2020年6月30日火曜日

【Daily Open Windows】6月30日

六月三十日

主と交われば、一つ霊となるのです。(第一コリント六・十七)

この関係の性質は、本質的に霊的ものであり、すなわち、これは、霊の結びつきなのです。『主と交われば、一つ霊となる』のです。『神を礼拝する者は、霊によって礼拝しなければなりません・・・、』なぜなら、『神は霊』だからです。この結びつきは、ですから、霊による結びつきです。この結びつきは、他のどのような結びつきよりも深いところまで届くものです。それ以上、深く進むことは、私たちにはできません。この結びつきによって、人の存在のもっとも深いところ、もっとも本質的な部分にある性質が定まり、その人が本質的に神に見られているか、霊のうちにあるかどうかが決まります。その土台となるのは、主のいのちです。これは、ヨハネが非常に明確に述べているところであり、ヨハネの福音書の中でわかりやすく例示したうえ、自 分の書簡でも、直接的なことばで述べています――『・・・・神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということ』です。『御子を持つ者はいのちを持っています。』このことばは、私たちの交わりは御父との交わり、御子との交わりであるという本質的な宣言に重ねて述べられたものです。この交わりは、主のいのちを受ける交わりであると説明されています。神との結びつきの土台は、新生の中で、神ご自身のいのちが私たちに与えられていることであり、そして、その上に神はすべてを建て上げ、また、この事実に基づいて、神はものごとの価値を認めるということです。この土台がないところでは、人との結びつきについて、神は何も行うことができません。

2020年6月29日月曜日

【Daily Open Windows】6月29日

六月二十九日

わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。(ヨハネ六・六十三)

このいのちは、きわめて広大ないのちです。このいのちは、神の偉大なご計画に達するものであり、私たちはその一部です。すなわち、私たちは、『神のご計画に従って召された人々』です。私たちは、このご計画を知りたいと願います。このご計画の中で自分が置かれている位置を知りたいし、自分にできること、自分の役割りを知りたいと思います。そのためにすべきことは何でしょう?それが何かを必死で学ぶことではなく、主のいのちに入ることです。人間の体がどのように動いているのか、科学的な知識を得ることは非常に興味深いかもしれませんが、それを知らなくても生きていけます。生きていれば、必要なことは自然に行われます。次の呼吸をすべきかどうか、自分で決めたり、座り込んで心の中で思い悩む必要はありません。ただ、息を吸い込めば、他のことはそれに伴って行われ、全ては適切な順序で続いてゆきます。呼吸が適切であれば、それに続いて多くのことが行われます。そう、ただ生きてさえいれば、他の全ては後についてきます。ことばを換えて言えば、あなたはただ、動き、御霊の中にいのちを持つだけでよく、そうすれば、神の全ての計画と秩序がそれに従います。あなたは、その中に入って生きるしかなく、自分で好きなようにはできません。

2020年6月28日日曜日

【Daily Open Windows】6月28日

六月二十八日

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(ローマ十五・十三)

あなたと私に聖霊が注がれたことが事実であれば、確かにそのはずなのですが、この世における私たちの存在は、神にとって何か前向きな印となるはずです。私たちにとって、世に出て行きながら、そこに何も書き残さずに、また戻って来ることは本来、ありえないはずです。私たちが近づくとき、世の人々は、何かを感じなければなりません。聖霊のもとにいる私たちがここにいるからには、イエス様もそこにいるのですから、悪魔自身も、私たちにすぐに気づくはずです。どこであろうと、イエスさまがいながら何も起こらないことなどあり得ないし、そして、今、イエス様は、信じる者たちの中に住む聖霊によって、ここにいるのです。こう考えると、キリスト者のことで全く中立なものなど、ありえないことになります。・・・・

2020年6月27日土曜日

【Daily Open Windows】6月27日

六月二十七日

どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。(エペソ三・十六)

主を信じる人たちの強さとは、内なる人の中にいる聖霊の力強さに他なりません。その人の存在のまさしく中心にある強さ、人の考えや理屈よりも深く、感情や感性よりも深いところにある強さ、今いる環境の下で、人の心を外に向けて、状況に耐え切れないほど弱いものに変えようとする力よりもずっと深いもの。私たちの魂の生活が揺れ動く中、私たちの気持ち、考え、態度、感情、思いが変化していく中にあっても、心の深い奥底には、私たちから離れることのない力強さがあります。

2020年6月26日金曜日

【Daily Open Windows】6月26日

六月二十六日

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。(黙示録三・二十二)

男も女も、主の声を聴く内なる耳、内なる沈黙、内なる場所を持っていなければ、主の奉仕で大いに用いられるようにはなりません。そして、はっきり言っておきますが、主がいるべき場所に立たれるのは、主でなければならず、どれだけ善良な人たち、善良な書き手たちであろうと、主の場所を譲り渡さないように、しっかりと気を付けなければなりません。

2020年6月25日木曜日

【Daily Open Windows】6月25日

六月二十五日

わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。(黙示録二十二・十三)

