2020年11月30日月曜日

【Daily Open Windows】11月30日

十一月三十日

バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。(マタイ十一・十二)

天の御国とは、人の改心よりも、ずっと大きなものです。もちろん、あなたに救われたいという気持ちがあるなら――初めて、救いを受け入れたいなら――真剣にそれに向かい合わなくてはなりません。これは、必死で取り組むべき問題です。あなたをとどめようとする者が、至るところに現れるからです。しかし、天の御国とは、ただそこに入ることよりずっと大きな何か、回心よりもはるかに大きなものを意味します。私たちの人生に対する神の目的には、私たちが想像して来たことより、ずっと多くのものがあり、私たちがそこに踏み込もうとすれば、激しく攻める力が私たちの特徴となります。私たちは、必死の気持ちで取り組んで、こう言える境地に達しなければなりません、『主よ、私はあなたがキリストにおいて成そうとしている全てに対する備えができています。私には、それを受け入れる決意があり、偏見、疑い、批判がどれだけ強くても、気持ちは変わりません。人間が作ったどのような制度も自分が進む道を妨げません。私は主であるあなたの目的を果たすために、ともに進みます。行く手をふさぐどのような相手も、私は激しく攻めます。』そこには、激しく攻めることが求められます。そして、神が望むことをすべて為すためには、何度も激しく攻めなければなりません。

2020年11月29日日曜日

【Daily Open Windows】11月29日

十一月二十九日

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。(ヨハネ一・十六)

主が祝福し、栄えさせたとき、そこで自分も大きな者になってやろうと思った人が多くいたのではないでしょうか?この動きは必ず大きくなる!私にとっても、大きな機会だ!働きに手をつけると、すぐにそれを、個人的な行動に変えようとする人がいます。歴史の中で、このようなことが行われてきました。神の働きにとって、もっとも危険なのは、祝福の時間です。祝福があるところ、いつも、人々が集まってくるのですが、彼らは、神の目的を見据えているわけではなく、祝福のあるところに個人的な幸福を見ているのです。・・・

2020年11月28日土曜日

【Daily Open Windows】11月28日

十一月二十八日

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(ルカ九・二十三)

十字架は、それぞれの人となりに合わせて用いられます。私にとって十字架とは何かということが、そのまま、あなたにとっての十字架とはなりませんし、十字架は一人一人に対して、まったく違う何かを意味しているかもしれません。それでいて、十字架とは普遍的なものです。これが大切な点です――中心であり、普遍的です。十字架はそろぞれに異なったかたちで触れ、また、一人一人に独自の疑問と問題を生じさせます。ここが十字架の難しいところであって、あるがままの私たちの姿で、十字架のもとに来て、十字架の働きかけを受け入れることが問われます。誰かのことで、『この人はどうするのがいいだろう?』などと言っても意味はなく、主は直ちに答えられます、『それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。』十字架は、私たち一人一人に、個人的に、独自に、更に言えば、私的に働きかけるのであり、霊的な成長のために必要なのはただ、十字架が私たちの中で働きを行うこと、そして、私たちが個人的にそれに応えることです。

2020年11月27日金曜日

【Daily Open Windows】11月27日

十一月二十七日

人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。(使徒三・九)

『ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい、』すると、彼はおどり上がった。ことばにすると簡単ですが、その行動は、まことにすべてを完全に一変させるものでした。この男はすぐに、自分に神の栄光が現れたことを知りました。彼は、おどり上がって神を賛美し、その栄光をたたえました。自分の心、自分のたましいに、この気持ちが起こったのです。彼は自分が変わったことを知り、神の安息の中に憩うようになりました。・・・・

2020年11月26日木曜日

【Daily Open Windows】11月26日

十一月二十六日

自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。(ヨハネ七・十八)

