2019年12月31日火曜日

【Daily Open Windows】前書き


毎日の開いた窓、セオドア・オースティン―スパークスのメッセージからの抜粋集

セオドア・オースティン-スパークス(一八八八~一九七一)は、キリストの知恵、キリストのいのち、そして、キリストの啓示に満ちた、宝の山のようなメッセージを残しました。

この本は、その多くのメッセージから、毎日、少しずつ読んでいただくための短い文章を抜き出して集めたものです。著者自身のことばを借りると、『おそらく、これは天国に向けて開かれた窓のようなものです。正しい窓を開けば、実に多くを見ることができます。実にすばらしいものが見えるし、遠くにあるものまで見通すことができます。とは言え、私が望める最善のことは、この本が窓を開けたこと、そして、その窓を通して外を見たあなたがただひとつの真理を理解することです――すなわち、イエス・キリストは他のあらゆる者に勝っており、私たちが到達した神の摂理は何よりも優れたものであり、そして、私たちが自由に使える得物は、これまで持っていたどんなものよりはるかに優れています!』

2019年12月30日月曜日

セオドア・オースティン-スパークスの生涯と伝道

セオドア・オースティン-スパークスの生涯と伝道
ランス・ランバート

このメッセージは、ランバートさんが、中国語を話す聴衆に向かって、通訳を介して行ったものです。語られた言葉は、一字一句、余さずに記録されています。メッセージは録音ページで聴くこともできます。

ピリピ人への手紙から、数節を読みたいと思います。ピリピの第一章、二十一節から始めます。

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。(ピリピ一・二十一~二十四)

続けて、祈りの言葉を持つことにしましょうか。

2019年12月25日水曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第二十五日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第二十五日:イエス

兄弟姉妹の皆さん、説教の代わりに、私の証しをさせてください。私が見てきたこと、この耳が聞いてきたこと、私の心が味わってきたこと――キリストが御父のひとり子であるということの証しです。

世にとっては人間であろうと、私にとって主は神です。神以外の誰にもできないことを、主は私にしてくれました。主は、私の強情な意思を変え、かたくなな心を溶かし、鋼鉄の鎖を断ち切り、真ちゅうの門を開き、そして、鉄の棒を砕きました。主は、私の嘆きを笑いに、私の絶望をよろこびに変えました。主は、私をしっかりと捕えて、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどる心を与えてくれました。他の人たちがどう思おうとも、私にとって、主が御父のひとり子であることは間違いありません。御名がほめたたえられますように。恵みに満ちた手を、あらためて証しします。ああ、もし主がいなかったら、私は神の栄光を見ることはなかったでしょう。私は罪であふれていました。主を信じなかった私は、罪を背負ったものでした。主は拒んでいた私を引き寄せ、必死で抗った私を導き続けました。そして、ついに私が、判決を受けた犯人のように、震えながら主の憐れみの座に着けられたとき、主は言われました、『あなたのの多くの罪は赦されています。安心して行きなさい。』

2019年12月24日火曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第二十四日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第二十四日:主の栄光を見る

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14)

『私たちはこの方の栄光を見た。』その栄光が聞こえたとか、預言書で読んだとか、他の誰かの口から聞いたのではなく、この方の栄光を見たと書かれています。これは、最初の弟子たちに与えられたすばらしい特権でした!妬ましく思ったことがないでしょうか?このお方、その中に神が住まれるこの方を見たということ。その哀れみの旅を、同行者としてともに歩いたこと。その雄弁な唇から生き生きと流れ出ることばに耳を傾けたこと。主の目を見つめて、その奥に輝く愛の深さに気づくこと。主の顔を見ること。これらはすべて肉的で、どれも視覚的なことであり、キリスト者とは、視覚に頼って生き、歩くだけのものではなく、もっと崇高な存在です。キリスト者は、信仰によって生きています。そして、今日もなお、信仰によって見えるキリストの姿があります。ですから、主を目で見る特権を持っていないことを不満に思う必要はありません。キリストの姿を目にしたからと言って、実際に見た者たち、弟子たちにさえも、大して良いことはなかったように思われます。五旬節の日に聖霊が降りて初めて、彼らはキリストを知り始め、キリストご自身から聞いたことも、ようやく理解し始めたのです。

