2016年5月31日火曜日

心から心への言葉[28]神の誠実さ

[28]神の誠実さ
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

神は愛の神であられ、正しく真実なお方ですから、私たちも主と同じ誠実さを持つことができますように。主を愛するすべての人が、素晴らしい永遠の生を持っているのなら、———そして、事実、主は行いの正しい人から良いものを取りあげることは決してなさいません———私たちは、自分の行動を補うために、『神の誠実さを手に入れ』ようではありませんか。

多くの信者は、悲嘆にくれ、人を助けることの喜びと力を見失っていますが、これは神の真実さを手に入れていないからです。ポケットにお金があり、台所には食べ物があるときは、誰でもたやすく、自分は神を信じていると思い込むものです。しかし、私たちが信仰を亡くした時でさえ、主の真実さは揺るぐことなく立っています。

2016年5月29日日曜日

[Our Daily Bread]お父さんの動物園

お父さんの動物園

正しい者は、自分の家畜のいのちに気を配る。悪者のあわれみは、残忍である。
箴言12:10

ジューン・ウイリアムスが4歳の時、お父さんは7エーカーの土地を買って、囲いも檻もない動物園を作り始めました。大人になった今も彼女は、閉じ込められた野生動物たちが自由に生きられるようにと、お父さんが知恵を絞ったことを覚えています。今日、チェスター動物園は、イングランドで最も人気のある野生動物公園のひとつとなりました。11000匹の動物が、110エーカーの土地に住んでいるこの動物園を見れば、お父さんが動物の幸福、教育、そして、保全に、真剣に取り組んでいたことが分かります。

ソロモンも、小さなものから大きなものまで、すべての生き物に対して、これと同じ気持ちで接していました。中東の野生動物をいろいろと調べた上に、大猿やヒヒなど異国のめずらかな動物をも買いいれました(第1列王記10:22)。しかし、ソロモンが書いた箴言には、彼の自然に関する感心は、知的好奇心に留まらなかったことが現れています。人が動物をどう扱うかという、ソロモンの霊的な教えの中には、創造主の思いが映し出されていたのです。『正しい者は、自分の家畜のいのちに気を配る。悪者のあわれみは、残忍である』(箴言12:10)。

神が造られたものの美しさを見れば、私たちも、主からゆだねられたものを大切に扱わなくてはいけないと思うはずです。

神の知恵を持っていたソロモンは、私たちの創造主との関係が、人にどう接するかだけでなく、生き物に対して持つ思いやりの深さにも、影響を及ぼすことに気づきました。

天なる父よ、あなたが造られた動物の王国の不思議さと多様さを思うとき、あなたを讃えるだけでなく、あなたから託されたものに十分、心を配ることができるように助けてください。

神こそが、私たちすべてのまことの所有者です。 

考察:
知性と知恵の間には、小さくても大切な違いがあります。どちらも必要なものです。どちらも大切なものです。どちらも、獲得し、活用するには、努力して、鍛錬することが必要です。しかし、知恵はしばしば、知性をよいかたちで応用したものと考えられています。あることを知っていることと、それに基づいてよい行動ができることは別のものです。ソロモンが示すように、知性は言葉で現されますが、知恵は言葉と行動で示されます。


2016年5月27日金曜日

心から心への言葉 [27]神の守り

[27]神の守り
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

世界の全ての金と銀は神の所有物です(ハガイ2:8を参照)。千の丘の家畜らもまた、主のものです(詩篇50:10後半)。ですから、私たちは菜食主義者である必要はありません。神が自分の子供のことを忘れることなど、決してありません。私たちは、弱い親かもしれませんが、それでも、子供を忘れたりしません。私たちの神は最良の父親です。自分の子供を忘れることなどあるでしょうか?