私たちは、主のために自分で立てた構想、自分で作った予定、自分で備えた手立て、そして、自分で考えた計画の全てを引き戻して、主と二人だけの隠れた部屋で、真の生きた、霊的な主との価値ある結びつきに入らなければなりません。それによって、生きる目的が私たちの内側から――私たちの思い、私たちの願い、私たちの意思から――生まれるのではなく、神とともに生き始める中で、自分の中に神が定めた使命を見つけるためです。主は、私たちに、ご自身が行っていることを、霊的な知覚によって見せ、また、ご自身がするのと『同じように』させようとします。これは、神が、ご自身の目的と同じくらい、ご自身のやり方にも、強くこだわっているからです。問題は、神のために行っているかではなくて、神から来ていることを行っているかです。この使徒が、新しい創造についてのすばらしい声明に、全てを支配するあの一項を付け加えたのはこのためです、『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。・・・』新しい創造においては、全てのことは神から出ています。神の働きの中に、このお方がいます。ただ一人のこのお方に、神の働きのすべてが委ねられています。ここにいるのは、主であるただ一人のお方です。全ての神の働きは、栄光のうちに、主であるこの人に結び付けられています。私たちにとって大切なのは、キリストとは何かを知ることです。キリストとは誰かということだけではなく(キリストが神であると知ることは大切ではありますが)、キリストとは何なのかを知り、キリストは新しい創造の全てをその中に包み込む人であること、主は今や神としての人格そのものであること、そして、主は完全に、徹底的に、全面的に、そして、最終的に神の考えを表す方であると知ることです。新しい創造に関して言えば、イエス・キリストから離れて神が表されることはあり得ません。神の思い、神の意図、神の願い、神の働きはこの主の中で完成します。この方は、初めであり、終わりですから、あなたはその外に出ることはできません。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年6月24日水曜日

【Daily Open Windows】6月24日

六月二十四日

神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものです。(第二テモテ一・九)

何か新しい、それまでになかった道、初めての申し出や立場と直面しているときは、必ずそのすべてを包むある問いがあって、私たちはそれを自分に問いかけるべきであり、また、その答えを十分に時間をかけて、じっくり考え、真剣に祈るべきです。その問いとはこれです――今、私の前にあるこのことは、このままで、神の目的の全体とまっすぐにつながる線の上にあり、主の御言葉の全体――限られた一片のことばではなく――の中に示されているだろうか?神ご自身が、明白に定められた目的を持ち、それが私たちにされること全ての究極の目標であることには、疑問の余地すらありません。神はまた、その目的が何であるかということを、あふれるほど明らかに示されました。さらに、信者たちは『神のご計画に従って召された』のであり、彼らには、自分が『召されたことと選ばれたこととを確かなものと』しなければならないことが、はっきりと示されています。

2020年6月23日火曜日

【Daily Open Windows】6月23日

六月二十三日

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。(第二コリント五・十七、十八、口語訳)

新しい創造の全ての面を包含する規則は、『すべてのことは、神から出ている』ということです。この事実にふれる中で、使徒パウロは、『しかし』という言葉を使います――『しかし、すべてこれらの事は、神から出ている』――あたかも、すぐに飛び出して、古い創造に基づいた、あるいは、古い創造からの備えを用いた生き方や奉仕をしてみたいという衝動を、パウロが抑え込み、妨害し、または、阻もうとしているかのようです。ここで大きな疑問が浮かんできます。すなわち、この新しい創造の中にあるすべては神から出ているとは、どういう意味でしょう?その人生は、どのような種類のものになるでしょう?この質問に適切に答えることは、非常に大きな範囲に及ぶ作業であり、また、考えられる中で何よりも革新的なこととなります。

2020年6月22日月曜日

【Daily Open Windows】6月22日

六月二十二日

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためです。(ヨハネ十五・十六)

新しい創造はキリストの中にあります。あなたの中や、私の中にはなく、これからも決してそうはなりません。これからの時、また、永遠にわたっても、この創造がもたらすものは、全てキリストとの霊的な結びつきを通して入ってきます。神の完全さの全てが、キリストの中にあります。私たちは、同じ完全さを受け取り、また、現実の働きの中にその完全さを享受することになります。しかし、このことは、私たちがまだ、地上にいるしばらくのあいだは、常に信仰の結びつきによって行われます。永遠においては、神の完全さを受け取ることを妨げるものは何もなく、そこでは、働きの実は消えなくても、信仰の働き自体はもう終わっています。かと言って、そこでは、私たちがキリストの中に吸収される、すなわち、私たちがたくさんのキリストたちになるということではありません。栄光を受けるべきは、ただ主ご自身であることは明白です。私たちは、自分自身に栄光を帰すことはないし、自分がキリストであるかのように、人から賞賛されてもいけません。キリストとは、何か濃縮されていた要素が大きく広がって、たくさんの人の群れを作り上げ、その群れがまた別のキリストの素となるようなものではないのです。主の栄光とすばらしさが聖徒たちの中に表れたとしても、キリストは他の全てから切り離されてご自身という人格の中にのみ存在し続けることは、これからも変わりなく、また、このことから、私たちはなおも、自分とは明白に違う主と言う人格を、礼拝し続けることになります。これは、おそらく、語る必要すらないことでしょう。しかし、神がすべてのものを永遠に御子と結び合わされたこと、そして、これから後、キリストを離れては、なにも受けられず、なにも享受できないこと、今のこの人生においては、全ては主イエス様にへの信仰のみによって得られることを、私たちが心にとめておくことは非常に大切です。今ここで強調したいのは、主が可能にされて、自分自身からの解放が起こるように求めることです。自分のことで心が占められ、自分のことばかり考えていることは、いつでも、主から栄光を取り去ってしまうからです。御子の姿を表し、明らかに示してくださることによって、神が常に願い望んでいることの総決算として、私たちを本当に自分自身から切り離してくださるように、主にお願いしましょう。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年6月21日日曜日