2019年12月23日月曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第二十三日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第二十三日:恵みとまことに満ちて

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14)

ご存知のように、ユダヤ教会の最大の栄光は、神がその中に幕屋を構えたことでした。モーセの天幕ではなく、十二部族の族長たちの様々な館でもなく、神が宿るつつましやかな幕屋がイスラエルの誇りでした。彼らは王を中心として集まり、その中に神が臨在したのです。

この幕屋とは、人間が神と交わるときに入った天幕であり、神が人と交わるときに向かった場所でした。ここで、人と神は、牛や子羊を屠ることを通してお互いと出会い、両者の間には和解がありました。

2019年12月22日日曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第二十二日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第二十二日:恐れることはありません

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:10-14)

神の子よ、あなたはこう言います、『私は今日、とても弱々しく、神のもとに行けない。』恐れてはいけません。ベツレヘムで生まれるお方が、『彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない(イザヤ42:3)』と言われたのです。

2019年12月21日土曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第二十一日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第二十一日:このために生まれた

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカ2:10-12)

私たちの主イエス・キリストは、ある意味でアダムよりも人間的です。アダムは、人から生まれていません。アダムは、幼少期の危険や弱さで苦しむ必要はなかったのです。アダムは、幼少期の人間のひ弱さを知りませんでした――初めから完全な大人でした。父としてのアダムは、赤ん坊として、子供としての私に共感することはできません。しかし、イエス様はなんと人間らしいことでしょう!主は私たちと同じく飼い葉おけで揺られています。アダムのように人生の途中から生き始めたのではなく、主は幼子の痛みや弱さや無力さを私たちとともに経験し、そして、墓場までも一緒に生きてくださいます。

2019年12月20日金曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第二十日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第二十日:恐怖への救済

さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカ2:8-12)

ここにあるのは恐れからの救済です。神が私たちとともにある。神が人のからだを持った。

この言葉にあるように、羊飼いたちには恐れる必要はなかったのです。御使いが彼らに良い知らせを伝えに来たからです。何が起こるのでしょうか?『私はすばらしい喜びを知らせに来たのです』とあります。しかし、この福音とは何でしょう?後になると、福音とはキリストが生まれたことであると知らされます。ということは、このときは、キリストが生まれること、神が降りてきて、人間の性質を御自身に結び合わせたことが、人間にとっての良い知らせなのです。

2019年12月19日木曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第十九日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第十九日:恐れる日々は終わった

さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」(ルカ2:8-10)

主の使いが羊飼いたちのもとに現れ、主の栄光が回りを照らしたとき、彼らは恐ろしくなりました。人間は神を恐れていたので、神が大きなよろこびの知らせを運ぶ愛の使者を送ったのに、人間たちは、死の使いが剣を振り上げて現れたかのような恐怖で満たされることになりました。

2019年12月18日水曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第十八日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第十八日:賢者たち

イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。(マタイ2:1-2、9-11)

東方の博士たちは、その星を拝み、他の星と比べ、その星が現れた正確な日付、瞬いた回数、動いた時間といったことを記録に留めるだけでは満足せず、星が教えることを現実に用いました。

2019年12月17日火曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第十七日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第十七日:星が伝えることば

イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(マタイ2:1-2)

人間が福音を述べ伝えることができなければ、神は星によっても、たましいを御子のもとへ導くことができます。ああ、星に限らず、石、鳥、草の葉、露の一滴でもいいのです。

全能なるお方には、あらゆる場所にしもべがいることを思い出してください。

2019年12月16日月曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第十六日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第十六日:あなたに向けられた神の御心

すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:13-14)

