2016年9月30日金曜日

心から心への言葉[50]きよく、正しく、神に仕える

[50]きよく、正しく、神に仕える
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

『われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主(神)の御前に仕えよ』(ルカ1:75)。救われて、聖別されたものは、神に仕える者となります。神に仕えることについてルカの福音書はうたっています、『きよく、正しく、恐れなく、主に仕えよ。』きよさは私たちの側にあるもので、正しさとは他の人たちとの関わりを指すものです。きよさは神が与えてくれる、いわば贈り物です。正しさは学んで得るもの、すなわち、経験なのです。きよさとは性格上の特質であるのに対し、正しさとは学んで得る習慣です。きよさはいのちであり、正しさは生き方です。

主イエス様はご自身のことを、『わたしが道であり、・・・・いのちなのです』と言われました(ヨハネ14:6前半)。私たちのいのちはきよく、私たちの道は正しいのです。いのちは私たちの中にありますが、道は人に向かって出てゆきます。内に神のきよいいのちを受けた後は、外に向けて正しく生きる必要があります。外に向けた正しい生活は、内なるきよいいのちの力がなければ成り立ちません。キリスト者は、外から見ればもっとも正しい人と映るかもしれませんが、内なるきよさに支えられたものでなければその正しさには意味がありません。きよさと正しさは、言わば、一枚の硬貨の表と裏のようなもので、両方がなければ成り立ちません。私たちはきよさと正しさの両方において、主に仕えなければなりません。

正しさの問題について考えてみましょう。正しさとは、人やものごとにどう対処するかを示すものです。人は、救われるまで、間違った人生を生きてきました。自分を良いものと思い込んでいたために、そのことに気づいていませんでした。しかし、救われた時、人は神のきよいいのちを受けるのです。こうして、間違った生き方を見直し、正しい人生を始めることになります。これによって、正しさがその人の中に宿り、愛に満ちた行動がおのずと生まれるようになります。正しく、義なる者として、人との毎日を生きていくうえで、間違ったことをしたり、不正なものを受け取って手中に収めると言ったことは、はっきりと拒絶しなくてはいけません。この拒絶は、内なるきよいいのちと神の性質から生まれるものであり、神からの贈り物としていただいたものです。このような二つのつながりを、理解できているでしょうか?

古い話しです。救われた後の3年間、私は正しい人であろうと努めましたが、義とはなんであるか、はっきり掴んでいませんでした。ある日、私は、キリスト者の大きな集いで、演台の下、前の席に座っていた宣教者の話しを、新聞で読みました。立ち上がって演台に登るとき、他の席の上の歩かなくてはいけませんでした。彼はうっかり、人の外套を踏んで、汚してしまいましたが、謝ろうとはしませんでした。これを読んですぐに私は、正しくないとはどういうことなのかを悟りました。この説教者には、人のレインコートを汚す権利などなく、それは正しくない行動です。光を受けた時から、私は正しくない行いにどう対処するか悟ったのです。

人生には、多くの正しくないものごと、問題があります。正しくないことは、お金、態度、時間、所有物、などいろいろな場面で、自ずから現れてきます。正しさを追求することは、とても良い霊的な訓練となります。この意味で、御霊からいただける啓発は日光、私たちは窓ガラスに例えることができます。ガラスが何度も煤けたら、いずれは不透明になってしまいます。すなわち、問題は日が当たっているかではなく、ガラスがその光を通すかということにあるのです。まったく同じように、大切なのは、聖霊が光を当ててくれるかではなく、私たちの内側が曇りない状態に保たれているかということです。私たちが義を求めるのは、ガラスをいつもきれいに磨いて、透き通らせておくようなもので、それによって、いつでも聖霊の啓発のもと、霊的な感性を保ち、正しく生きることを可能としてくれます。

