2020年9月30日水曜日

【Daily Open Windows】9月30日

九月三十日

世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。小さい者たちよ。今は終わりの時です。(第一ヨハネ二・十七、十八)

地上の広い範囲にわたって、神の民は、追い立てられ、散らばされ、身体の外にあるすべて取り去られています。ここで生じる疑問は、なぜ主はそれを許されるのでしょう?主が賢く、全能で、また、恵み深いお方だとしたら、なぜ、このようになるのでしょうか?それは、主の民が、自分にとって、天におられるキリストがどれほど大きな存在であるかを理解し、また、今の自分が、どれだけ地上の様々な秩序、キリスト教の秩序にすら依存していることに気付かせるためです。

2020年9月29日火曜日

【Daily Open Windows】9月29日

九月二十九日

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。(第一コリント二・十四)

心から来る行動、感情に基づいた生活や意思こそ、新約聖書が、生まれながらの人間と呼ぶものであって、その人は、『たましい的な』人であるがゆえに、神の御霊から来るものを受け入れる力がありません。リバイバルと呼ばれているもののほとんどすべてが、このような人たちを土台として起こってきました。これは、力強い運動で、感情を揺り動かすものであったし、教鞭な説得と論争が行われて、人の理解と意志に影響を及ぼしてきました。その結果はどうだったでしょう?生まれたままの人間が、何かに操られるようにキリスト教へと向かい、キリスト教徒に変えられました。しかし、私たちから見れば、この中に、神の思いを認めることはできないし、新生とは何の関係もないものです。上で説明したようなリバイバルの中で、確かに、『新生』は起こったのかもしれません。しかし、あえて言いますが、心理的な新生と、御霊にある新生とは異なるものです。人は、本物の新生に特徴的な性質を一時的には、すべて備えることがあるかもしれません。しかし、それがすべて、御霊と何か関わりを持っているとは限らず、実際には、非常に多くの場合、それは、御霊は一切、関わりはなかったのです。それは、人間の働きです。・・・・キリスト教は、神の思いを人間的に解釈する制度となってしまいました。霊的な死がその上を覆っています。これでは、神のための生きた証しとはなりません。神は、御心とつながる重荷を、私たちの心に与えられたのです。私たちは、批判するために語っているのではありません。語らなければならないから、語っているのです。・・・・

2020年9月28日月曜日

【Daily Open Windows】9月28日

九月二十八日

彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。(マタイ十六・十二)

宇宙を乱す何かが、この宇宙に入り込んでいます。多くの恐ろしい戦争のことを、あなたも聞いたことがあるでしょうが、これも、この宇宙に入り込んで、人を揺さぶる力のはたらきなのです。この宇宙には、人間の本性をかき立てるものが存在しています。アルコールのように、それは人を互いに争わせるものです。それは、この世界を動揺させ続けます。それは、人間の邪悪な性質を刺激して外に噴き出させます。それから、また、宇宙に入り込んできたこの何かは、非常に不自然なかたちでものごとを肥大させます――偽物の発達です――。・・・・不自然な拡がりと肥大をもたらすものは全て悪です。使徒パウロは言いました、『私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。』私たちを不自然なまでに大きくするものは、全てが悪であり、個人の生活であれ、あるいは、神の働きと呼ばれるものであれ、その実体を現実の霊的な量りよりも大きく見せようと試み、その純粋に霊的な程度を超えて膨らませているものは、邪悪な性質を持っており、これがパン種です。・・・・

2020年9月27日日曜日

【Daily Open Windows】9月27日

九月二十七日

神は孤独な者を家に住まわせられる。(詩篇六十八・六)

『エペソ人』たちがいたより高い位置とは、次のようなものです――すなわち、今、キリストとともに、よみがえらせられ、引き上げられて、そして、天のところに座らせられているのは、他の信者たちとつながりの問題であり、そして、このつながりの中で、あなたは自分の完全さを見いだすことになるのです。霊的な成長は、孤立し、他の人たちから切り離された個人的な信者には決して得られず、他の信者たちとの関わりの中にあるものです。『神は寄るべなき者に住むべき家を与え』(詩篇六十八・六)てくださるのは確かなことであって、この教義を理解し、受け入れているかどうかにかかわりなく、私たちの霊的な成長は、他の信者たちとのあいだの真に霊的で天的な関わりによってもたらされることを、あなたは、自分の経験によってはっきりと示すことできます。このことを証明するのは、キリスト者たちにとって、非常に長いあいだ、ともに暮らすことが、必ずしも容易ではないという事実です。厳しすぎると思うかもしれませんが、あなたたちが考慮すべきことがらは、他にも数多くあるのです。