アダムが堕ちて以来、地上に平和はありませんでした。しかし、新しく生まれた王が姿を現したこのとき、主を包んでいた産着のひもが、平和を告げる白旗となりました。飼い葉桶は条約が結ばれて、人間の良心と自分自身、人間の良心と神のあいだの戦争が終結する場所になりました。

2019年12月15日日曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第十五日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第十五日:いと高き所に、栄光があるように

すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:13-14)

この御使いの歌の前半部分から学ぶべき教訓とは何でしょう?それは、救いが神にとって、最高の栄光であるということです。

神は、朝日にきらめく一滴一滴の朝露の中で栄光を受けます。雑木林に咲く全ての木の花が、誰に見られずに咲き、その甘い香りも森林の空気の中に消えてしまっても、神はそこで讃えられます。神は、水しぶきにさえずる全ての鳥、牧草地を駆けるすべての小羊の中に栄光を受けます。海の魚は主を崇めないでしょうか?小魚から怪物のような大魚まで、水中を泳ぐすべての生き物は、主の御名を祝福し、賛美しないでしょうか?全ての被造物が主を崇めないでしょうか?空の下には、人間を除いて、主を讃えないものがあるでしょうか?

2019年12月14日土曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第十四日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第十四日:よろこびのために歌え

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」(ルカ2:10)

十二月の暗い夜に生まれた陰気な宗教家たちがいて、微笑みを浮かべることは間違いだと考え、キリスト者が歓んだり、幸せを感じることは誤りであると信じています。ああ!この紳士たちが、キリストについて歌う天使たちを見たらよかったと思います。天使が主の生誕のことを歌えば、間違いなく、人も生きている限りそのことを歌い、死ぬときにそのことを歌い、そして、天国で永遠に生きるときも、同じことを歌うはずだからです。

2019年12月13日金曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第十三日

もろびとこぞりて
―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第十三日:真のよろこびのしるし

あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。(ルカ2:12)

この世によろこびが訪れたしるしです――数人が、飼葉おけの中のキリストを見つけ、この方こそがしるしであると聞かされています。すなわち、一人一人が、何かを教えてもらう状況に置かれています。彼らは、みどりごが、『布にくるまれている』ところを見ました。この赤子のどこにも、この世的な力の兆候すら見られません。小さな赤子の二つの弱々しい腕(arm)ときたら、自分で動かすこともできません。ああ、地上の国々は、軍事力の中によろこびを見いだします。武器(arm)を集めて強大になることが、国家の誇りとなっているのではないでしょうか?自分の国が、他の誰よりも速く人を殺せることを思うとき、愛国者はそれを誇って頬を赤らめるのでしょうか?

2019年12月12日木曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第十二日

もろびとこぞりて
―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第十二日:よろこびは多すぎることはない

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」(ルカ2:10)

罪のよろこびは炎の泉で、その源は地獄の燃える土にあり、その火の水を飲む者を狂わせ、食い尽くします。そのような楽しみを、私たちは味わいたいと思いません。罪の中で幸せになることは、呪われるよりも悪いことです。罪の中で惨めさを感じることが、恵みの始まりだからです。神は私たちを汚れた平安と汚れたよろこびから救い出します!御降誕を知らせる御使いが告げたよろこびは、それが続く限り純粋なものであり、大きく聖いものです。ですから私たちは、キリストを信じることは、その信仰自体の中に大きなよろこびがあることを、いつも信じましょう。

2019年12月11日水曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第十一日

もろびとこぞりて
―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第十一日:この世で最高のよろこび

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」(ルカ2:10)

この節にあるのは、初めての福音伝道の説教です。その説教者とは御使いであり、この天使の福音の鍵となる言葉は喜びです――『私はすばらしい喜びを知らせに来た。』

生まれながらの性質は、神の臨在を怖れるものです――羊飼いたちも恐れました。律法そのものが、この自然な当惑という感情を深める働きをしました。人には罪があり、その罪をあらわにするために律法が世に入り、このことが示したのは、どんなかたちで現われようと、神は人を怖れさせ、震えあがらせるというものでした。ユダヤ人たちは皆、超自然的な者の出現を見た者は必ず死ぬと信じていました。しかし、伝道者である御使いが語った、世界で初めての福音の言葉が、それを終わらせたのです、『恐れることはありません。今、私は喜びを知らせに来たのです。』

2019年12月10日火曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第十日

もろびとこぞりて
―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第十日:あなたには、場所がありますか?