あなたも私も、いつの日か、神と対面することになります。私たちは、永遠の時の中で、文字通り、正面から神と顔を合わせるわけですが、そこで、神が私たちを失望させたことがあっただろうかという疑問が浮かんできます。私たちは、どんな小さなことでも、『主よ、あなたは私を失望させました、御自分のことばに正直ではなかったですね』などと言えるでしょうか?誰であろうと、このような非難を神の扉に投げかけて、神の真実、現実、誠実さに疑念を挟むことなどできません。そのような立場は考えられないことです。聖霊が、私たちをすべての真実に導くための真理の御霊として遣わされたので、主の絶対的な誠実さ、主のご自身に対する真実、そして、みことばのことで、神と私たち自身のあいだに影が射すことなどあり得ません。これが、聖霊が来た目的です。これが真実であれば、聖霊がすべての弟子たちをキリストの学校で訓練し、真実ではないこと、純粋ではないことを全て切り落として、その弟子の一人一人を固い土台の上に立たせ、主の絶対的で完全な正義の日にも、そのまま御前に留まる者としてくれます。しかし、それが現実となるためには、あなたと私は、聖霊の教えの下で、誠実にこの助けを受け入れて、神の前で自分を変えることができ、聖霊が成すすべてを受け入れ、私たちの中には聖霊に抵抗や拒絶するものは何もなく、その一方、人生の中で、手助けと手直しが必要なものに聖霊が指をかけるときは、その大きな変化にも、心を開いて、受け入れる備えができている、そのような境地に到達しなければなりません。聖霊が来ているのはそのためなのです。

2020年11月25日水曜日

【Daily Open Windows】11月25日

十一月二十五日

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、・・・・神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせました。(エペソ一・十八~二十)

復活とは、至上の奇蹟です。死は、神の働き、神の似姿、神の目的に対立するもっとも強い力です。死は、この宇宙で人間に対抗する最大の力であり、人間の働き、人間の希望、人間の幸福に対立するものです。死とは、造られたままの被造物の最後を告げることばです。神の外に、死よりも強い力は、この宇宙にありません。死が入り込み、働きを完了したら、何ものであろうと、それを元に戻し、滅ぼすことはできません。悪が支配する世界では、死を越える力はどこにもありません。だからこそ、キリストの死からのよみがえりを語るとき、『神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか』(エペソ一・十九)ということばが使われます。他のあらゆる悪の力――罪、苦しみ、悲しみ、滅び――を死が超えたとき、神の答えだけが、ただひとつの希望、ただひとつの解決となります。

2020年11月24日火曜日

【Daily Open Windows】11月24日

十一月二十四日

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(エペソ一・三、四)

この御言葉で、世界が造られる前から選ばれていた者、イエス・キリストを通して子供として迎え入れられるよう、あらかじめ定められていた者が、天にあるすべての霊的祝福を受けました。これは、ご自身の民への神の豊かな思い、完全で、すべてを包み込む、あふれるばかりの思いです。私たちはまだ、この祝福のすべてを受けるに至っていませんが、それは、神がまだ、与えていないからではなく、私たちがそれを受けるだけ、十分に成長していないからです。私たちは、あらゆる面で、主に達するほどに、成長してはいません。これが、上のみことばの大切な点、すなわち、神の思い、キリストのはかりに達したいと言う強い願いです。

2020年11月23日月曜日

【Daily Open Windows】11月23日

十一月二十三日

愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、・・・人知[経験を伴わない知識]をはるかに越えたキリストの愛を[実践的に、あなた方自身の経験を通して]知ることができますように。(エペソ三・十七、十九)

聖霊は、忍耐、素養、指導、力強さなど多くのものをを霊の賜物として与えてくれますが、聖霊自体が経験の代わりとなることはありません。私たちは、気がつけば、本来なら聖霊はするはずのないことを、聖霊が自分のためにしてくれるようにと願っていることがよくあります。御霊がすることは、私たちを経験へと導くことです。これが、御霊が私たちの祈りに答えるただひとつの道です。多くの祈りは経験を通して答えられます。主に何かをしてくださいとお願いすると、主は経験を通してあなたを導き、あなたは答えへとたどり着きます。もちろん、それがあなたが望んでいたことではなく、あなたが願ったのは、主がそのとき、そこで、贈り物として、行動として、そのことを実行してくださることでした。しかし、それは、ただ客観的に外から与えられたものとしかなりません。御霊はこの経験をあなた自身の一部とすることを望んでおり、だからこそ、御霊は祈りに対し、経験によって答えるのです。『忍耐が経験を生み出す』のであり、そして、経験がなければ、誰が、何を与えてくれようとも、なんの役に立つでしょう?