2016年5月24日火曜日

心から心への言葉[26]神のために働きすぎると・・・・

[26]神のために働きすぎると・・・・
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

主は、私たちの中で、私たちのために多くの恵みに満ちた働きをされました。とはいえ、その働きより、主ご自身のほうがはるかに大切です。主のために過剰に働きすぎると、人からは熱心に神に仕える人と言ってもらえるかも知れませんが、主との個人的な交わりは奪われてしまいます。交わりを求めないと、働きの価値を損なうだけでなく、主のぶどう畑でさらに大きな働きをする資格を失ってしまいます。

2016年5月23日月曜日

心から心への言葉[25]罪の感覚

[25]罪の感覚
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

主の恵みを讃えながらも、私たちは罪を憎んでいません。罪は、世俗の人、聖人の心の中、どこに現れても忌まわしいものです。神の恵みを伝える働きは、栄光に満ちています。私たちは、誠実に、熱意を持って、恵みによる神の救いを世界へと広めなくてはなりません。しかし、神の恵みを広めながら、人の罪には触れずにおくなら、神の恵みを誤解しているだけでなく、その恵みを冒とくすることになります。神は、恵みと律法をもって、人を取り扱いますが、どちらであろうと、罪は裁かれ、拒絶されなければなりません。神の恵みを広めながら、罪を心地よく感じるなら、その人は神の恵みのことを何ひとつ知らないことになります。『恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。』(ローマ6:1後半)本当に生まれ変わった人なら、必ずこう答えるでしょう、『絶対にそんなことはありません。』(ローマ6:2前半)

罪を罪と考えない人々がいることは、神の誠実な聖徒の心を悲しませます。人は新しい言葉をいろいろと思いついては、罪を覆い隠そうとします。もっと悲しいことには、生まれ変わったキリスト者も、多くが罪を軽く考えてしまいます。神に与えられた罪の感覚を少しずつ失ってしまった信者たちがいるのは、なんとも残念なことです。彼らは罪と戦っていないわけではありません。彼らは戦ったのです!本当に生まれ変わったのであれば、キリスト者としての生活の始まった時、罪を憎んだはずだからです。彼らには罪を憎むという新しい性質が与えられました。必死の思いで罪に抵抗したのです。しかし、勝利よりも、敗北することが多かったために、意気消沈してしまったのでしょう。彼らは、罪に打ち負かされることを当たり前のように受け止め、また、自分が罪に勝利することなど不可能だと思い込んでいます。あまりに罪に汚されて、良心が麻痺してしまい、もはや、声高に罪を拒絶することすらないのです。どこまで堕落してしまったことでしょう!なんと悲しいことでしょう!

この人たちも第1ヨハネ1:9の教えを知っているはずです、『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』それでも、彼らは神の聖さをもてあそぶように、何をしようと神の恵みで許されると考え始めます。『罪を犯したら、許しを乞えばいいだけさ。罪を犯してもどうということはない。』言葉にこそしなくても、心の中ではこんなふうに決めつけているのです。

こうして多くの信者が失敗してしまいます。罪に対する正しい感覚を亡くしてしまうのです。現実に、霊の内で感じることと、肉の思いがほとんど同じになってゆきます。いつも心が傷つき、大きな苦しみを受けていると、罪に対する感覚は鈍くなります。罪を憎み、拒絶しなければ、私たちの良心は、鋭さを失ってゆきます。犯した罪を告白しなければ、そのたびに、良心はかたくなになります。こうして、罪への憎しみはついえてゆき、罪の感覚が消えてしまうのです。

私たちは、たくさんの小さな敗北を重ねています。つまらない嘘が、不信仰の行いを生み、義のない小さな行いを生み、それが敗北へとつながってゆきます。私たちは、良心に鑑みて自分を批判することなく、いつも自分を偽って、そんなことはどうでも良いと思い込もうとします。このような態度は、良心のとがめを抑え込んで、心をかたくなにします。私たちの心は、致命的な傷を負うことになります。自分の良心からの告発に耳をふさいで、罪を告白しなければ、罪を取り除くことはできるはずもなく、神の聖さの標準を満たすことさえできなくなります。自分が罪に対して過剰に反応しているのではないかと恐れる必要などありません!良心からの告発を受けて、自分を裁き、罪を消し去りたいと望むたびに、罪に対する感覚は鋭敏になっていきます。勝利を得る聖徒とは、自分を裁く信者のことです。罪人が、罪に対する究極の罰(すなわち地獄)を恐れるように、私たち信者も罪の力を恐れるべきです。いつも、この警戒を怠らず、心がかたくなにならないように気をつけて、罪に対する敏感さを失わないようにしましょう。霊が敏感さをなくせば、霊的ないのちが干上がってしまうからです。

