2020年1月27日月曜日

【Daily Open Windows】1月27日

一月二十七日

ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。(ヨハネ九・二十五)

キリスト者としての生活は、どのように始まるのでしょう?それは、見ることによってです。見ることでなければなりません。論理的に考えても、あらゆる意味で、それは見ることから始まるはずです。キリスト者の一生が、初めから終わりまで、ひとつの道の上を、ひとつの目的を目指し、真っ直ぐに進んでいくべきものだからです。この道、この目的とはキリストです。これが、ヨハネ九章の盲目に生まれついた男の問題でした。


人々がこの男を追放した後、イエスが彼を見つけて、『あなたは神の子を信じますか』と語りかけ、盲人が、『主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように』と、答えた時の様子を覚えているでしょう。イエス様は彼に言われました、『あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。』そこで、彼は、『主よ、私は信じます』と言いました。そして、彼はイエス様を拝したのです。霊的な視力がつかさどる働きは、主イエスを認めることであり、これは最初から最後まで、人生の全行程を通して変わることがありません。

私たちの救いは、自分自身を罪人と見るかという問題であったと言えます。しかし、それだけでとどまっていたら、私たちの前途は、貧しいものだったでしょう。それだけではなく、この問題はすべて、イエス様を見ることへと集約されます。あなたが本当にイエス様を見る時、何が起きるでしょう?タルソのサウロに何が起こったでしょう?確かに、たくさんのことが起こったし、その中には、イエス様に会わなければ成し遂げられなかったであろう、力強いこともありました。あなたには、タルソのサウロと議論して、キリスト教を信じさせることなどできなかったでしょう。彼を脅してキリスト教に入信させることもできなかったでしょう。キリスト者になるように、彼を説得したり、感情に訴えることもできなかったでしょう。この男をユダヤ教から引き離すためには、この地上に見いだせるものより、はるかに大きな何かが必要でした。しかし、彼はナザレのイエスを見たのであり、それが彼を変えました。彼はユダヤ教を離れ、解放された人になりました。彼が、見たからです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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