2020年11月22日日曜日

【Daily Open Windows】11月22日

十一月二十二日

信じた者の群れは、心と思いを一つにしていた。(使徒四・三十二)

主は、地上でともに働く仲間として、あらゆる面で天的な人たちを必要としています。その生活、力、知恵、知識、そして、目的といった霊的な資質は天からのもの、御霊の手助けのみによるものでなければなりません。彼らが用いる方法と手段は、神から与えられ、また、示されたものでなくてはなりません。彼らの活力は、神から直接、伝わる活力であり、すなわち、自分自身の活力からは切り離されたものです。彼らのあいだの霊的な関係とつながりは、天的なものであることが必要です。初期の教会において、主の王座の力が失われたのは、この世的な制度と体系に溶け込んでしまったためであり、古くからのしがらみに対して、断固たる立場を取らなければ、回復の見込みはありません。キリストの御体――教会――の真に天的な性質について言えば、この世の秩序と矛盾しない、純粋に天的な地位が必要となってきます。主のしもべたちの集まりにおいて、誰かが語ったそうです、『それは、まるで天にふれられたようだった。誰もが――そこにいるあいだ――宗派の違いや、この世の分裂をきれいに忘れていた。』これが、全てを物語っています。でも、なぜ、元の状態に戻ってしまうのでしょうか?

2020年11月21日土曜日

【Daily Open Windows】11月21日

十一月二十一日

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント三・十八)

神のいのちの輝きに生きていれば、私たちの顔がその輝きを曇らせることもあると、私は考えています。私たちが本当に主とふれあって生きていれば、世はどこかで気づくはずであり、そこには、霊的な者だけが味わい、理解することができる言葉が聞かれるでしょう。アブラハムの種に霊的に感応する者たちがいて、彼らは他の誰とも違います。さて、『教会』と呼ばれるものの悲劇とは、これまでいつも、また、おそらく、今日もこれまで以上に、この区別が失われつつあることです。今日の世界では、お互いとの対立、互いの違いを無くしていく方向で、また、相手に取り入って、自分と衝突しない人たちに近づくことによって、人間の集まりが出来上がっているのではないかと思います。そう、これが、私たちを取り囲む宗教世界で行われていることであり、時代に合わせようとしているのです。しかし、五旬節の時に起こったことの本質を見れば、その場にいた霊の人々は、その存在自体が全く人とは違っていたし、他の人たちともあらゆる面で異なっていたのであり、そして、彼らの強さと影響力はこの差異の中にあったのです。他の人たちとなれ合うことができないのは、彼らが不器用で、付き合いにくく、人をいらだたせるからではなく、彼らの霊的な気質のうちに際立った何かがあるためです。そのことに気づきさえすれば、それが、この世に彼らが影響を及ぼす秘密となります。

2020年11月20日金曜日

【Daily Open Windows】11月20日

十一月二十日

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。(第一ペテロ五・十)

私たちのために、また、私たちの中で、行われなければならないことがあります。私たちは、何ごとかが私たちのために成される、すなわち、天が私たちの生活に介入して、困難が取り除かれ、私たちのためにまっすぐな道が引かれるといった流れで、ものごとが進むことを願っています。天が手を差し伸べる用意が整い、主が私たちのために働く備えができたとしても、それが全てだとしたら、主のためには不十分です――そして、私たちにとっても十分とは言えないでしょう――。霊的な成長と成熟の原理は、まさしく、主が客観的事実と主観的事実の釣り合いを保つことを求めています。すなわち、何かが私たちのために行われるとき、それは、私たちの中でも行われるということです。これもまた、十字架の原理です。主は、私たちのために死なれた――これが客観的事実です――。私たちが主の中で死んだ――これが主観的事実です。霊的な経験にはふたつの側面があります。主は、ものごとの釣り合いを保っています。

2020年11月19日木曜日

【Daily Open Windows】11月19日

十一月十九日

神の約束はことごとく、この方において「しかり。」となりました。(第二コリント一・二十)

この約束は何のためでしょう?この約束が、人間的なよろこびをもたらすものでないことは、イスラエルの場合も、私たちの場合も同じです。・・・・主の子供たちである私たちは、気が付けば、個人的な戸惑い、個人的な困難、個人的な苦しみの中に、厳しさに取り囲まれた状況に置かれていることがよくあります。そのようなとき、私たちは、神の御言葉のある部分を取り上げ、それを主の前に掲げて、解放を願い求めます。

2020年11月18日水曜日

【Daily Open Windows】11月18日

十一月十八日

そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。(第二テモテ一・十四)

あなたは、人に与えられるものをどれだけ持っていますか?自分が持つものを、人に分け与えていると確信できますか?主が、あの試練、暗闇、不思議な体験を通してあなたを導かれたのは、あなただけのためではありません。主がそうされたのは、あなたが自分の中に閉じこもって、受け取ったものを享受するためではありません。主がそれをされたのは、あなたを管理人として召し抱えるためです。あなたも私も、この事実を受け入れれば、困難と試練の日々も切り抜けることができます。試練は、主の民を富ませるため、また、主に対する務めの備えと資質を強めるために与えられるのだという事実を、私たちは心に留めるべきです。・・・・主に向かって、自分にできる限りの務めの中に解き放ってくださるようお願いしてください。ここで語っているのは、組織化された公式の神への奉仕のことではありません。そのような奉仕の中では、あなたに力があろうとなかろうと、人のために努め続けることが要求されます。それはすべて偽物で、あなたには重圧となります。そのようなものは、断固として拒絶すればよいのです。