罪を軽んじる人は、神の恵みも軽視しています。しかし、深い泥沼にはまった経験から、罪がどれほど恐ろしいものか気づいた人は、そこで見いだした神の恵みの大切さを知ります。小さな罪を犯しただけで、すぐに許されたと思いこんでいる人は、罪が許される恵みを理解することができません。

2016年5月15日日曜日

心から心への言葉[24]神の恵みが明らかにされるとき

[24]神の恵みが明らかにされるとき
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

私たちに向けられる神の恵みは変わることがありません。主の恵みに対する私たちの受け止め方が、時によって変わるだけです。実際には、神の恵みはとどまることなく注がれています。しかし、私たちは、時に、主の恵みを受け取ることができなくなるようです。神の変わらない恵みを享受するためには、まず、飢え渇いていることが必要です。飢え渇きを強く感じるほど、恵みを強く求めるようになります。恵みがどうしても必要だと感じなければ、神がくださる恵みに、感謝することもないでしょう。神の聖者たちが犯す大きな過ちがあります。自分が罪人だったときだけ、恵みが必要だったと考えてしまうことです。私たちは確かに神の恵みによって救われました。これは紛れもない事実です。それでも、神の恵みは全生涯を通して必要なのです。人生の全ての瞬間は、主の恵みの中で、恵みによって生きるべきものです。私たちは神の恵みを通してこの人生に入り、人生の旅路を神の恵みによって終えるのです。神は、私たちの罪の裁きを、主イエス・キリストの十字架につけられた御体に負わせて、その罪を許されました。これは真実です。主は、私たちが信じて救われることを可能としてくださいましたし、この恵みは計り知れないものです。それなのに、ああ、私たちの心は欺きに満ちています!

私たちキリスト者は、主の恵みを通して多くの勝利を経験しますし、勝利のうちに進んでいるときは、その勝利を自分の栄誉と考え、自分を良いものと思い込んでしまうものです。主が変わらない恵みをくださっても、それに気づかなかったり、恵みの必要を認めないからです。これは私たちの心の不誠実さから来ています。このため、神は時に、敵である悪魔が人を試すままにしておかれます。主は、サタンが私たちをふるいにかけることさえ許されます(ルカ22:31~32参照)。こうして打ちのめされたとき、心の中は嘆き悲しみ、自分の罪を憎み、自分は罪が肉のかたちをとったものだとさえ思い込みます。そして、主が自分を地獄へ追い落とすことがあっても、仕方のないことだと考えるでしょう。

しかし、そのような時も、神は恵みを与えてくださっています。どれほど大きな罪を犯しても、主の恵みは私たちに十分なものです。主は、その罪を許したいと望んでおられます。ですから、何度、過ちを犯そうと、主は離れることも、見捨てることもしません。そのことに気付いた時、誰もが心から感謝するしょう!私たちは主のあまりに大きな恵みに言葉を失います。このような望みのない罪人にも、主は恵みを与え、哀れみを示し、心にかけてくださいます。ここで、私たちは神の尽きない恵みにさらなる感謝をし、それによって、どんな時も主の恵みが必要であることに気付きます。神が恵みを示し続けてくれなければ、私たちはとうに滅びていたでしょう。このように自分の罪を認めるとき、神の恵みの大切さを知ることになります。

恵みによって、人はへりくだります。罪がなければ、恵みを必要とすることもありません。自分が罪人であると告白することは、へりくだった行いです。御霊が、裁かれた私たちの罪を見せてくださるとき、へりくだることは比較的、容易です。しかし、来る日も来る日も裁かれる自分を見せつけられ、自分の中によいものは何もないと告白するのは、ずっと難しいことです。自分によいことは何もできないと告白し続けることが難しいのは、私たちの心にいつも自分が栄光を受けたいという願いがあるからです。私たちは、自分には良い行いができると思い込んでいるところがあり、そのために、神の恵みを忘れ、恵みは必要ではないとすら考えてしまいます。へりくだっている時でさえ、アダムから受け継いだいのちが堕落し、汚れ切ったものであると告白しようとしません。私たちは、どれだけ神の恵みを必要としているでしょう!

