2020年1月8日水曜日

【Daily Open Windows】1月8日

一月八日


キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(第二コリント5:15)

私たちは、御霊に従うことによって、はじめてキリストを知ることができます。こうして、私たちが主について知りえること、あるいは、主とつながりを持てることの全てが御霊の中だけに存在できるという意味で、この摂理において、私たちにとってのキリストが真に霊的なものとなります。『ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません』(第二コリント5:16)。主を知ることは、御霊を通して行われます。私たちが用いる道具は霊的なものです。私たちの戦いの武器とは霊的なものです。すべては、上から私たちのもとに来なければなりません。敵が大きな努力を払ってきたことで、この摂理の中でも何度も功を奏してきたのは、神のものをこの世に属する何か、地に付属する何ごとかにまで引き下ろして、地上のものにしてしまうことでした。・・・


ヨハネ伝さえ読めば、あなたにも次のことが分かります。すなわち、何ものも地に属してなどいないし、すべてのものがこの世からはっきりと引き上げられているし、また、すべてのものは、キリストが天にいるという事実と結びついているということ、そして、主の民は、地上にあっても、そこに属してはおらず、地上にいても、ここでは知られておらず、また、この世にいても、この世のものではないのです。いわば、彼らは、この世にあっては謎に満ちた人々・・・地上では認められていないし、知られてもいない人たちです。それでいて、彼らが取る手段のため、また、彼らの存在理由のゆえに、この宇宙で知られているもっとも大きな力ろなるのが、この地上にいる霊的で、隠された、秘められた神の人々なのです。

キリスト教を手に取り、練り上げ、かたちを整え、そして、制度化し、磨き上げて、地上での強大な運動に変えること、その運動の根をこの地上に置きながら、それが人の目にとまり、人からの賞賛と賛同を集めようとこの活動を広めること、また、その運動自体を、何か大きな意味のあるもののように、この世界で広く知らしめること、こういったことはすべて、神のみ言葉に反しており、霊的ないのち、霊的な力とも相容れないものです。キリストがおられるところは天であり、私たちは、引き上げられ、姿を変えられ、主とともに天のところに座らされています。私たちが今、この世にいる目的は証しすることだけであり、その証しによって、他の人たちも国々から引き出されて、御名をもって呼ばれる民とされることです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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