2020年11月17日火曜日

【Daily Open Windows】11月17日

十一月十七日

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ八・二十八)

あの場所へと戻ってみてください。主が、しばらくの間、あなたを置かれた場所、主が、どれだけの試みと困難と苦しみがあっても、抜け出そうしないで、そこで人生を生き、そこで働きをするようにとあなたを召されたあの場所です。その場所から抜け出すことをいつも望みながら生きると、その場所が今、もっている大きな価値を見過ごすことになります。そのようなことをせず、その場所に戻って、あなたが主のもので、神を愛し、目的があって召されたのであれば(あなたがキリストの中にいるなら必ずそうです)、神があなたとともに、あなたの中で、そして、あなたが置かれている状況を利用して、何かをなそうとしていることに気付いてください。抜け出そうとすれば、あなたは神の目的を踏みにじることになり、主の意図を、理解することも、受け入れることもできません。これまでの人生のある期間を振り返ってこう言わなければならないとしたら、それ以上に残念で悲しむべきことはありません。すなわち、『人生のあのとき、神の大きな目的に対して、あのような態度を取らず、違う考え方をしていたら、神の目的に気づいていたはずだ。私はいらだつばかりで、忍耐がなく、いつも逃げ道を探していた。私は反抗的で、自分で作り出した別の精神世界に住んでいて、その中で自分でこれになるとか、あれをするとか、勝手に決めていた。だから、あのとき、神が意図されていたことをすべて見過ごしてしまったのだ。』これほど悲惨なことなど、ほとんどあり得ません。

2020年11月16日月曜日

【Daily Open Windows】11月16日

十一月十六日

ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。(ヘブル四・十一)

なぜ、新約聖書には、このように前へ進むことを激励することばが、たくさん現れるのでしょうか?なぜ、新約聖書は、神の民が前に進むことに対する激励と励ましと警告であふれているのでしょうか?そして、なぜ、新約聖書は、これほど実践的な書物なのでしょう?それは、真の霊的な進歩と、主の臨在のためには、私たちの知識をすべて、最新の状態にしておくことが必要だからです。新約聖書の中にあることが何回、書かれているか、あなたたちは答えられるでしょうか。それは、荒野でのイスラエルの生活についての言及です。これもその部分です、『きょう、もし御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならない。』何度も繰り返して、このようなことばが新約聖書に挟まれていますね。きょう!きょう!きょう!お分かりでしょう。このすべてが、今、この瞬間の現実とならなければならないのです。未来に向けて進歩するためには、今、この瞬間、私たちが知っていることを、実行に移すことが求められます。だから主は言われます、『あなたたちが進み続けるなら、わたしはともにいる。そして、前に進むとは、わたしがあなたに語ったすべてを実践し、行動に移すことを意味している。』主についての知識が成長するためには、日々の生活の中で、私たちが当てられた光に従うことだけが求められています。・・・・

2020年11月15日日曜日

【Daily Open Windows】11月15日

十一月十五日

わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。(黙示録二・十七)

神は、キリストの中のご自身の啓示を、常に、実生活の中の状況と結び合わせて行われます。あなたも私も、何か、生活上の必要に迫られた場合でなければ、啓示を受けることはできません。啓示は、単なる情報として受けることはできません。それは情報であって、啓示ではありません。啓示は、勉強して受けられるものではありません。荒れ野でマナ(天からのパンというかたちを取ったキリスト)をくださったとき、主は、その日を生きるために必要な分の他には、ひとかけらも取らないように強く戒められた上、ただちに必要な分量を超えたら、病と死が起こって、彼らの上に広がると告げられました。ここにあるマナの原理、マナの法とは、神が、キリストの中にあるご自身の啓示を、現在の状況下の必要と結び合わせて現されることであり、私たちは単なる教え、教理、判断、理論、あるいは、何かものとして、啓示を受け取ることはありません。これは、神が、キリストの啓示の他に、助け、救えるものは何もない状況へと、あなたや私を引き入れることを意味します。・・・