2020年9月26日土曜日

【Daily Open Windows】9月26日

九月二十六日

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ六・三十三)

多くの場合、何かを第一に求めるということは、自分のものを全て手放すことを意味したのです。・・・・私たちを落胆させるものは何でしょうか?私たちは、いつもこのように言えるでしょうか?すなわち、自分が主に対して落胆したり、主のされることで落胆していると思うとき、その落胆は、私たちが自分の利害を顧みず、主ご自身に望んだものを手に入れて欲しいと、強く願ったからこそ生まれたものであり、私たちはすべてを手放す覚悟ができていたし、そのことで、私たちの側には何の迷いもなかったと。主が望むものを受けることについても、私たちは心のどこかで、そこで自分がどうするかということを考えています。この二つは、あまりに交じり合っているので、そのあいだに入って、はっきりと切り分けるためには、非常に鋭い道具が必要になります。主の益となる道から、私たちが完全に閉め出されているとき、信仰はぐらつき、弱められ、そして、多くの場合、まっすぐ下に落ちて、隠されてしまうのではないでしょうか?

2020年9月25日金曜日

【Daily Open Windows】9月25日

九月二十五日

まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。(ヨハネ一・五十一)

神が表された願いが消えることは、決してありません。神が伝えられた考えの中に、欠けているものは何ひとつありません。神は、まず、その思いを古代イスラエルという概念と制度の中に表されました。それは、イスラエルについて語られたことのすべて、イスラエルに示された神の目的の中に込められていました。神はイスラエルについてのご自身の考えを、多くのかたちで表されました。このイスラエルは、神の思いに応えることができませんでした。イスラエルに込めた神の願いは、彼らの反逆のために、成し遂げられることができませんでした。こうしてイスラエルは去りましたが、神の思いまで捨てられたわけではありません。その同じ思いのすべてが、新しいイスラエルへと引き継がれたのです。

2020年9月24日木曜日

【Daily Open Windows】9月24日

九月二十四日

見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。(使徒七・五十六)

ステパノが持つ大きな特徴のひとつ、その中でも、おそらく何よりも大切な重要性は、彼が人生の最後の瞬間に見て、最後の一呼吸とともに吐き出したこのことばにあります、『ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える』(使徒七・五十六)。ここには、新約聖書から生まれる真のキリスト信仰、そして、主の教会と世の多くの教会――神の右に立っておられるキリスト――についての、中心的で基本的な現実があります。統治、権威、指揮権は天に昇った主に委ねられており、エルサレムでも、地上のどの場所でもなく、天を中心としています。・・・・ユダヤ人の支配者たちとステパノの告発者たちが、このことばに込められた事実を直ちに、また、鋭敏に理解したのは、彼らにとって、『手で造った聖所』がもう終わったこと、すなわち、律法に基づく摂理が終わりを迎えたという事実よりも大きなことはなく、その他に大きなこともなかったからです。イエス様の教会に向かって、宮、そして、宮に付随するあらゆるものを離れ、より大きく、より豊かな不変の現実に入るようにという暗黙の呼びかけがありました。

2020年9月23日水曜日

【Daily Open Windows】9月23日

九月二十三日

都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。(黙示録二十一・二十三)

光とは、頭の中のものではありません。すなわち、それはただ、頭の知識をためておく場所を持つと言うことではありません。それは、光とは言いません。あふれるほどの学識や真理を持ちながら、どこにも輝くところがない、つまり、暗闇に対抗する強さを持っていないこともあります。本当の光とは、実体験から来るものです。すなわち、それは、経験、苦しみという経験から生まれる実です。神の子供であるあなたたちは、主についての知識を、どのようにして、知るようになったのでしょう?それは、主についての本当の知識であり、私たちにとって何よりも貴重なもので、大きな意味があり、あなたを他の人たちにとって大きな価値を持つ者としてくれる知識です。それは、苦しみを通して、主があなたを導かれた困難な道を通して、主があなたの中で働かれた十字架のみわざを通してです。『小羊があかりです』――知識へ、光へ、理解へと導く苦しみです。その他に道はありません。