【Daily Open Windows】6月21日

六月二十一日

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ十五・五)

奮闘し、苦悩し、また、力を尽くしてきた者たち、そして、主が持つべき全てのもの、可能なすべてのものを手に入れようと突き進んできた者たちの中で、私がいちばん、小さな者だったわけではありません。あなたは、すっかり疲れ切って、霊的な探求の中で自分を殺してしまうかもしれませんが、最後には、主が私たちの心に向かってこう語りかけます、『あなたがただ、主であるわたしを知っているなら、多くのことが起こるであろう。何が起こるときも、あなたには、どのような苦しみ、戦いや苦悩もない。わたしは、この実を結ぼうとしている。わたしは、あなたを通し、調和と交わりという道によって、この実を結ぶ。覚えておきなさい、交わりの祝福された聖なる奥義は、ただ、主であるわたしの中に休むこと、わたしの中にとどまることにあることを。』もしも、ぶどうの木の全ての枝が毎日、うめき、苦悶の声をあげ、そして、実を結ぼうと苦しんでいたら、その木は全体が不自然であると感じるはずです。現実には、そのような木はどこにもありません。すべての枝が木にとどまって、実を結んでいるのを見るでしょう。これは、よく、信仰にある休息と呼ばれるものです。信仰にある休息の背後にあるものは何でしょう?心の内側が落ち込んでいるとき、『しばらく休むことにしよう』などと言って、自分を受身の状態に置くことは、信仰にある休息とは違います。この休息とは、主を知ること、キリストのうちにある神を知ることです。なぜなら、神が御自身を私たちと結びつけた道とは、キリストの中にあって、キリストから離れたところにはなく、私たちが神へと結び合わされてきた道もまた、キリストにあって、その外にはないからです。あらゆる必要に対する答えは、このようにして、主を知ることです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年6月20日土曜日

【Daily Open Windows】6月20日

六月二十日

もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。(ガラテヤ五・二十五)

策略の巧妙な使い手であるサタンが好んで用いる手段のひとつは、ものごとを極端なところまで突き詰めることです。サタンは、ガラテヤの信者たちを、律法に徹底的に従わせようと試みました。しかし、サタンはやがて、そのやり方を進めることができなくなり、パウロが戦いに勝利します――これは疑いのないことです。敵は、次にどのような手で攻撃してくるでしょう?『それなら、よかろう』と敵は言います、『お前たちがこの法を捨てたいなら、どんな法も持たなければよい。律法は全部、捨ててしまえ。お前たちは、もはや律法のもとではなく、恵みのもとにいる――自分の好きなようにすればいい!自分のしたいように振舞い、やりたいだけ続ければいい。あなたたちには、もはや制約も限界もない。なんであれ、制約とは律法だ――そんなものはもう認めるな!反対の方向に突き詰めればよい――すなわち、律法ではなく、自律だ!』パウロがもし今日、生きていたら、他のものに対するのと同じくらい、この攻撃に対しても激しい怒りを燃やしたことは間違いないでしょう。ここにはまさしくサタンの働きがあるからです。サタンは、律法で縛ることによって、目標とするものの性質を変えることができないとなれば、逆にすべての律法を消し去って、私たちを全く法のないものに変えようと試みます。

2020年6月19日金曜日

【Daily Open Windows】6月19日

六月十九日

今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。(ヨハネ十二・二十七)

ただひとつの目的が存在しており、その目的とは全てを包含し、全てを抱え込み、全てを支配するもので、神は、創造によって、贖いによって、そして、一致によって、その目的にご自身を捧げてきました。その目的とは、人を御子の似姿へと変えて行くことです。これは、人が生きる最大の目標であり、至上の善でもあります。誰よりも完全な忍耐、愛、信仰、その他の『御霊の実』を備えている人物よりも、――苦しみと悲しみのただなかにあってさえ――満足していて、『幸福な』人はいるでしょうか?私たちは、何かのことで要求がかなえられても、それまでと同じ人間のままで、元からの性格や性質が変わることがなければ、しばらくすれば、他の何かのことで、前と同じ不幸な状態に陥ってしまいます。私たちは、周りにあるものを使い果たして、自分をその上においてしまう特質が生まれながらに備わっているのかもしれません。誰から見ても喜びに輝いている人たちが実は、弱さ、貧困、あるいは、他のかたちの逆境の中、耐え難い苦しみを味わってきていたり、一方では、もっとも、『大きな特権を持った』人たちが、誰よりも強い不満を抱えていることもよくあります。

