2020年11月15日日曜日

【Daily Open Windows】11月15日

十一月十五日

わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。(黙示録二・十七)

神は、キリストの中のご自身の啓示を、常に、実生活の中の状況と結び合わせて行われます。あなたも私も、何か、生活上の必要に迫られた場合でなければ、啓示を受けることはできません。啓示は、単なる情報として受けることはできません。それは情報であって、啓示ではありません。啓示は、勉強して受けられるものではありません。荒れ野でマナ(天からのパンというかたちを取ったキリスト)をくださったとき、主は、その日を生きるために必要な分の他には、ひとかけらも取らないように強く戒められた上、ただちに必要な分量を超えたら、病と死が起こって、彼らの上に広がると告げられました。ここにあるマナの原理、マナの法とは、神が、キリストの中にあるご自身の啓示を、現在の状況下の必要と結び合わせて現されることであり、私たちは単なる教え、教理、判断、理論、あるいは、何かものとして、啓示を受け取ることはありません。これは、神が、キリストの啓示の他に、助け、救えるものは何もない状況へと、あなたや私を引き入れることを意味します。・・・


さて、これこそ主が、つらい、現実の状況の中に、私たちをとどめようとされる理由です。主は、私たちが、論理的な筋道に沿って真実を求め、そのための手段を追求することをよしとされません。ああ、真実に近づく方法だけを求めることは避けましょう。そして、新約聖書自体の中にも、手法が記されてはいますが、私たちは、単純に同じ方法を抜き出して用いたりはできないことを心にとめましょう。私たちは、新約聖書と同じ状況に入り込んで、その状況に対処する啓示をキリストから受けなければなりません。そうすることによって、聖霊による導きとしての、生きた現実の状態や状況、必要へと私たちが引き入れられることになり、その状態、状況の中に、主イエス様の新しい知識がいくらかあれば、それが、私たちの解放、私たちの救い、私たちのいのちとなります。また、聖霊の導きは、真実の啓示ではなく、主という人格の啓示、この神なる人格の新しい知識を与えるものでもあり、それによって、私たちは自分の必要を満たすかたちでキリストを見るようになります。私たちは、『それ』ではなく、その『お方』により頼んでいます。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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