2020年9月22日火曜日

【Daily Open Windows】9月22日

九月二十二日

私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。(ネヘミヤ一・六)

愛するみなさん、私たちが何かで世間からの注目を集めて、人々の前で大きな声で主張し始めること、宣伝すること、実演すること、そこに声明、努力、組織を加えて公けの形式を与えること、自分が何か大きな目的に参加すること、あるいは、何かの理念を自分に与えること、そして、その理念の中で何か大きな行動を取ること、こういったことは、確かにあり得ます。そこには、あらゆる種類の要素があっても、主の立場からすれば、本質的に必要不可欠なものが欠けているのです。外からある状況に加えられて、自発的に関わりを持ち、手を染めて、そして、これを生涯をかける仕事、生涯の関心事とするようなこともあるでしょう。しかし、主が私たちの心の中に、密かに、ほとんど負いきれないほど、耐えられないほどの重荷、主ご自身の心の重荷を負わせること、そして、私たちがまずは、神の御前でその重荷を密かに自分の心に負いながら、深い苦悩の祈りを注ぎ出すこととは、これとは全く別のはなしなのです。つまり、このようにして、主の助けとなることは、始めに言ったこととは完全に違うことです。

2020年9月21日月曜日

【Daily Open Windows】9月21日

九月二十一日

こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。(コロサイ三・一)

私たちの祈りの生活は、天に根ざしたものでなければなりません。地上の生活のことを祈っているだけでは不十分です。朝、起き上がって、手早く短い言葉を口に出し、主に自分たちと周りの人々、一日の暮らしに対する祝福を求め、それが生活のすべてであるかのようにお願いするのは、実に簡単なことです。これではいけません!主は、天的なこと、霊的なこと、一時的ではなく永遠なるものふれる祈りだけを受け入れます。すなわち、この世のものでなく、主の永遠で天的な御心につながっていく祈りです。主は、私たちを一時的なものから切り離そうとされます。主の御前には、この世の一時的なものを持っていく場所がありますが、それは、天とのかかわりの中で取り上げなければならず、それだけ独立して解決すべきものではありません。血はすべてを天的なものに変え、古い創造から切り離します。私たちの祈りの非常に大きな部分を古い創造が占めています。それは、自分の都合、不自由さや不快感からの解放、大きな災いと悲しみの元となるものからの救済のための祈りです。このようなものがあると、私たちは進んで多くの祈りを捧げるようになります。『主よ、今日は何も起こらないようにお願いします。今日の生活の中で辛い思いをしなくてすむように!』

2020年9月20日日曜日

【Daily Open Windows】9月20日

九月二十日

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(第一コリント一・十八)

これまでの人生で、十字架を受けていますか?これまでの人生で、あなたは墓を受けましたか?もし、まだ受けていなければ、あなたは影の中に生きています。あなたには、一瞬の光が当てられ、手を触れられるかもしれませんが、それは、束の間のものに過ぎず、移ろいゆき、来ては去ってゆきます。これまでの経験、これまで生きてきた人生の中に十字架と墓があれば、御霊は必要なものを持っており、このよみがえりのいのちが、あなたの中にとどまり続けるという祝福が与えられていて、その中でいのちのは価値あるものとされ、また、その価値は次第に大きくなってゆきます。新しい創造とは何でしょう?それによって、まず、新しい意識が生まれます。あなたは、全てのものが新しく、全てのものがそれまでと違っていることを、はっきりと意識します。これは、主に対する新しい意識です。あなたは、それまでは、生きて来なかったものに対して生きているのです。すべての領域で、前と同じものが、完全に違って見えます。なんとかして、同じ生活に戻り、同じ人々と触れ合おうとするのですが、何か新しいものがあります。そこには、新しい意識があります。すべてが、違うものになったのです。・・・

2020年9月19日土曜日

【Daily Open Windows】9月19日

九月十九日

神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。(ヘブル四・十)