2016年9月24日土曜日

心から心への言葉[49]真実と光

[49]真実と光
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

天の真理を見るためには、神に光を当てていただくことが絶対に必要です。『どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください』(詩篇43:3前半)。神が照らし出すものとは何でしょう?神の光は、ご自身の真実を照らします。これを理解することはとても大切です。神の光を通してはじめて、その真理を知ることができるからです。真実は説教を聞いて学ぶものではなく、神の光を通して伝えられるものです。今日、兄弟姉妹に、『キリストの助けを受けたことがありますか?』と訊けば、おそらく、多くが、『私は死にましたが、なぜか真実は私のうちに働いていません、』と答えるのではないでしょうか。これは私たちが真理について聞いても、それを見ていないからです。真実を本当に見た者は、光を当てられた者であるはずです。

ある兄弟が証ししました。神がローマ書6章を読むようにと彼の目を開き、その後で彼はエペソ書6章も見たそうです。彼は、自分の死は事実であると同時にキリストの勝利でもあること、そして、自分が確かにその勝利にあずかっているという事実を見たそうです。それまでの彼は、何かを求めていましたが、今はそれを手に入れました。以前の彼は、主の勝利を願っていましたが、今はこう賛美しています、『主はすでに支配された。』それまでの人生とは、なんと言う違いでしょう。かつてはただ、あこがれ、願っていたものが、今は現実となりました。もう、それを掴もうと手を伸ばすことはしません。既に手の中にあるからです。光が来るとき、私たちは立ち上がって、それが完了したと告げます。

キリスト者は誰もがこのような啓発を経験しています。少なくとも、救われたときに一度は経験したはずです。救われたとき、そこで見たのは、救いへの期待や救いへの願望ではなく、また、いずれは救われるという希望でもなく、すべてがキリストにあって、既に成し遂げられたという事実でした。この啓発のもとではじめて、人はキリスト者となりました。すべてのキリスト者は、この光を現実の中に見たのです。実際には、あらゆる霊的な経験は、こうして真実を知らされるところから始まります。真理が広がっていくとき、そこに光が当てられなければ、単なる教義となってしまいます。しかし、神の光を受けるとき、真実は啓示へと変わり、啓示によって、私たちは真実を得るのです。啓示がなければ、人間的な論理で心を満たすことしかできません。啓示を得たものだけが、現実といのちを持っています。

神の光によって啓発されたとき、聖霊が霊的な現実へと導いてくれます。第一に、慰め主が真理の御霊と呼ばれていることから、真理の御霊が存在することは確かです(ヨハネ14:16を参照)。また、一方では真実の言葉である聖書があります。一つには事実としての真理があり、それは神がキリストにおいて成されたことです。聖書は私たちが信じるこの真理を示してくれます。それから聖霊は、私たちを真理の中へ、霊的な現実の中へと導いてくれます。主イエス様がその現実です。御霊によって、神は私たちをこの現実へと引き寄せます。そこで待っているのは、単なる教義や教えではありません。こうして、私たちは自分だけの感情や経験の中にではなく、キリストの成し遂げられた事実の中に生きることになります。

2016年9月17日土曜日

心から心への言葉[48]神に用いられるためには

[48]神に用いられるためには
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

救われた日から、神はご自身のいのちを私たちの中に入れ、生活の中の様々な問題を通して少しずつ訓練してくださいます。主が私たちに学んで欲しいのは、ご自身と協調して、共に働くことです。神は、ご自身の性質を私たちの中に混ぜ合わせて、御手の内に用いることを願っておられます。神の性質がどれだけ形作られているかということが、神にとってのあなたの価値を計る物差しとなります。内なる神の性質が大きくなるほど、あなたは神に用いられるものとなります。神の性質は、祈るときや、聖書を読んでいるときだけでなく、普段の行動の中でも、増し加わってゆきます。神のいのちが混じることを通してのみ、私たちは霊的に有用な者になってゆくからです。神の人格が中に溶け込むことだけが、私たちを、主の助けとなるものに変えていきます。入り込んだものは小さくても、それが私たちの霊的な価値となります。神がご自身を混ぜ入れるとき、そのいのちが神にとっての私たちの価値として現れます。

すなわち、神がその時々に行うことは、すべてが私たちの中にご自身の性質を日々、増し加えるためなのです。人としての性質があまりに強固であると、神は私たちを通して光り輝くことはできません。しばらくの時間が過ぎると、少しずつ、主は私たちから、外に現れてきます。この過程は、神のいのちが私たちから完全に現される日まで続きます。こうして、キリスト者としての全生涯を通して、神はご自身を私たちと混じり合わせ、これによって、私たちは神への助けとなることができます。