男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(ルカ2:7)

日常の会話の中に、キリストの入る場所は何と小さいことでしょう。人は、いろいろなことについて語り、この国で言論は完全に自由ですが、ああ!日々の会話の中でキリストが入る場所は、本当にわずかです!日曜の午後、キリスト者を公言している者の家でさえ、キリストのための場所はほとんどないのです。彼らは、聖職者について話し、彼らの逸話を語ります。日曜学校のこと、また、教会とかかわりを持つ様々な団体のことを話しますが、キリスト自体のことはほとんど何も言わないのです!そして、輪の中の誰かが、『皆さん、神格と人格、完成された働きと義、昇天や、主イエス・キリストの再臨のことをお話ししませんか』などと言おうものなら、大ぜいの人たち、自らをキリストの信奉者と公言する人でさえも、頭を抱えて言います、『この男はあまりに狂信的すぎる。そうでなければ、普通の会話の中に、こんな話題を持ち込もうとは考えもしないはずだ。』そう、宿屋の内側に、主の居場所はないのです。

2019年12月9日月曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第九日

もろびとこぞりて
―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第九日:宗教の中に居場所はない

男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(ルカ2:7)

いわゆる上層社会の中に、キリストの居場所はあるでしょうか?ベツレヘムにも、民衆よりも自分を上に置く、立派な身分の人たちがいたのではないでしょうか――名声があり、地位も高い彼らはキリストの居場所を見つけられなかったのでしょうか?愛する友よ、いわゆる良き社会の中に、主のいる場所はありません。人間の社会には、愚かでつまらない様式を作って、その中に自分を閉じ込める場所があり、また、無意味な細かい礼儀作法が置かれる場所、軽薄な会話の場所、肉体を誉め合う場所、その時々の偶像として、あれやこれやを建てる場所があります。しかし、キリストのための場所はあまりに小さく、主に完全に従うことは、流行とは程遠いところにあります。

2019年12月8日日曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第八日

もろびとこぞりて
―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

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第八日:自分を締め出してはならない

男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(ルカ2:7)

飼葉おけに寝かせられたことで、主は、もっともへりくだった者だけを、みもとに招かれたのです。人は、王座に近づくことになれば身震いするでしょうが、飼い葉おけに近づくことを怖がる人はいません。

キリストほど、近づきやすい存在はなかったのです。

私たちの主イエス・キリストは、宿屋の馬小屋で生まれることで、誰でも彼のそばに来てよいことを示されました。福音は、全ての被造物に述べ伝えられ、何者も締め出すことをしません。聖典の招待状にはこう書かれているはずです。

2019年12月7日土曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第七日

もろびとこぞりて
―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

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第七日:飼葉おけに寝かせた

男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(ルカ2:7)

飼葉おけと十字架は、救い主の地上での生涯の両端に置かれていながら、お互いと組み合わされて、調和しているように見えます。主は、その生涯を通じて、農夫の衣を身にまとい、漁師たちと共に過ごし、卑しい者たちを弟子に迎え、寒々しい山を寝床とすることも多く、そして、こうに言われました、『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません(ルカ9:58)。』

それゆえ、これから地上で屈辱を受けることになるこの時期、ご自身の栄光を捨て去り、しもべのかたちを取って、もっとも卑しい身分にまでへりくだろうとしているこのとき、主が寝かせられている飼葉おけは、実にふさわしいところだったのです。

