2020年1月10日金曜日

【Daily Open Windows】1月10日

一月十日


万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。(コロサイ一・十六)

神のもとにある全てにつながる鍵は、主のいのちです。・・・キリストの権勢、崇高さ、力、能力、また、かしらという地位が持つすべては、神なるいのちの特権から生じていることに、気づかなければなりません。すなわち、主は神の御子であり、神なるいのちを与えられています。主には、神から与えられた権利があり、信じる者であれば誰にでも、同じいのちを与えることが許されています。だからこそ主は、かしらなのです。要職を設けて、人員を配置し、その中の誰かを法王に任命することもできますし、その人たちも立派な主張をするかもしれませんが、そこにどれほどの価値があるでしょうか?あなたが死と向かい合っている時、彼らが何をしてくれるでしょう?しかし、死に打ち勝ついのちの力を持つお方、この世にあって常にへりくだっておられ、かしらであり、主人であり、主であるお方を迎え入れてください。死を目の前にして、世界に知られた最高の医師たちを何人、集めても、死が動き出すとき、彼らには何もできません。しかし、そこに、小さな、取るに足りない人、誰にも知られていないし、この世界で役に立つ能力は何ひとつ持たず、何の訓練も受けていなくても、死に打ち勝ついのちの力を授けられている人が入るとすれば、他の全てのものは、その存在の下に退けられて、何の意味もなくなり、その人こそが状況を支配する主となります。


キリストがかしらであるのは、そう指名されただけではなく、主なるいのちのゆえなのです。私たちは、この地上ではまったく取るに足りない人間で、世から目をとめられるものなど何ひとつ持っていないかもしれませんが、主なるいのちで満ちたキリストがともにいるなら、私たちは最上位の高さにいるのであり、どれほど立派な大きな組織も団体も、何の価値もないものとなります。大切なのは、霊的なもの、キリストの影響であって、伝統ではなく、歴史ではなく、神学でもなく、主の臨在という霊的な力であり、それは、信仰と義を通して、主なるいのちとして現れるものです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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