霊的に学んでいる時、心を何に集中するべきでしょうか?福音書にあるように、ペテロはおよそ3年間、主とともに歩きました。彼は何を学んだでしょう?主がペテロに教えたのは、神の御性質がどのように人の心の奥底まで入り込めるかと言うことでした。このキリストの弟子は、自分の考えを捨てて、主の考えに入ることを学びました。文字では書かれていなくても、福音の中にその様子がはっきり見て取れます。

自分の考えから抜け出すことを学ばなければ、神に用いられる者にはなれません。すべての奉仕は神から始まり、一度、私たちの中に入ってから、外に現れるべきものであると、心にとめておきましょう。神が中に入り、そして、外に現れてゆくことができなければ、人は私たちの心に触れるだけで、神の心には触れません。自分の心の中にだけ生きることは、人々の心が神にふれる道を閉ざしてしまいます。私たちを通して、人に神にふれてもらうにためは、自分自身から抜け出すことを学ばなくてはいけません。

2016年9月10日土曜日

心から心への言葉 [47]休むことは力

[47]休むことは力
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』(イザヤ30:15後半)

霊的な生活において、人がよく陥る過ちがあります。外から見て忙しく立ち働いているときほど、内面では混乱してしまうのです。忙しさで手一杯にはなっていなくても、やはり、私たちの内なるいのちは乱されています。このような状態ですと、外の状況に対応する能力が失われてしまいます。休むことは、キリスト者の生活における力であると覚える必要があります。神ご自身がこう言われたからです、『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』興奮しやすい人は、神の前に強くありません。心の乱れている人々は主の前で力を持っていません。私たちの強さは、内なる静けさと休息から来ることを、理解しなければいけません。

渦巻く風の奥には中心があります。風は外側では高速で渦巻いていますが、中心はもっとも静かです。同じように、内面が静かな生活が、私たちに力を与えてくれます。外の世界では風が吹き荒れていても、内側は完璧な静けさを保っています。『落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』心が外の騒がしさにかき乱されて、静寂を失うことはあってはいけません。そうなれば、周りの世界に押し流されてしまいます。

海を考えてみてください。表面では、波が高く上がり、風が強く吹きつけもしますが、深い底では、何一つ動くものはありません。静寂に満ちています。海底に棲む生物を調べた人々は、その研究結果から、大洋の底ではほとんど動きがないことを証明したそうです。同じように、キリスト者としての生活においても、静寂と休息が必要です。ゆっくり休むことはできなくても、忙しく働く中に、内なる静けさを保つような者であるべきです。内なる休息があれば、敗北することはありません。どのような状況にあっても、私たちは主の前に、何一つ起こっていないかのように生きることです。主が私たちの中におられて、静穏な人生を求めることを助けてくださっています。

休むことの秘訣とは何でしょう?ひとつはピリピ書4章6~7節に見られます、『何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』

キリスト者が休息を得るための一番の秘訣は、生きていく上で出会うすべてのこと、要求、仕事、必要、困難などを主に打ち明け、真摯にこう告白することです、『主よ、私はこれらすべてをあなたの御手にゆだねます。』こういった問題に直面したら、祈りと願いによって、感謝とともに、それを主にゆだねてください。何が起ころうと、それを神にゆだねてください。ゆだねたその時、神の平安があなたの心を守り始めます。ゆだねさえすれば、主の平安はすぐにでもやってきます。こうなれば、あなたも私も、日の出から日の入りまで、外の世界に押し流されることはなくなります。困難がどれほど大きくても、どのような問題があろうと、神の平安は私たちに留まり、良心を安らかに保ってくれます。