キリストは神の安息日です。キリストは私たちの安息日です。信仰によってキリストの義に入るとき、私たちは神の安息に入ります。これは、とてつもない力です。・・・・主は、とても簡単な言葉で言われます、『あなたが、ただ主であるわたしを信じ、わたしが備えるものを信じ、思い煩うことをやめ、憤ることをやめ、心配することをやめるなら、そして、わたしだけを信じるなら、そこに、わたしがあなたの必要をすべて満たすことのできる土台が整えられる。もはやわたしは、土台のないものではなくなる。かつて、わたしには、あなたとともに、また、あなたのために何かを成す土台がなかったが、今、あなたは、キリストという土台、わたしが整えた土台に立っている。あなたがただ、わたしを信じ、ただ、あなたを受け入れるわたしの中で休むなら、この弱さ、大きな憤りと心配から解き放たれる!』思い煩うことによって、心は傷つけられます。体と心に受ける多くの苦しみの裏には、多くの場合、隠されて外に現れない不安、意識の奥底に潜む苛立ち、そして、休息とは異なる何かがあります。それはいろいろなかたちをとって現れます。時に私たちは、主の関心ごとについて、自分がそれをしない限り、実現できないだろうと考えます。自分が、そこに力を注がなければ、すべてが崩れ去る、自分たちに多くのことがかかっていると感じてしまうのです。

2020年9月18日金曜日

【Daily Open Windows】9月18日

九月十八日

あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(第一コリント四・七)

世界には今も、人間の中に神の栄光に寄与できるものがあり、キリスト教とは、神の栄光の助けとなるものを人から引き出して作られているものだと考える人が多くいます。これは、非常に長い間、信じられてきた誤った考えであり、偽りです。事実ではありません。どのような名で呼ぼうと同じことです。事実、それは、『内なる光』、『いのちのきらめき』など、いろいろな名前で呼ばれています。この事実の上に、真実を伝える神の御言葉が、はるか高いところから、豊かに降り注いでいます。私は、ゼロから始めるのであり、ゼロとは、私に貢献ものは何ひとつない状態を意味します。全てのものは、神から与えられなければなりません。神からの贈り物が、永遠のいのちである以上、神から与えられない限り、それを受けることはできません。神が見る力を与えるまで、あなたは盲目です。神が、主のいのちを与えるまで、あなたは死んだままです。神が、あなたのために、そして、あなたの中で、自分では決してできない何かをしてくれるまで、あなたは希望のない不具者のようなものです。神がそれをしてくれなければ、そして、それが現実に行われなければ、あなたは言わば、そこに横たわったままです。霊的に、これが今のあなたの状態です。あなたに貢献できることは何もありません。・・・・

2020年9月17日木曜日

【Daily Open Windows】9月17日

九月十七日

あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。(申命記八・二)

イサクが神からアブラハムへの贈り物だったことに、疑問の余地はありません。イサクは完全な奇跡であり、神が与えたのでなければあり得ないことでした。聖書にはまた、こうあります、『神はアブラハムを試練に会わせられた。』アブラハムは・・・・一度、息子のいのちをあきらめ、それから、息子を取り戻し、その時、国全体も手に入れたのです。・・・・アブラハムは、手放すことによって国を手にするのです――これは、すべてを投げ出した神の御子を予兆しています。・・・・これは、実に実践的なことではないでしょうか。ああ、どうすれば、このようになるのでしょうか?自分を、完全に捨てきることによってです!しかし、これはとてもできないことです――誰でも、自分を見ているからです!自分の意志、自分の関心、自己実現といったことはサタンの王国であり、神はこのようなものを通じて、あなたに御国を与えることはしません。・・・・

2020年9月16日水曜日

【Daily Open Windows】9月16日

九月十六日

「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。(ヘブル三・十三)

私たちは、自分の動機を語るとき、こんなふうに言います、『私たちの動機は正しかった!』私たちは、自分の良心について語り、自分の意図について語りますが、あなたも私も、自分では良い動機と呼ぶものの背後に何が隠れているか、知らずにいます。このような人間の心には欺瞞があり、それが、隠されたものを見極めたいという私たちの必死の試みを挫くので、私たちは、追い求めることができなくなります。・・・・こうして、教会はかくも混乱し切ったものとなり、かくも悲劇的な状態に陥ってしまったのです。これは、自分を神の前に投げ出せば、神はあなたを取り上げ、用いてくれるという考え方が支配的だからです。すなわち、『あなたの人間的な心をここに持ってきて、主に捧げなさい!まずは、あなたの古い人を主に捧げ、それから、捧げられた古い人によって、外に出て、主に仕えなさい!』これは、神が教える言葉と、まったく反するものです。その結果として、神の働きの中、世界中の至るところで、肉の活力、肉の論拠、肉の感情によって主に仕えている人々があふれています。彼らに会って、向かい合い、彼に挑んでみれば、悪意に満ちたものとぶつかるでしょう。すなわち、目の前で、争い、分裂、分派、分散があり、人が次々と去って行くことになります。