2020年6月18日木曜日

【Daily Open Windows】6月18日

六月十八日

この民はひとり離れて住み、おのれを諸国の民の一つと認めない。(民数記二十三・九)

自分を諸国の民の一つとは認めていない。ああ、これは実に栄えあることです!このことが、イスラエルを諸国と切り離すだけではなく、イスラエルを諸国の上に置くのです。さて、サタンが、神の民に対し、あらゆる年代に渡って、試みてきたことがひとつあるとすれば、それは、彼らが諸国の民のひとつに過ぎないと思い込ませようとしたことです。私は厳かに、また、注意しながら、お話しします。キリスト教世界の本当の中心にあって、私たちが今日も抱いているのは、世に認められたいという欲望です。認められるということ!組織化されたキリスト教が行うことはすべて、世に認めてもらうために行われています。この多くの教会は、いったい何ものなのでしょう?ここで言っているのは、あれだけ多くの手の込んだ建築物、目を引く建物のことです。それは、人に認めてもらうために建てられたものです。どれも、なんと立派なものかと感心させるために作られています。そこで取られる様々な手段、宣伝、その他、もろもろのものは、何を目的としているのでしょう?その目的とは、世で認められること、地上で信任を受けること、人からよく思われることにあります。そう、これこそサタンの勝利なのです。霊的な力が消え去ってしまったのはこのためです。こうして、教会は、人から認められるものではなくなっていったのです。教会は、霊において、この地上に落ち、諸国の民の一つとみなされるようになりました。神の民をただ、この世で取り上げられ、この世に書きとめられ、この世で認められる地位に立たせることさえできれば、サタンは大勝利をあげ、教会を天から引きずり下ろして、世俗的なものに変えられるのです。これが、旧約聖書全体を通して現れる原理です。これは、黙示録の中でも、大きな問題とみなされています。神は、そのようなものを手に取りはしません。これは、サタンが成功を遂げる道筋です。サタンは、教会を天から引きずり出しました。どこかで、サタンは教会を地に落とし、どうにかして、地との結びつきを作り出しました。

2020年6月17日水曜日

【Daily Open Windows】6月17日

六月十七日

イエスは・・・言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」(マタイ二十・三十二、三十三)

私たちは、神から来ることがらを、自分の理性の助けを借りて見ることはしません。聖職を行う者が、分かり易く説明してくれたからといって、それによって見えるようにはなりません。そうではなく、見えるようになるのはただ、ナザレのイエスが私たちと触れてくださり、私たちも主にふれることによるのです。そして、これはキリスト者の人生のすべての段階に当てはまります。この数行を読めば分かるように、はじめは目を開かれていなかった者たちが、その目を開けられて見えるようになり、その結果として永遠のいのちを受けました――知ることとは、見えることと同じ意味を持った言葉で、イエス様もこう言っています、『その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです』(ヨハネ十七・三)――ここにある『彼らが知ること』とは、見えることを別の言葉で言っているだけです――すなわち、あなたがまだ、主のいのちに入っておらず、永遠のいのちを受けていなければ、それは、いつかあなたの身に起こるものではないことを覚えてください。何もしなくても、どこかで起こることはないのです。あなたは、このことを何よりも強く心にとめる者となって、真剣な気持ちを主に示さなければなりません。すなわち、バルテマイのように泣き、『ますます叫び立て』なければならないのです。主はいつも、立ち止って、待ち、歩みを止めてまで、私たちが見ることの価値を理解しているかどうかを確かめることを覚えておいてください。どれだけ主から来るものを尊んでいるか、私たちは試されています。

2020年6月16日火曜日

【Daily Open Windows】6月16日

六月十六日

人に惑わされないように気をつけなさいわたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。(マタイ二十四・四、五)

私たちが、宗教的な人たちについてもひとこと、言いたいと思うのは、同じことが彼らにも当てはまるからです。惑わす者の手口は、彼が働いている世界、彼が狙っている類いの人たち、すなわち、敬虔な信者たちにも使われているのです。そう、その人たちは、信仰心からだまされ、表現をかえれば、自分の強い信心のためにだまされているのであり、その信仰心とは強く、はっきりした妄想です。その妄想には力があり、その力が、多くの場合、惑わしに対抗しようという試みを全てとどめてしまいます。宗教的な人たちは、自分の宗教心によって、惑わされるのです!神についての事実を認めること、また、神に敬意、感謝や称賛を送ること、それ以上に期待できることととは何でしょう。神に関するものごとに積極的な関心を持つこと、宗教的な会合に参加すること、そして、宗教的な活動や関心にいつも忙しくしていること、あるいは、宗教的なものと宗教的な分野に最大の関心を向けることでしょうか?それ以上に、期待できることは何でしょう?そこから生じる問題とは何でしょうか?