2020年11月14日土曜日

【Daily Open Windows】11月14日

十一月十四日

私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得(ることができる、という望みがあるからです)。(ピリピ三・八)

人間は、キリスト教と真実について、自分なりの解釈を作り上げ、体系立てた考え方を取り入れてきました。そのため、全てが混乱しきってしまい、ネヘミヤのような明白な判断力を持つものでない限り、何が神から来て、何が神から来ていないのか、まったく分からなくなっています。善良で正直で誠実なキリスト者でありながら、宗教的に、何が神から来て、何が神からではないのかということになると、恐ろしく深い霧の中にいる人たちが大ぜいいます。人間の宗教体系がこの混乱を引き起こしたため、数多くの正直な人たちが、自分たちは神から来たものの中にいると、心底、思い込んでいて、そして、神から来ていない、人間の手で作られたものがあれば、自分はそれを判別できると信じています。『・・・ちりあくたは山をなして』います。

2020年11月13日金曜日

【Daily Open Windows】11月13日

十一月十三日

人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。(第二コリント三・十六、十七)

何からの自由でしょう?そう、前に話したように、主の方を向いて、心に主のことだけがあれば、聖霊が私たちを自由にします。あなたは今、自由を求めてもがき、奮闘し、戦い、格闘し、祈り、嘆願し、求め、渇望し、主に頼んでいるところでしょうか。それは、非難からの自由、恐怖からの自由、栄光が現れたとき、イスラエルを捕らえて麻痺させていた束縛からの自由です。恐怖から、不安から、恐れから、非難からの自由を求めていますか?自由になるために、何をしていますか?ただひとつ、簡単で直接的な方法があります。主のことだけを思い、主に立ち返ることです。神が満足されたお方としてのキリストを受け止め、自分で神を満足させようと試みるのはやめてください!キリストへの信仰だけを、神は求めています。

2020年11月12日木曜日

【Daily Open Windows】11月12日

十一月十二日

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。(第二テモテ四・二)

主の祝福を受けた善良な人たち、主に好意的に見られ、また、主に大いに用いられてきた人たちでさえ、どこかで妥協する心が生まれたら、最後は霊的な悲劇に巻き込まれることがあります。その妥協は、自分で考えた方策の故に生まれたのかもしれません。方策とは、人を誘い込む罠のようなものではないでしょうか!私たちは、あれやこれをして、こんな結果、あんな結果にならないように気をつけなさいと自分に言い聞かせます。これは全て、方策であり、交渉術に過ぎません。『これをしないように気を付けなければ・・・・』――いったい何を?私たちがしないように心掛けることによって、心の全てが表れます。私たちは、人からの敬意、助け、仲間、地位、機会を失うことを怖れているのでしょうか?私たちには、このようなことが、主への絶対的な従順よりも大きな重みを持っているのでしょうか?もしそうなら、私たちの忠実さは二つに分かれています。そして、そのままにしておけば、最後には、恐ろしい悲劇、妥協の後に必ず続く悲劇に陥ることになります。・・・

2020年11月11日水曜日

【Daily Open Windows】11月11日

十一月十一日

知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。(エレミヤ九・二十三、二十四)

私たちが、主がしてくださって当然と考えるいろいろなことが、実際には起こらないのはなぜでしょう?ここにあるのは、証拠や証明や求めるたましいの渇望にすぎません。そして、この渇望があるからこそ、キリスト者の働きの中で、何か分かり易く、大きく、目を惹くものが建て上げられたり、また、大がかりな組織が作られ、大きな運動が発足して、外からよく見えるところに集まると、そこに大ぜいのキリスト者たちが群れを成して集まるのです。また、何かの明白な証明と見える壮大なものが現れると、そこにも必ず多くの人が群がってきます。敵は、証明や証拠が求められる世界で、聖霊の働きを模倣することによって、群衆の心を奪うすべを知っています。私たちはあまりにも、外からの影響を受けやすいので、証明や証拠を手に入れずにはいられないのです。これは、世の支配者たちを操っていたのと完全に同じ原理です。彼らは、十字架の原理がこのようなかたちで用いられる備え――自分を空っぽにして、主以外のすべてを断ち切ること――ができていなかったのです。預言者たちが、いつも語っていたことは何だったでしょう?主を知ることでした。預言者たちの時代、主の民に欠けていたのは、主についての知識でした。何かをしてもらうために、主を迎え入れようという気持ちを持った人はたくさんいましたが、主ご自身を受け入れるとなると・・・ああ、これは全く別でした。主は、あなたや私に何を求めておられるのでしょう?主は、私たちが初めに何かを行うことを願っているでしょうか?今日、神から来るものは何かという問題は、まず第一に、主のために行われていること、私たちが携わっている働きといったもの――すなわち、客観的で外面的なもの――と結びつけて考えられます。しかし、主が何よりも関心をもっておられるのは、私たちがどれだけのことをするかではありません。主が、強く気にかけておられるのは、私たちの行いが多いか少ないかとは関係なく、その行いのひとつひとつが、主ご自身の知識から出ているかということです。キリスト者の働きや活動においては、その量が多いか少ないかはどうでもよく、この点では他の仕事と同じですが、その働きがあなた自身の神の深い知識から生まれていないことはあり得ます。主が、他の何にもまして、心にかけておられるのは、私たちが主を知ることです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年11月10日火曜日

