2020年1月6日月曜日

【Daily Open Windows】1月6日

一月六日


私たちには、キリストの心があるのです。(第一コリント二・十六)

生まれたままの心は、私たちが走る競争をさえぎる大きな障害物であり、ひっきりなしに、その固定観念、議論、自分だけの関心や手段というかたちをとって現れます。コリント人たちが教会へと導かれたとき、自分たちの明らかな罪は捨て去ったのですが、世のものであって、神の霊から来るものではない、古い生まれたままの考え方と論拠を、この新しい世界にそのまま持ち込んでしまいました。しかし、この使徒は、彼らを、『ところが、私たちには、キリストの心があるのです』(第一コリント2:16)ととがめ、生まれたままの心と霊的な心のあいだに、十字架をしっかりと立てて、この二つを隔てることを強く求めました。


私たちがキリストの完全さに達するようになるのは、生まれたままの人間の心を捨て去って、キリストの心が増し加わる道を、先へ先へと進んで行くときに限られます。すべてのこと、すべての判断、すべての結論、すべての考察、そして、すべての評価において、主に尋ねなければなりません、『これはあなたの御心ですか、主よ、それとも、私の心ですか?』と。私たちは時に、非常に強い根拠があるからこそ、ある態度をとったり、ある特定の結論に達しているのだと感じるかもしれません。自分にはたくさんの証拠があるからこそ、何かを強く確信できるのだと思っても、それが間違っていることもあります。

コリント人への手紙を書いた男は、深く苦い経験から、自分にもそれが起こったことを知っていました。『以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました』とまで、彼は言いました(使徒26:9)。タルソのサウロほど、自分が正しい道を進んでいると強く確信していた男はいません。キリストのもとに来た時、彼の中であまりに大きな変動が起こり、こう言わざるを得なくなりました、『これまでの私の考え方の土台は、完全に間違っていた。』この告白の後で走り出した競争で、彼が力強く前進し続けたのは、いつも、自分の考えを、十字架につけられた主の権限にゆだねる気持ちがあったからです。これこそ、霊的な進歩の道です。自分の意見と自分で導いた結論に執着している限り、人から賛同を得ることはあっても、あまり遠くへと進むことはないでしょう。私たちは、自分の生またままの心を抑え込んで、キリストの心に従わせることを学ばなくてはなりません。霊的な進歩を望んでいるなら、これは何よりも大切なことです。そして、霊的な進歩とは、キリストが増し加わることです――他にはありません。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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