2020年9月15日火曜日

【Daily Open Windows】9月15日

九月十五日

愛には偽りがあってはなりません。・・・兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。(ローマ十二・九~十)

『イエスは、その愛を残るところなく示された。』この一文には、これまで、この世界にもたらされた、もっともすばらしい事実が語られていると私は思います。イエスは様、周りの人たちとの間に、多くの問題を抱えていました。彼らは、いつも主を誤解していました。主を失望させることも多かったのです。彼らは本当に貧しいものたちばかりでした。・・・・主は、彼らがどこまでも貧しいものであると知りながらも、その愛を残るところなく示されました。これが、主の愛の第一の特徴です。私たちが過ちを犯しても、その愛に変わりはありません。私たちが、間違いを犯すからと言って、主の愛が消えることはありません。私たちは、いつも主を失望させ、いつも主の思いに沿うことができず、いつも主を悲しませる者かもしれませんが、主は私たちを愛し続けます。主は、最後のときまで、その愛を残るところなく示されます。私たちがしくじっても、主の心は変わりません。これは、人間の愛とはまったく異なった種類の愛です。キリストにある神の愛です。・・・・確かに、愛について語ること、愛しているように振る舞うこと、愛の言葉を使うこと、愛についての聖歌をうたうことは、とても簡単で、人を感傷的な気持ちにします。おそらく、誰にも、あなたを愛していると言った人々がいたでしょうが、彼らこそが、私たちをもっとも傷つける人々であることも多かったのです。さて、イエスの愛は感傷的なものではなく、実践的な愛でした。主は弟子たちと人のあいだに入って、『兄弟たち、あなたたちを本当に愛していますよ』などとは言いませんでした。主は、彼らに対する行いを通して、どれだけ愛しているかを示されました。それは感傷的な愛ではなく、実践的な愛でした。そして、その愛こそ、イエスが残るところなく示された愛でした。・・・・ご自身の者への主のこの愛の特徴が、私たちの他者への愛の特徴ともならなければなりません。御霊が遣わされたのはこのためです。主が、私たちへの愛を残るところなく示されたように、私たちも互いを愛さなければならないのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年9月14日月曜日

【Daily Open Windows】9月14日

九月十四日

この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。(ヨハネ十三・一)

イエス・キリストのしもべによる働きも、深く強い愛が根底に宿っていなければ、勝利につながるものとはなり得ません。・・・・愛は、私たちの問題を解決し、私たちを勝利へと導くものですが、十分な愛がなければ、人間の本質的な問題、気質と人格のあまりに大きな違い、そうして、人を党派に分けてしまうもの、そして、絶え間ない流出と苦しみ、こういったものが、敵から来るあらゆる重圧と相まって、問題、当惑、何もできなくなるほどの課題を作り出します。・

2020年9月13日日曜日

【Daily Open Windows】9月13日

九月十三日

平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。(エペソ四・三)

キリストにあってひとつの体となり、互いと固く結びつくことが、ここには描かれています。どうすれば、この完全な一致に達することができるでしょう?個人的なもの、私的なものをすべて捨て去ること、主が生活の焦点になること、そして、私たちが力を尽くして一致を保つことによってであり、こうすることで、個人的なことはすべて締め出し、キリストとその願いを常に見据えるようになります。・・・・これは、幻想でも、想像でも、ただの理想でもなく、非常に実践的なはなしです。不和を引き起こす要因が働いており、私たちを分断しようと忍び寄っていることに、あなたも私も気が付くでしょう。敵はいつでも、これを実行に移す機会をうかがっており、主の民の間に入り込んで、障壁を作ろうと、あらゆる手を尽くしてきます。この障壁は、重圧と距離、例えば、不一致とか孤立を人の心に感じさせます。そのやり方は時には、とても抽象的な性質のもので、手を触れたり、説明したり、それが何なのかを言葉にすることができず、何かがあると感じるだけです。より明確なかたちをとることもあり、私たちの言行や手に入れた何かに対して、人が明らかに誤解、歪曲するように仕向け、そして、もちろん、敵はいつもそれを、大げさに吹聴します。