2020年6月15日月曜日

【Daily Open Windows】6月15日

六月十五日

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(マルコ八・三十四)

いつの日か、私たちのキリスト者としての人生が裁かれる終末のときが来ます。ですから、聖霊の働き、聖霊の関心、懸念、活力源、行動の目的とは、人間たちを入り口まで連れてきて、扉の中に入れることだけではなく、その扉は主へと続く道が始まるところに過ぎず、その扉の向こう側にすべてがあると理解させることです。大切なのは、扉だけではなく、その向こうに置かれているものであり、そこにあるのは、この新生であり、そこは、かたち作られた主の姿に合わせて新しくされるところです。終わりが全てを支配します。すべてのうちにおられるキリストこそ、聖霊が代表し、意味し、また、支えるものです。主ご自身の姿は、すべてを包み込むほどに広大なです。『キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです』という一文が、全てを統括する最終条項です。キリストのこの満ち満ちたさまこそが、私たちの救い、私たちの初めの救いよりもずっと大きなものです。扉はなくてはならないものですが、そこから入るべきかを決めるのは、その扉がどこに導くかということです。

2020年6月14日日曜日

【Daily Open Windows】6月14日

六月十四日

それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。(第二コリント五・十六、口語訳)

ここで『肉』ということばは、幅広い、一般的な意味で使われています。肉によって主を知ろうとしないこと、また、肉によって互いを知ろうとしないということを、お互いを生まれたまま、生まれた世界でするような知り方をすまいと言うなら、私たちは真剣に考えるです。それが、現実に何であろうと、この中にすべてが包み込まれます。私たちは、キリストを知っているように、すなわち、霊的に、お互いを知っています。この文脈が伝えているのは、新しい創造における私たちのキリストとの関係は、純粋に霊的なものであり、そのことから、キリストにある私たちのお互いとの関係もまた、霊的な関係であるということです。この新しい創造の全体が霊的なものであるのは、それはキリストそのものだからです。

2020年6月13日土曜日

【Daily Open Windows】6月13日

六月十三日

わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。(黙示録三・十九)

私たちがいつも直面している大きな疑問があります。光の中に飛び込んで、歩み続ける人たちがいる一方で、そうしようとせず、しり込みするばかりで、前を見ようともしないように思える人たちもいるのはなぜでしょう?何か神の側で定めた資格があって、神も特別に者だけを選んで取り上げるのか、あるいは、神にも、好みの人間がいるということでしょうか?私は、そうは思いません。その答えの大部分は、いってみれば、神が、それぞれの人のどこに手を下さなければならない考えるか、その人たちに真剣に神と向かい合う気持ちがあるかどうか、主が遮るものなく入り込める道があるか、そして、その土地がすでに、神の妨げになるもので占められているかといったことにあると、私は思います。誰であろうと、神と真摯に向かい合う気持ちがあれば、主がその人に得て欲しいと願う光をすべて見落とすことなどあり得ないと、私は思います。聖霊は、私たちを知っています。聖霊は、私たちの心の奥底を見て、私たちが真剣かどうかを見抜いています。聖霊は、ご自身を妨げるものは何か、また、ご自分がどこまで進めるか、正確に計っています。主は、誰に対しても何かを強要しようとはしないからです。

2020年6月12日金曜日

【Daily Open Windows】6月12日

六月十二日

まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。(ヨハネ一・五十一)

ここまでのお話の中で、キリストを、ヤコブのはしごが、真に霊的に実現されたものとして見てきました。それは、この地上に立てられて、その頂上は天に届くはしごでした。このことで、主は後に、ナタニエルに言っています、『天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう』と。さて、主イエス様が、現実に、ヤコブのはしごと同じであれば、主は、天と地の両方におられることになります。主は地上におられ、同時に、天にもおられるのです。主の中で、天と地は結ばれて、結ばれてひとつになっており、ご自身を表され、働きをされるという目的を持って地上におられながら、主は、天にもおられることになります。大切な点は、主のいのちと、すべての主の備えは、上から出てきたものであることです。主には、無尽蔵の備え、決して途絶えることのない備えが手の届くところにありました。それは、その備えが、この地上のものではなく、地上のあらゆるものの特徴である堕落にさらされる可能性が全くなかったからです。・・・・

2020年6月11日木曜日

【Daily Open Windows】6月11日

六月十一日

父よ。わが霊を御手にゆだねます。(ルカ二十三・四十六)

『どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』十字架の物語がここで終わりとならないことを、私は本当に嬉しく思います。この叫び、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか、』これは恐ろしい叫びですが、十字架から発せられた最後の言葉は、これではなかったのです。『父よ。わが霊を御手にゆだねます』(ルカ二十三・四十六)。主は、御父との完全な交わり、絶対的な信頼という土台の上に、ここで立ち返っています。勝利が得られ、働きは完了し、敵は敗れ去り、そして、足場はしっかりと固められました。サタンが言うことの全て、霊的に深く沈みこんでいる時間を狙ってサタンが語ってくること、すなわち、主が私たちを見限った、私たちを置き去りにした――こんな考えを吹き込もうするサタンのことばは、全て偽りです。あなたは、この事実の本当の重みを感じていないかもしれませんが、もし、あなたが、あの大きな瞬間を迎えたとしたら、すなわち、もうその瞬間を迎えた人もおそらくいるでしょうが、もっとも誠実で献身的で大いに用いられた主のしもべたちの多くが既に知っているその瞬間とは、暗闇の力が全てを覆いつくすほどに広がって、群れを成して集まり、そして、あなたと主のあいだに入り込もうと試みながら、あのささやき――『主はお前を見捨てた、お前を私に手渡した』といった意味のささやき――を始める瞬間のことであり、もし、このような瞬間を迎えたら、そのとき、あなたは、それが決して軽いことば、取るに足りないことばではないことに気づくはずです。ゴルゴタの丘の本当の深さが理解されたのは、私たちの主が激しい叫び声を上げて、その叫びが答えられ、勝利のうちに十字架から降ろされて、休息へと入られたときだったからです。『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』これは主ご自身のためではなく、私たちのため――あなたのため、私のため――でした。・・・神に見捨てられる孤立感を知ることなど、人間には決して、必要はありません。人は、自分の信頼、自分の信仰を、神が人のために人間となられたというこの長きに渡る問題――『あなたの御顔の光』という問題――の上に置いています。

2020年6月10日水曜日

【Daily Open Windows】6月10日

六月十日

私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなくなりますように。(ピリピ一・九、十)

個人の中に内なる霊的な知性が見られることは非常にまれです。主の敵が、妄想、偽造、そして、まやかしの表現を連ねて仕掛けてくる攻撃がこれほど大きな効果をあげていることも驚くにはあたいしません。このようなものに対する最大の防御策は、鍛錬を通して得る、主についての深い知識でしょう。本当の意味で主を知ることから得られるものは、揺るがない心であり、他の者たちが押し流されても、自分は持ちこたえる強さ――炎のような苦しみのときも耐え抜く堅牢さです。主を知っている人たちは、自分自身の手を差し出して、新しく何かを起こそうとはしません。彼らは愛と忍耐に満ちていて、すべてが砕け散るように思えるときも、自分の姿勢を崩すことはありません。この知識が必然的に結ぶ本質的な実とは自信であり、主を知る者たちの中には、静かで、安らかな強さがあって、その強さが、主にあるいのちの深さを物語ります。

2020年6月9日火曜日

【Daily Open Windows】6月9日

六月九日

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(ヘブル十一・一)

暗い体験を通して私たちを導いているとき、神は自分がしていることを、教えてはくれません。そうしてくれたら、どんなにいいでしょう。もし、神が、『今から、あなたに辛い経験をさせることにする。これからの時は、暗く、不可思議で、戸惑うばかりで、意味がわからず、惨めなものになるだろうが、心配はいらない。わたしは非常に大きな働きをしており、それをこの苦しみの中から生み出そうとしているからだ』などと言ったら、信仰という要素は消え去ってしまったでしょう。主が、ご自身が何かをしていることを語り、また、自分がしていることを説明してくれて、私たちを暗闇に置き去りにした上で、自分は遠く離れ、私たちのことなど気にもかけないような様子を見せなかったら!ただ、それだけで!ああ、しかし、主はそのようにはしなかったし、私たちも、主はそうされないこと、主は何も説明してくれないことを知っています。しかし、ここが苦しいところではあります。これこそヘブル書十一章が言おうとしていることであり、信仰を持つ皆さん、これこそこの御言葉が伝えていることです。私たちには残されたもの、偉大なる遺産があり、当時の人々より、ずっと多くを与えられていることを、神に感謝します。彼らには聖書がなかったのです。彼らが、苦しみを通らされたのは、聖書が書かれる前でした。私たちは、彼らの物語だけでなく、他にも多くのことを知っています。彼らに何が起こったのか、分かっているし、その後の出来事も読むことができますが、それが、本当に助けとなっているでしょうか?あなたが、苦しく暗い時を迎えていて、全てがおかしくなってしまったと感じるときは、ヨセフの物語を読み直してみてください。・・・読み始めたら、やめられなくなるでしょう。そこにある大いなる教訓を学んでください。ヨセフの神は私たちの神であり、神は今も同じことをされているし、私たちも、それを生活の中の現実として知っています。私がこれまで語ってきたことは、すべて、ありのままの現実なのです。私たちには、そう信じる証拠があります。それは、あらゆる面から見て、私の経験と非常によく似ているので、同じものが自分の人生にも備えられているはずだと考え、また、信じることができます。よみがえりの神は、これを誉れにしようと働いておられます。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年6月8日月曜日

【Daily Open Windows】6月8日

六月八日

あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。(第一テサロニケ五・二十四)

