2020年1月3日金曜日

【Daily Open Windows】1月3日

一月三日


私は、キリストとその復活の力を知りたいのです。(ピリピ三・十)

復活が常に意味しているのは、われわれはこの世の外にいるということです。復活の後、主イエスは、一度もこの世界に現われていません。復活の後、主は御自身の姿を、この世の誰に向かっても現されていません。主の復活とは、主がこの世を去り、世の外側に離れて立たれたことを意味しており、そして、世から離れていることが、世を支配する主の御力となりました。この世界で何ごとがあっても、主が助けることができるのは、主がもはや、その出来事の内側にはいないからです。復活のいのちが意味するのは、私たちが霊的にこの世界の外側にいること、世を超えた場所に立っていることです。・・・


キリストの復活の力によって生きるためにはどうすればよいかを、私たちは学ばなければなりません。そうしなければ、私たちを取り囲む死が、生活の中に入り込んできて、私たちを手の内に抱え込むことになります。復活によって、主イエスとひとつになっていることは、この世界の至るところにある死に、私たちは取り込まれていないことを意味しています。私たちは、死という場面に現れても、死の手に触れられることはないのです。死に囲まれながらも、主のいのちの中にいるためにはどうすればよいのか、この方法を学ぶことはとても大切です。・・・主イエスの復活の中で、私たちは呪いから――すなわち、全てを無に帰す死から――解放されており、そして、神の足元へと、死の空虚さがもはや私たちから消え去ったことの完全な理解へとまっすぐに通じる道に導かれたのです。私たちを押しとどめるものは、もはやなく、人生を生き続けて、ある地点に達すると、そこが行き止まりで、その先には進めない、ということは、もうないのです。私たちは今、進み始めることができます!主にあるいのちの実が、育ちきって熟することができるのは、呪われた死の力が、キリストの復活の力において、消し去られたからです。裁きと罰は、すでに取り除かれました。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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