神は、一方で私たちが、苦しみを乗り越えて生きることを願いながら、同時に、毎日、打ち負かされて、主の恵みの必要を感じて欲しいと望んでおられるように見えます。苦しみの日には、神の恵みがとても優しく甘美なものと感じますが、いつも同じその気持ちを持ち続けたいものです。平坦ないつも通りの日も、苦難の時と同じように、神の恵みの必要を感じていなくてはいけません。古いアダムのいのちが外に現れるとき、私たちは自分が汚れていると告白します。しかし、悲しむべきことに、何もない平安な日々、同じアダムのいのちが外に見えなくなると、気持ちが変わって、へりくだることをやめてしまいます。古いいのちと性質の中ではすべてが罪で深く汚れていること、それ故、神の恵みがなければ、私たちはとうの昔に滅びていたことを覚えることができますように。

ハレルヤ!主は恵みに満ちています。

2016年5月1日日曜日

心から心への言葉[23]聖さと厳しさ

[23]聖さと厳しさ
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

キリスト者とはもっとも、理不尽な人たちです。しかし、理不尽でありながらも、誰よりも愛情にあふれています。彼らは、天のことだけを思っています。主イエス様の愛しか持っていないのですから、とても理性的な人たちとは言えません。それでも、その愛は相手を選ぶことなく、すべての兄弟に向けられており、よい人でも、不快な相手でも変わりはありません。敵すらも愛しています。その故、もっとも愛情にあふれていながら、世に対しては、著しく理不尽な人たちです。

さて、聖くあることはキリスト者の目的のひとつです。しかし、よく気をつけていないと、その聖さは、人をつまずかせる石となってしまいます。このような信者は、人に厳しくなりがちで、彼らの聖さが相手を傷つけることがよくあります。キリスト者が聖くなるほど、人の罪が彼らの目に忌まわしいものと映り、これが期せずして、厳しい非難の言葉へとつながるからです。それに加え、キリスト者は、神を知らない人たちを、不合理でひどく子供じみていると、見てしまいがちです。こんなキリスト者は未信者を助けるどころか、批判ばかりしています。不幸なことに、このようなキリスト者ほど、自分は神の標準を守っていて、神の真実をよく証ししていると思い込んでしまうものです。

しかし、このようなキリスト者が忘れているのは、聖さは神だけが持つものであることです。自分がただの人間に過ぎないことを、自覚しなくてはいけません。信者は、神の聖さを、自分の聖さと考えることはできないのです。神の聖さは、怖れをもって見守るべきものであり、人の手には届きません。救われ、生まれ変わっているとはいえ、私たちは今も人間のままです。神の聖さが、人の聖さとなるために必要なのは、主イエス様のいのちを吹き込むことです。まさしく、主は聖さがかたちをとって現われたお方です。

霊においては、主は罪人と完全にかけ離れたお方です。ペテロがイエス様を見たとき、こう泣き叫ぶしかありませんでした、『私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。』(ルカ5:8後半)しかし、一方で主は罪人の友であられます。社会からは拒絶されている取税人や遊女を、キリストは哀れみ、深く同情して、彼らへの慰めとなりました。ある面で、主は、罪人とかけ離れていることでご自身の聖さを示されますが、別の面では、罪人の友として、等しく聖い方であられます。キリストは、人を寄せ付けない方ではなく、また、厳しく接することもありません。信者たちの聖さもそれにならって、優美で暖かなものとなれば、人から愛され、讃えられます。ここから分かるように、人への厳しさは、聖さではありません。

このふたつの心のあり方、心の状態は全く違うものです。聖いのは確かに良いことです。しかし、聖くあるものは、自分を律することを恐れないと明言すべきです。十字架の道を歩くものなら、自己憐憫に耽ることは避けても、人に対しては、愛と哀れみを忘れないのは当たり前のことです。神は聖いだけでなく、また、恵みと哀れみにあふれています。私たちも、聖くはあっても、石のように冷たく、思いやりに欠けることがあってはいけません。神が私たちを救うのは、『人間らしさをなくする』ためではありません。むしろ反対で、私たちが『人間らしくない』からこそ、人間となれるように救うのです。私たちキリスト者は、理不尽で、不合理と思われてもいいですが、それでも、誰からも近づきやすい者でありたいものです。本当に聖いいのちからは信仰、やさしさ、平安と寛大が現れていなくてはいけません。羊飼いが、群れを養うように、私たちも忍耐強く人々に接しましょう。注ぎだされたいのちは、実を結びます。厳しさは人を遠ざけてしまいます。寛大さだけが人の心を溶かし、天国に続く道に引き込むのです。