【Daily Open Windows】11月10日

十一月十日

・・・あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ十二・一)

あなたには、いのちが与えられており、このいのちには、大きな信頼、大きな責任が伴います。このいのちは、自分の野心、自分の関心、この世的な利害や考え方の中にとどまったり、それだけで終わってしまうこともありうるのです。あなたは、自分のいのちを神に渡すことができますか?いのちを神の手にゆだねますか?いのちを祭壇に乗せて、神に完全に捧げ、短刀で裂かれるに任せますか?そうするなら、神はあなたのいのちを何倍にも増やし、神はあなたのいのちを広げ、自分の手にとどめておいた場合に比べて、そのいのちをずっと多く用いてくれます。あなたのいのちには、キリスト者として執着している何かがあって、それは主には渡さないのですか?何のことか、あなたは知っています。それに当たるものはなにか、私が考え得るものを列挙してみて、その中には入っていないでしょう。主のところへ行かせたくない何かが、自分の中にあることも、あなたは知っているはずです。主が指をその上に置かれたのに、あなたは尻込みしています。あなたは何かを言い返し、自分ではとても良い議論をしているつもりでいます。そこに間違いなく正しい論拠があると信じて、その何かにしがみついているのです。その裏にある真実は、あなたにはそれを切り離す覚悟ができていないということです。・・・

2020年11月9日月曜日

【Daily Open Windows】11月9日

十一月九日

かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。(ローマ二・二十九)

十字架は、霊的な割礼の道具として、今の自分の生き方の深いところまで用い、また、これからも一層、深く用いていかなければなりません。そこには終わりがないように見えます。しかし、これは十字架の苦しい側面、暗い面です。別の面では何が起こっているのでしょう?キリストの場所が備えられているということではないでしょうか?本物の種、キリストの種は大きく育っており、これまでよりもはっきりと現れてきています。これまで大切である考えてきた性質――知性や感情や意思の強さ――の反対は柔和さです。主は言われました、『わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい』(マタイ十一・二十九)。この事実に最後まで従って行けば、主ご自身の存在の奥底に、他の何物とも根本的に違うものがあったことに、あなたも必ず気づくはずです。

2020年11月8日日曜日

【Daily Open Windows】11月8日

十一月八日

ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(ガラテヤ三・二十八)

この摂理の中で、神は、ユダヤ人はユダヤ人として、異邦人は異邦人として迎えているのではありませんが、多くの人が、そのように誤解しています。主がユダヤ人に向けた言葉は、『あなたは自分のユダヤ人という土台から離れて、ユダヤ人としてではなく人として、神の前に立たなければならず、あなたがそこに立つまで、神から言いたいことは何もない。自分の土台に立ったままで神の前に来ることにこだわっている限り、あなたに光は当てられない。』他のすべての人たちにも、同じことばが投げかけられます。私たちは、自分という土台から、あらゆる意味で離れなければなりません。このことは、属する国のことだけでなく、他のすべての面で当てはまります。あなたは主に、こうに言い返そうとします、『でも、私はあれこれなんです、私はこんな者なのです、』または、『でも、私はあれこれではないのです。』大切なのは、あなたが誰なのかではなく、御子とは誰かと言うことです。主の土台に立ってください。主は、あなたが誰かということに基づいて、あなたを迎えることはしません。それが良い土台でも、悪い土台でも同じことです。主は、『天上にある者』という土台であなたを迎えます。あなたは、『私はあまりに弱い!』と答えるでしょうか。神は、その土台に立ってあなたに接しようとはしません、神は御子という土台の上であなたに会われます。御霊がパウロのこの言葉を通して、語っているのはこのことです、『・・・キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい』(第二テモテ二・一)。神は、『でも、私はこんなに弱いのです、主よ!』という私たちの叫びを聞かれますが、この告白によって、私たちが伝えたいこと、すなわち、『私の弱さの土台まで降りてきて、私を引き上げてください!』と言う願いに目を留めることはありません。『その場所を捨てて、御子のいるところまで来れば、そこで力を見出す。』と、主は言われます。『主よ、私はこんなにも愚かなものです!』主の答えは、『御子のいる場所にたどり着くまで、あなたは愚かなままです。御子は、あなたたちのための神の知恵とされたのです。』