二つ目の秘訣はマタイ11:29に与えられています、『わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。』一つ目の秘訣は信仰であり、二つ目は従順です。神があなたの上に次々と困難な状況を起こすとき、主から与えられた試練に抗ったり、主の御心に逆らい、また、御心とは違うことを求めれば、内なる平和はありません。休息とは献身からやってくることを、覚えてください。困難が起こったとき、ただ、あなたが主から学び、主のくびきを負いさえすれば、自分の思いを遂げることができずにいらだっていても、やはり、心には平安が生まれます。もし、主に向かって、『主よ、あなたが何をして欲しいのであれ、私は喜んでそれをします、』と言えば、間違いなく魂に安らぎを見出すでしょう。人間的な不満や期待は必ず、休息を奪ってしまいます。

2016年9月3日土曜日

心から心への言葉[46]貧しさについて

[46]貧しさについて
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

神の子供たちにはひとつの問題があります。ラオデキアの考え方と目的(黙示録3:14以降を参照)を持っていることです。つまり、彼らは現実には貧しいのに、自分は富んでいると思っているのです。霊的なことがらにおいて、何かを持っているか、いないかという問題を解決することは容易ですが、富んでいるか、貧しいかという問題を解決するのはとても難しいことです。持たざる者はたやすく神に出会えるでしょうが、自分を富んでいると考える者が主を見出すことはありません。そのような人が、神の手助けを得るのはもっとも難しいことです。一方で、貧しいものの最大の問題は、自分の貧しさに気づくことの難しさにあります。本当に何ひとつ持たない者にとって、貧しさはあまりに明白な事実であって、容易に認めることができます。ところが、貧しさとは比較の問題であり、富んでいるのか、貧しいのか、自分の状態を定めるのは難しいことです。子供が初めてなにがしかのお金を手にした時、自分が世界一の金持ちであるかのように思いこみ、本当は貧しいことに気付きません。しかし、全く何ひとつ持っていないと想像してみると、いやでも自分の本当の貧しさに気づくでしょう。この世のものを何か少しでも持っていたら、それがいかにつまらないものか、認めることは難しくなります。

霊的な生活において、神は、何も持たない者をどうすればよいか、よくご存知ですが、貧しくてもわずかな物を持っていると、そのわずかな物が自信を持たせてしまうので、大きな問題となります。高ぶりのない貧しさは決して打ち破ることのできない壁ではありませんが、貧しいのに自分を誇る者には、ほとんど希望がありません。したがって、問題は貧しさではなく、その人がラオデキアの教会のようであるか否かというところにあります。悲しむべきことに、多くの神の子供は、ひとつの輪の上をひたすら回るだけで、先へ進むことがありません。その理由はただひとつ、現実には貧しいのに、自分は富んでいると言い切ってしまうことが、その人を殺すのです。

多くの信者が肉について語りながら、肉とはなんであるか、分かっていません。啓示についても話しますが、それが本当に意味するところを知りません。彼らはまた、従順、御国、十字架、自分との葛藤や生まれながらのいのちと言ったことについても、いろいろと語りたがりますが、ご立派な演説をぶっても、自分の貧しさを露呈するだけです。神に触れたことがないのですから、彼らは自分で体験していないものについて、語っていることになります。彼らにできるのは、自分を欺き、自分と同じような人をごまかすことだけです。霊的なことがらにおいては、自分が霊的に富んでいると信じ込んでいる限り、人に富んでいると思ってもらうことはできず、むしろ、霊的な貧しさが誰の目にも明らかになってしまうからです。

貧しいとはどういうことでしょう?霊的な貧しさとは、量の問題ではなく、質の問題です。第1コリント3章は、金、銀、宝石が木、草、わらとは違い、反対の性質を持つものであることを示しています。第2テモテ2章は、金と銀の器を、木や土の器と比較して、その違いを語っています。このふたつが、讃えられるべきものは何か、また、恥ずべきものは何かを教えてくれます。あなたの手の中にあるものが、このふたつのどちらなのかを、教えていただく必要があります。私たちの生きている世界では、大量の木、草、わらを持っていても、貧しいことに変わりはありません。一方、霊的な世界においては、器を持っているだけでは十分ではありません。手の中にあるのが金や銀の器か、それとも、木や土の器なのか、自分に訊いてみなくてはなりません。私たち信者は、自分が霊的な何かを持っているかのように思い込んで、いとも簡単に高ぶってしまいますが、実際には手の中にあるものが何なのかもよく分かっていません。これこそ、霊的に貧しいということです。