私たちは、主イエス様が歩いた霊的な旅路を新しく理解することが必要であると、私は考えています。主が神の御子であったから、また、主が誰であったかということから、主が生きた道は、私たちの道より安易なものであったと、私たちは考えます。主には、私たちが持っていない特別な力がありました。主には、私たちにはない性質がありました。私たちにとって、このようなお方である主が、試みと困難と逆境にさらされ、耐えられるぎりぎりのところまで試されて、そこで初めて、天の介入が求められて抜けだされたという大きな謎は、とても理解できないものです。主はそのようなところへ連れて行かれました。自分からは決して、通ろうとはしなかったはずの場所、天国が介入しようともせず、み使いたちも主に仕えなかったところへと、一度ならず、引き出されたのです。あなたは、『自分は、こんな経験を一度もしたことはない』と言うでしょう。ああ、実はあるのです。実際に、あなたの目の前に天使が降りてきて仕えたことはないかもしれませんが、信者の中には、かつてこの道へと入り、その奥へと少しでも進みながら、心の中では、『でも、神と天国から見れば、私は今日、ここにはいないのと同じだ』と考えるものは一人もいません。私自身の証しとして、自分自身を屈服から救うために、一度ならず、天からの手助けを求めたことがありました。そして、私たちにとって真実であることは、主にとっても、より確かな真実なのです。私たちには、この大きな謎は理解できませんが、主が霊的な旅路を歩かれたとき、そこで受けられた試みと誘惑は、あなたや私がこれまでに必要としたもの、これまでに受けたものや、これから味わうものより、はるかに深かったのです。確かに、『すべての点で、私たちと同じように』ということばは事実ではありますが、主にとって、そこには、私たちが受けるものより、ずっと大きな苦しみがありました。そのすべてを通して、主は完成され――『完全なもの』とされたのです。『キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ(完成したものにされ)、・・・・とこしえの救いを与える者となりました』(ヘブル5:8、9)、すなわち、『永遠の贖い』(ヘブル9:12)です。主は、私たちのために、完成へと向かう道の終点に到達されました。そして、主ご自身が、神は私たちの中でもそれを行うことができるという証明です!これが大切な点です。主は、信仰に対する『権利証書』のようなものとして、そこにおられます。すなわち、神は、主をその場所へと送られたのだから、他の誰をも、同じところに至らせることができるという保証であり、確約です。神は、私もあなたも、最後にはその場所へと至らせることができます。神は、ご自身の働きを、私たちの中で完成させることができます。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年6月7日日曜日

【Daily Open Windows】6月7日

六月七日

文字は殺し、御霊は生かすからです。(第二コリント三・六)

どんなことでも、御霊の願いがどこにあるかを知りたいとおもえば、ければ、その方向へと、主のいのちによって突き動かされることから分かります。御霊が望まないものは何かを知りたければ、その方向に向かうとき、あなたの霊に死があること、その方向には、言わば、主のいのちがないことから分かります。そのとおり、これが意味するのは、あなたが主を知っていること、あなたが御霊を知っていること、キリストにあって、いのちの御霊の法の上に生きていくとはどういうことか、あなたが知っていることです。御父は、その法によって主を支配しました。私たちが主に結び付けられて、霊がひとつになるとき、主は、全く同じ法によって私たちを支配します。導き、指示は、御霊にあるいのち、御霊によるいのちが行うことです。主イエス様は、ご自身の生活を、あらゆる細部に至るまで、生かす御霊、すなわち、キリストにあるいのちの御霊による命令、支配、指示、手配にゆだねました。

2020年6月6日土曜日

【Daily Open Windows】6月6日

六月六日

また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。(ヘブル三・十八)

自分自身がその安息を知らない限り、私たちは、救われていない人たちに、キリストのところに来て安息を見出すように指図する権利などありません。自分自身が安息の中にいるのでなければ、私たちの証しと主への奉仕は、危険にさらされ、弱められ、限定されたものとなり、信用もされません。これこそが、敵の活動の目的です――すなわち、私たちの信用を傷つけるために、主との一致という生まれながらの権利を私たちから奪うのです。その主とは、何があっても、絶対に脅かされることなく、不安を覚えることも、疑いに捕らわれることもなく、全てを支配するただ一人のお方です。お分かりのように、安息とは、この方こそが主であるという私たちの信念から生まれる実践的な働きかけであり、神の民に安息がないことは、支配者としてキリストの地位を傷つけるものです。・・・

2020年6月5日金曜日

【Daily Open Windows】6月5日

六月五日

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(マタイ十八・二十)

世界の歴史のこの時代に、神が特別に心にかけていることはなにか、そして、それを踏まえて、主の子供たちである私たちは、いったい何へと召されたのかということを、私たちは明白に理解していなければなりません。この摂理の中で神が行っていることとは、霊的で天的なイスラエルの建設です。これを行う中で、神は古いイスラエルの律法を、霊的なかたちで繰り返しているのです。神は、古いイスラエルに対して御自身がなさった時と同じやり方に沿っているのですが、今は、地上の土台ではなく、天的な土台に則って行われています。神の取られる方法は変わることがあっても、神の原理は、決して変わらないからです。神は、旧約聖書という地上の土台を離れ、新約聖書では天にある土台へと移られました。神は、現世的なことがらから霊的なことに移られたのであり、霊的なものは、現世的なものよりはるかに大きいのです。・・・