2020年9月12日土曜日

【Daily Open Windows】9月12日

九月十二日

あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか・・・を、あなたがたが知ることができますように。(エペソ一・十八)

聖徒たちが、キリストから受け継ぐものは何でしょう?聖徒たちの中に受け継がれる、キリストの栄光に富んだものとは何でしょう?それは、神が主に願ったように、主が世界に向けてご自身を示される手段を、聖徒たちが提供することです。主が完全さの中心となられることは、神の御言葉の中で定められていますが、その完全さは、主だけに限定されて現わされ、示されるべきものではありません。そうであったら、主が来られる理由もなかったでしょう。ただ一人の神という地位にあるお方は、受肉などなくても目的を果たすことができたし、神はただそのままで、完全さを達成できたからであり、それは、ピリピ人への手紙で言われているとおりです。主は、神と等しく、神と同じ完全さを持っていながら、自分自身を無にされました。なぜでしょう?他の人間たちも同じ完全さに入ることができるように、主ご自身だけがその完全さを持つことにならないようにするためです。それは、サタンが欲していることです。

2020年9月11日金曜日

【Daily Open Windows】9月11日

九月十一日

キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。(第二コリント五・十四)

『聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』(ローマ五・五)これが奉仕を推し進める力でした。さて、これはとても単純なことで、二つのかたちで働きます。全ての活動、働き、そして、主への『奉仕』と呼ばれるものは、このことが背後になければ、実を結ぶ奉仕となる真の力に欠けています。しかし、もし、それがあれば、私たちは必ず主のしもべとなります。主に対する個人的で情熱的な愛の他には、私たちを真の主のしもべとしてくれるものはありません。代わりになるものはないのです。しかし、このことを考えれば、人に聖人という位を与えたり、聖職者として定める意味などありません。心に主へのふさわしい愛があれば、それだけで十分、あなたは主のしもべです。必ずそうなり、必ずうまく行きます。主にとっての私たちの価値を計るものは、主ご自身への心の愛の大きさだけです。それが全てです。そこに難解なものは何もありませんが、試練ではあります。

2020年9月10日木曜日

【Daily Open Windows】9月10日

九月十日

この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。(エペソ三・三)

現在の状況をよく考えるほどに、より深く確信するようになることは、今この時、何よりも必要とされているのは、神の幻を見る人、勇気を持った人であるという事実です。ただし、ここでいう『幻』ということばは、聖書の中に出てくる特別な意味であって、一般的に使う先見の明などのことではありません。すなわち、他の何にもまして必要とされているものとは、御霊によって心の中に神の啓示を受け取って、この摂理の中の神の目的、今、この時において神が特別に重視しているものを示された人です。

2020年9月9日水曜日

【Daily Open Windows】9月9日

九月九日

愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。(ピリピ二・一~二)

思い違い、間違った教え、異説などは、悪魔が、『イエスの証し』を破壊するためにもっともよく用いる手段でしたが、『モダニズム』、または、『高等批評』と呼ばれる武器を手に入れたとき、この悪魔は、いわば、二連発の銃を使い始めたのです。ひとつの銃創は、キリストの人格、キリストの働き、そして、聖書の権威という本質的な真実に照準を当てました。悪魔はこうして、大きな混乱を引き起こしたわけですが、悪魔の二つ目の銃創、一つ目とつながっている銃創がもたらす損傷は、それと同じ程度で済むだろうかと、人は不安に思っています。この二つ目の銃創から、悪魔は湧き上がる雲のように巨大な疑い、恐怖、不信感、不安、そして、真のキリスト者を動揺させる様々な心の動きをまき散らしたのです。

2020年9月8日火曜日

【Daily Open Windows】9月8日

九月八日

ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ。」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。(マタイ二十一・十五)