2020年11月7日土曜日

【Daily Open Windows】11月7日

十一月七日

あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。(第一ヨハネ二・二十七)

キリストの学校、すなわち、キリストご自身が大切な教科であり、御霊が偉大な教師である学校、その教えが客観的ではなく主観的である学校、ものごとを教えるのではなく、心の内側でキリストを自分に取り込むことを経験から学ぶところ――それがこの学校の特徴です。『天が開けるのを、あなたがたはいまに見ます。』『天が裂けて御霊が自分の上に下られるのを、ご覧になった。』御霊が注がれるとは、何を意味しているのでしょう?それは御霊が、絶対的な主という位置を占めることであり、それ以下でも、それ以外でもありません。油注ぎには、聖霊、主としての御霊の絶対的な支配が伴います。これは、他のあらゆる支配、すなわち、自分の生活の支配、自分の心、自分の意思、自分の願いの支配、他の人たちからの支配が排除され、捨て去られたことを意味します。個人的な関心と外からの影響による支配が、聖霊による分かれていない無限の支配によって置き換えられたと考えるべきであり、それが起こらなければ、油注ぎを知ることも、喜ぶこともできません。・・・

2020年11月6日金曜日

【Daily Open Windows】11月6日

十一月六日

わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。(ヨハネ十七・二十六)

おそらく、あなたにも、なぜ神はこんな、このような者を、あんな、あのような人を用いるのだろうと、驚き、時には困惑し、途方にくれたことがあったはずです。こう言いたくなったでしょう、『神の働きのために必要だと、私が思ってきたことと、まったく反対ではないか。道具が用いられるためには、神の心に従うものでなければならないと、聖書は言っている。』しかし、歴史を見ると、必ずしもそうではなかったのです。よく言われるように、神は悪魔をも使ったことがありますが、悪魔が神の心に従うはずなどありません。神の主権は、ご自身の目的が及ぶところ、全てに広がっています。しかし、こう語りながら神の働きを始めると、恐ろしい事実と向かい合います。すなわち、私たちは神のために働き、神の御国、神の支配のもとに雇われているものとして、多くの力ある働きをしながら、最後には、投げ出されてしまうかもしれないのです!ついには私たち自身、正気を失ってしまうかもしれません。実例があります――不思議なことですが、十二人と七十人の男たちが、主の『委任状』――主の代理としての権威――をたずさえて送り出され、その権威を実際に用いて、力あるわざが成されたのですが、この同じ人たちが、十字架の後では、信仰を打ち砕かれ、拠りどころを失っています。どういうことでしょうか?

2020年11月5日木曜日

【Daily Open Windows】11月5日

十一月五日

神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。(使徒十・十五)

『どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。』ここに書かれているのは、聖霊の支配に逆らった例であり、そのひとつはペテロの伝統への執着であり、そして、エルサレムにいた人たちにおいては、ペテロの行いに対して、『彼を非難し』たことが挙げられます。その後で起こったことは、ペテロが再び同じ伝統の罠に陥り、そのことで、パウロはペテロと激しく論争しなければなりませんでした。大切な点として、主は霊的な成長を目指していたのですが、それを妨げた障害は、聖霊の支配に場所を明け渡す用意ができていなかったことでした。もし、神の子供、神のしもべが、その隠れた神との歩みと経験の中で、既に認められ定着している制度から外れた道、しかし、今までにはない新しい道、そして、世に受け入れられ、確立している慣習や社会のすべてと明白に対立する道へと導き入れられたら、そこでは、必ずと言ってよいほど、エルサレムで起こったこと、すなわち、疑い、論争、敵対が繰り返されることになります。

2020年11月4日水曜日

【Daily Open Windows】11月4日

十一月四日

私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。(ヘブル六・一)

