2020年11月19日木曜日

【Daily Open Windows】11月19日

十一月十九日

神の約束はことごとく、この方において「しかり。」となりました。(第二コリント一・二十)

この約束は何のためでしょう?この約束が、人間的なよろこびをもたらすものでないことは、イスラエルの場合も、私たちの場合も同じです。・・・・主の子供たちである私たちは、気が付けば、個人的な戸惑い、個人的な困難、個人的な苦しみの中に、厳しさに取り囲まれた状況に置かれていることがよくあります。そのようなとき、私たちは、神の御言葉のある部分を取り上げ、それを主の前に掲げて、解放を願い求めます。


それでもよいこともあり、ここで願う動機が明らかに、純粋に個人的なものであれば、私たちは、約束が実現しなくても当たり前だったと考えることができます。自分の回りでこのようなことが行われていると気づいた人はどれだけいるでしょうか?ある状況の下、困難、試み、苦しみ、逆境があって、あなたは主のもとに駆け込み、そこで御言葉を取り上げ、主の御前に、状況を変えて欲しい、解放して欲しい、何かを実現し、また、取り去って欲しいと求めたのですが、そこで、自分が壁に突き当たっていることに気づきました。あなたは、自分自身を傷つけていたことに気づいて立ち往生してしまい、一歩も進めなくなりました。天国は閉じているようしか思えず、また、そこに通じる道も、中から応える声も、誰かがそこで聴いているという感触すらありません。このように心の奥底で繰り返し思い悩む中で、あなたは、試みを受け、神の約束を疑い、神の誠実さを問い、御言葉が本当に真実なのかという疑問が湧き上がりました。しかし、最後に投げかけられた言葉の中、主は、あなたの中で何ごとかが行われなければならないことを示されました。あなたは、自分が欲する何かを追い求め、それが、必要で、とても大切なものであると考えていましたが、その思いの中には、どこかに、個人的な関心、個人的な心配が隠れていたのであり――自分では気づいていなくても、神の目には非常に明白でした――これが、状況を受け入れることを、不可能にしていたのです。あなたは、自分が主を求めるのは、そこに結びついた神の利益のためではなく、心の底では、その状況が自分の生活にどう関わるかが気になっていたことに、ようやく気付きました。主は、あなたの人生に危険な状況を作り出し、その中で、あなたは、神の御心から来る試みを進んで受け入れる気持ちになりました。その目的とは、それが主の御心であれば、必ず同意してこう言える者になるためでした、『主よ、分かりました。これが私に対するあなたの望みであれば、その全てを、ひとつも余さずに受け入れます。私が知りたいことはただひとつ、それがあなたの御心なのかということであり、もし、そうであれば、私は、心からそれを受け入れます。』この経験の中で、私たちはあの約束が、私たちの個人的な利益を満たすためのものではなく、その全てが完全にキリストの栄光のためであること、私たちの中にキリストの完全さを、より大きく生み出すためにあったことを学びます。こうして、もう一度、試練を経て、私たちは、『もはや私が生きているのではなく、キリストが生きておられる』ところへとたどり着いたのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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