主は、オリーブ山にのぼり、へりくだって柔和なことばで、ご自身を王として示されました。移り気な群衆は、もちろん、この地上の可能性に飛びつきましたし、弟子たちは今回も、皆、その中にいます。しかし、マタイ伝二十一章十五節までくると、ユダヤ人たちのあいだのイスラエルの本当の状態が描かれ、そして、主が語っていたのは現世に建てられる政治的な王国のことではないことに気づくと、移り気な群衆でさえ、すぐに同じ気持ちになったことが分かります。そして、彼らがいだいていた期待が、湧き上がる疑念にかき消された時、群衆は、支配者たちとともに、こう叫びだします、『除け。除け!』このことばの背後、奥深いところに隠されたものが第十五節にあります。すなわち、主に対する明白な敵対意識であり、そこに主を求める気持ちはなく、もちろん、ねたみと嫉妬から掻き立てられた思いだけがあります。人々の願っていたことが、はっきりと現わされた場所がオリーブ山でした。・・・・

2020年9月7日月曜日

【Daily Open Windows】9月7日

九月七日

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。(ピリピ二・三)

神とともに歩むとき、神のために前に進み出るとき、私たちは何を期待しているのでしょう?何が起こると考えているのでしょうか?この質問への答えによって、神との関係の中に、地上のものを求めているか、どうかが分かるのではないでしょうか。お分かりですか?つまり、人間が生まれつき持っている願望を、霊的な目的へと傾けてゆくことは、誰にでもできるのです。同じことをしていても、そのはたらく方向、領域だけが変わっていくのです。神の働きにおいても、世にあるのと同じように意欲的であってもよく、それは、生まれたままの自然な願望です。それは、生まれたときから持っている、何かをしたいという強い意欲です。あなたの願い――あなたの求めることは何ですか?何かを見ること、何かを持つこと、何かの中にいることですか?成功したいという願望、確かに世にあっては、それがありました――今は、その願望が別のものへと向けられています。・・・・

2020年9月6日日曜日

【Daily Open Windows】9月6日

九月六日

神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。(ピリピ三・三)

新約聖書においては、割礼は霊的で内面的なものとみなされています。パウロは、はっきりと述べました、『外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。・・・心の割礼こそ割礼です』(ローマ二・二十八~二十九)。『神の御霊によって礼拝を(する)、・・・私たちのほうこそ、割礼の者なのです』(ピリピ三・三)。割礼とは、霊的なこと、内面的なことであり、心の問題なのです。そして、これが意味するところは単純で、主イエス様の十字架にあって、生まれたままのいのち、また、生まれたままのいのちを論拠とする考え方、自我のいのち――自我のいのちの願い、自我のいのちの欲求――が、十字架によって、切り捨てられたということです。自我のいのちの表現と側面の全てが、十字架によって切り裂かれ、隔てられた扉の向こう側に置かれています。生まれたままのいのちの現れに対して開かれている扉は、ひとつもありません。十字架は言います、『この扉は閉じられ、その上には死が置かれる。』これが、霊的な割礼です。ステパノは、自分が殺される原因となった、比類なき問いかけの言葉の中で、彼を迫害し石を投げようとしている人たちに向かって叫びました、『かたくなで、心に割礼を受けていない人たち』(使徒七・五十一)。『心と耳とに割礼を受けていない』とは、何を指していたのでしょう?ステパノが言おうとしていたのはただ、彼らが、自分が欲するものを求め、願うだけで、それ以上の思いはなかったということです。偏見は、割礼を受けていない心だけに現れる刻印です。偏狭さも同じであり、また、ステパノを死へと導いたのと同じ状況を作り出すものは全てが、割礼されていない心を示すしるしです。そう考えるべきです。それでも、なお、自我、生まれつきのいのちが顔を出して、主張ししようと試みます。まだ、自我の欲求と意識が消えることなく、でしゃばってきます。十字架、霊的な割礼は、そのすべてに対して、『だめだ!』と言っています。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年9月5日土曜日

【Daily Open Windows】9月5日

九月五日

『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。』人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。(使徒七・五十六~五十八)

