、奉仕から切り離されて、何もしないでいる鍛錬、行動を控える鍛錬を課せられているときこそ、神はよりよい奉仕、この鍛錬を経なければ果たすことはできなかったではずの奉仕を用意されているのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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