2020年6月4日木曜日

【Daily Open Windows】6月4日

六月四日

私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。(ガラテヤ四・十九)

主の御名を冒涜すること、そして、主の栄光を取り去ることは、古い創造が、行わずにはいられない習慣であり、いつも進む道筋です。古い創造から来るものが、神なるものの領域に入り込めば、そこで、遅かれ早かれ、起こることは何でしょう?その人は、自分が栄光を受け、神の名誉を貶めます。それは、悲劇的で暗い『教会』の物語ではにでしょうか?すなわち、古い創造の力といのちに生きる人間が、神なるものの中に入り込み、自分の名声を求めるようになるのです。主の教会は、人間がよい評判、地位、影響力といったものを探す絶好の狩場となってきたのです。肉は常に、そのようなことをします。これが、神の栄光を取り去り、神の御名を冒涜するのです。そうならないために、新しい創造が必要であり、そこでは、すべてのものが神から来ているのです。・・・・

2020年6月3日水曜日

【Daily Open Windows】6月3日

六月三日

神のご計画に従って召された人々。(ローマ八・二十八)

選ばれた器は、神なる知恵の道具となり、その知恵は、器自体をも驚かすものです。遅かれ早かれ、選ばれた器の心は、この問いでいっぱいになります、『なぜ、神は私を選んだのだろう?なぜ、主は私をこの働きへと召したのだろう?主は、私以外の誰かを選ぶべきだったのに!私は、このような生き方、このような働きには、全く適していない。』モーセも、確かにそうでした。神がモーセをエジプトに送ろうとしたとき、彼は言いました、『ああ、誰でも、他の人がいるなら、私ではなく、どうかそのものを遣わしてください。』神がエレミヤを選んだ時も、この男は言いました、『私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません』(エレミヤ一・六)。預言者にとって、ただひとつの役割とは語ることなのに、その語るということが自分にはできないと、彼は感じたのです。神に選ばれるというのは、他にはないほど特別なことであり、神が私たちを召すことは、必ずしも、私たちが好むことでもないし、許されるなら避けたかったことかも知れません。

2020年6月2日火曜日

【Daily Open Windows】6月2日

六月二日

あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。(第二テモテ一・八)

神の最終的な目的を、もっとも完全に近いかたちで証ししているものであっても、そこから、よかったもの、必要だったもの、神から来たものの多くを切り落として、後から来るものに備え、真に最終的な目的だけが語られるようにしなければなりません。人を捕らえるのは、真実と受け取られているものや、心に取り込まれた教義に対してではありません。それは、啓示に続く経験によって、また、経験に対して示される啓示によって、その存在の一本一本の繊維へと組み込まれます。人に認められている何かの考え方に賛同することではありません。捕らえられることこそが、主に用いられる器が生きる人生であり、そして、器であることがその人の存在そのものであるということです。それは、なりたいとか、なりたくないという問題ではなく、他のもの、囚人以外の何者にもなり得ないのであり、これは、神の支配がそのようにされたのです。

2020年6月1日月曜日

【Daily Open Windows】6月1日

六月一日

神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(第二コリント四・六)

私たちは、『神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださった』という、この啓示に支えられています。『神は・・・御子を私のうちに啓示することをよしとされた』――ガラテヤ一・十六。私たちは、どのように支えられ、一人で立つものとされて行くのでしょうか?この忍耐はどのようにして、私たちの中に育っていくのでしょう?こうして心の内側で、啓示を通して、主イエス様を知ることによってです。一人で立つようになる人々とは、この知識が、心の内側で生きる啓示となった人たちです。すなわち、『神は、私たちの心を照らしてくださった。』これがひとつの面です。別の面とは、『四方八方から苦しめられ、途方にくれて、迫害され、倒されます・・・が、行きづまることはありません』――第二コリント四・六~十。私たちは、ひどく悩み、苦しめられます・・・・なぜでしょうか?それは、『イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです』――第二コリント四・十一。これこそ、忍耐ではないでしょうか?四方八方から苦しめられますが、窮することはありません!『あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました』――詩篇四・一。『苦しめられ』ることの意味はどこにあったのかといえば、それは、神が、このゆとりを与えてくださるためでした。倒されても、見事に立ち上がります。なぜ?何のために?それこそ、『私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神』のゆえであり、だからこそ、あなたがたは、すべてをくぐり抜けて、生きていけるのです。私たちを、最後まで支え続けてくれるものは、心の中への御霊による主イエス様の啓示の他にはありません。それは、内なる主の知識――信条や教義を頭で受け入れることではなく、私たちの存在の中で生きる、力強い現実です。

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