キリスト者として生きているあなたと私は、非常に幅広い意味で言えば・・・・妨げる者を代表しており、その在り方のゆえに、私たちは『厄介者』と呼ばれることになります。本当の意味で、私たちは厄介の元と言われても仕方ないのです。問題の矛先が私たちに向けられ、私たちは辛い思いをすることになります。あなたが主を妬んでいるというまさにその事実のゆえに、あなたは、この世の流れ、人の流れと対立する者となります。・・・・もっとも純粋な証しがなされ、そこに、神にあるもの、地と対極にある天、肉的で生まれつきの性質と対極にある霊的な性質が完全に現される時、敵はそのすべてをひっくり返し、ものごとを捻じ曲げて、その責任を霊的、天的な奉仕者に負わせようとします。敵は言います、『お前こそ、すべての問題の原因だ――お前が問題を起こす者だ!』しかし、これは嘘です。問題の元は、それよりずっと深く、違うところにあるのです。

2020年9月4日金曜日

【Daily Open Windows】9月4日

九月四日

いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。(使徒七・四十八)

ステパノが見たもの、そして、新約聖書が記し、暗に示し、また、伝えていることとは(この面での記念碑的な書物とは『ヘブル人への手紙』です)、ソロモンは――せいぜい――ずっと偉大な『御子』の姿を暗示する象徴に過ぎなかったこと、ソロモンの宮は、あれだけの栄光、富、美しさがあってもなお、『手で造ったのではない家』の方角を指し示しただけだったという事実です。それは、ペテロが――困難と痛みを通って変えられた後で――神の霊的な家と呼んだ家のことです。ステパノは、この長い歴史の全体を、『預言者たち』として包括した上で、事実上、次のようにまとめています。預言の精神は、この時代の先にある、前向きで最終的な神の霊的目標点につながっていたと。

2020年9月3日木曜日

【Daily Open Windows】9月3日

九月三日

神は、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に高く置かれ、・・・・(私たちを)キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。(エペソ一・二十―二十一、二・六)

ここに啓示されていることを、御霊によってあなたの心に受け止め、この事実が人を解き放つ力、人に続けさせる力を知ってください。この事実は今、このとき、心へと啓示されるものです。主は、このことを、何度も繰り返して、私たちの心に啓示しようと、長い間、務めてきました。大切な点はここです。私たちがあるべき姿がこうして示されたわけですが、あなたと私は、それを理解するだけの霊的な受容力を、主に求めなければいけません。それが、引用した手紙の別の一節へとつながって行きます、『神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。あなたがたの心の目がはっきり見えるようになりますように・・・・。』あなたがたの心の目がはっきり見えるようになるように!これが、幻の中に示されたもうひとつの姿です。

2020年9月2日水曜日

【Daily Open Windows】9月2日

九月二日

あなたがたのためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロ・・・(エペソ三・一)

啓示の完全さに近づこうという試みには、常に、それに付随する代償が伴っていました。証しをするひとつひとつの道具は、主にとっての価値の大きさに応じて、疑いと非難のもとに敷かれましたが、人間的に見れば、彼らはそこで受けた制限の中にとどまってきたと言えます。多くのものが、引き下がり、倒れ去り、遠ざけられ、疑われ、恐れられ、そして、問い質されてきました。しかし、パウロが言ったように、『私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄』(エペソ三・十三)なのであり、また、パウロは、『あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった』(エペソ三・一)のですから、主にあって受ける制限の大きさは、主を信じる人々においては、豊かさの計りでもあります。啓示があまりに豊かなものであると、捕らえられる人はそれだけ少なくなり、そこから遠ざかったままでいる人の数は多くなります。啓示とは、苦難と制限を通して、初めてもたらされるものであり、経験を通して啓示を受け取ることは、その代償を何らかのかたちで負うことを意味します。しかし、これこそ神が、ご自身の霊的な苗床を守るための手段なのです。・・・

2020年9月1日火曜日

【Daily Open Windows】9月1日

九月一日

もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。(ヨハネ十三・三十五)

愛――豊かな理解と教えと真理の存在ではなく、いろいろなものの不在でもなく――愛こそ、主が人を支配する手段です。主が、間違った行いをご自身の心に受け入れてくれると言うことではなく、主は、そこにあるものを見通し、私たちと違った見方をされます。・・・・愛――全ての人に対する愛――がなければ、何かを築き上げる希望もありません。あなたも私も、この築き上げると言うことを、いつも強く心にとめておくべきです。