初めにいたところに留まることをせず、前に進みましょう。では、『前に進む』とはどういう意味でしょう?私たちにとって、これはもちろん、霊的に前進することです。私たちは新しい摂理の中に生きていますが、これは霊的な摂理です。しかし、『前に進む』ことの意味として、あなたたちに考えていただきたいことがひとつあります。荒れ野にいたイスラエルの民にとっては、それは実際に、地上を前に向かって歩むことでしたが、私たちにとっては、霊的に前進するという意味になります。このヘブル人への手紙をあらためて読めばお気づきになると思いますが、霊的に前に進むとは、主が言われたことを実践に移すということに他なりません。私たちは、主に何かを教えられるだけでは前に進めないことが、お分かりですか?なんだか、おかしなことを言っていると思われるかもしれません。主は自ら、私たちに語りかけることができます。私たちは主のみことばを受け、主がくださるたくさんの教えを自分のものとし、神の真実をすべて知って、何年にも渡ってその真実に従い、全てを受け取っていながら、まだ、立ち尽くしたまま動かないでいることもありえます。いいえ、それは主が言われたことを理解できているかと言う問題ではありません。それを、実行に移すか、どうかということです。主が言われたように実行することが、前に進むただひとつの道です。

2020年11月3日火曜日

【Daily Open Windows】11月3日

十一月三日

神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。(第一コリント一・二十)

この世界から得られる限りの膨大な知識と情報を持っていても、また、誰よりも賢く、知識や他のことでもっとも富んでいる者ですら、キリストのもとに来るときには、霊的な事象のいろはから習わなければならない、これが真実です。・・・・私たちは、ほどなくして、自分が何も知らないということに気づかされます。主は、『裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう!』と言われました。もしも、主が、かつて住んだ地上の世界とは別の世界にいたことがあったら、もし、主が今の西洋の世界に行っていたら、こう言われたのではないかと思います、『知識に富む者が御国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。』西洋世界が鼻にかけている知識、知恵と知性は、御国への大きな妨げとなります。この世界は、本当に何かを知ろうという用意ができていません。ユダヤ人の世界の外に踏み出した時、パウロが絶えず言い続けたのは、この世界の知恵こそが大きな障害であるということでした。ユダヤ人にとって、大きな富を望むことが妨げであったように、異邦人たちにあっては、より多くの知識を求めることが妨げだったのであり、生まれたままの心から出てくるものは切り捨てなければなりません。それは、私たちが御国へ入るための妨げとなります。

2020年11月2日月曜日

【Daily Open Windows】11月2日

十一月二日

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。(ヨハネ六・六十三)

聖書の中で、御霊についてふれられるときは、いつも、主のいのちとの関連の中で語られていることに気づいていますか?この主なるいのちとは、こうなると、義の問題です。『義の働き』とは、主のいのちの務め、または、顔のおおいを取りのけられて、人からの非難や裁きを怖れることなく、主のいのちにあって立つことを意味しています。この真理を認めることは、何よりも大切です。これが第一歩です。これは、私たちの信仰において、はじめに覚えるべきことのひとつです。専門的なはなしに聞こえるかもしれませんが、主の民には教えが必要です。励ましを受けるのは良いことです。証しをするのは良いことです。折りにふれて、御言葉が与えられ、満ち満ちた主の思いが述べ伝えられるのは良いことです。しかし、主の民として、私たちは、正しい教え、真実という基礎も必要としています。

2020年11月1日日曜日

【Daily Open Windows】11月1日

十一月一日

イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。(第二コリント三・十四)

真の霊的な視力を持つことは、ささいな問題ではありません。そこには、力強い勝利が現れます。受け身の姿勢のまま座って、口を開けて届くのを待っているだけでは、この霊的な視力があなたのものになることはありません。訓練を受けなければならないのです。霊的な理解力を求めて踏み出すとき、あなたは、原題の神の軍勢と向かい合うことになります。これは、超自然的な戦いです。このため、主のための努めと言っても、真の啓示となる務めは、どれも四方八方から攻撃を受けることになります。攻撃は務めの前から始まり、務めのあいだも攻撃は行われ、務めの後まで攻撃が続くこともあります。本当に、そのようになります。このために、あなたが光について訓練される必要が生じてきます。すなわち、あなたが何かを聞いている時も、一度、聞いたのだから、もう理解できていると思い込んではいけません。その後も引き続いて、非常に明確な主からの導きを受けられるように、主があなたの前にはっきりと現そうと願っているものの中に入ることができるように、また、何かを言葉で聞いたからといって、自分はそのことを知っていると決め付けて、自分を欺くことのないようにしなければなりません。あなたは、それを知らないのかもしれません。光はまだ、届いていないのかもしれないし、そのために戦いが必要なのかもしれません。