2019年12月6日金曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第六日

もろびとこぞりて
―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

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第六日:見えない糸

そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。(ルカ2:1-5)

私たちの主はユダ族から[生まれると預言されていました]。神が、しもべ、ミカを通して語った言葉によれば、その方は、ベツレヘムで生まれることが必要でした(ミカ2:7)。しかし、無名の大工とどこにでもいる娘の家系に、民衆の気持ちを引き付けることなど、どうしてできるでしょうか?このつつましやかな二人のどこに、登記簿の記録人は関心を持てばいいのでしょうか?二番目の点については、マリヤはガリラヤのナザレに住んでおり、子供は当然、そこで誕生することになるだろうと思われました。実際に、出産のときは近かったので、よほど差し迫った必要がなければ、南のユダヤ地方に向けて、長く退屈な旅に出発しようなどと思わないはずです。この二つの事がらは、どのように整えられたのでしょう?

2019年12月5日木曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第五日

もろびとこぞりて
―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

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第五日:永遠に続く愛

ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。(ミカ5:2)

あなたがこの世に生まれたときに、初めてキリストがあなたを愛したのではなく、人の子らがまだ生まれていないうちから、キリストは彼らを愛していました。キリストはいつも、彼らのことを想い、永遠から永遠に至るまで、主の愛は彼らに注がれました。信じるものよ、主がこれほど長く、あなたの救いを考えていながら、それを成し遂げられないことがあるでしょうか?永遠の昔から私を救うために働いてこられたのなら、今、主は私を失うでしょうか?私を大切な宝石として手の中に置いていた主が、その大切な指のあいだからすべり落ちるにまかせるでしょうか?山がそびえ立ち、深い水路が削られる前に、私を選んだ主が、今は、私を失うのでしょうか?あり得ないことです!

2019年12月4日水曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第四日

もろびとこぞりて
―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

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第四日:王として生まれる

ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。(ミカ5:2)

ベツレヘムは、『ユダの氏族の中で最も小さい』と言われています。なぜでしょう?イエス・キリストがいつも、小さい者たちのあいだを進まれるからです。主は、『ユダの氏族の中で』最も小さいところで生まれました。バシャンの高い丘でも、ヘブロンの王の山でもなく、エルサレムの宮殿でもなく、つつましくも輝かしいベツレヘムの村でした。あなた方の中に小さなものがいます――『ユダの氏族の中で最も小さいもの。』誰も、あなたの名前をきいたものはいません。あなたが埋められて、墓石に名を刻まれても、誰も気にとめません。通り過ぎる人は言うでしょう、『私には関わりがない。この人のことは知らなかった。』あなたは、自分のことをよく知らないし、自分のことは多くは思いません。あなたは人々から蔑まれ、あるいは、人に蔑まれなくても、自分を低くする方です。あなたは、小さな者たちの一人なのです。さて、キリストはベツレヘムで、小さな者たちの中に生まれます。自分を高くする心は、キリストの中にはありません。キリストは高ぶるものの中ではなく、小さな者たちの中にいます。強く高ぶった霊は、イエス・キリストを受けることはできません。主は、低い扉から入られ、高い扉からは入らないからです。砕かれた心とへりくだった霊を持つ者だけが、救い主を受けることができます。

2019年12月3日火曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第三日

もろびとこぞりて
―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

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第三日:パンの家、争いの家

ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。(ミカ5:2)

ベツレヘムということばには、二重の意味があります。『パンの家』と『争いの家』です。

イエス・キリストは、『パンの家』に生まれなければならなかったのではないでしょうか?主こそ、民が食べて生きるパンです。私たちの父祖が荒れ野でマナを食べたように、私たちも、この世ではイエスを食べて生きています。私たちは、世にあって飢えていますが、影を食べて生きることはできません。その殻は、世にある者たちの下卑た味覚を楽しませたとしても、彼らは野卑な者たちです。しかし、私たちは、本当に中身のあるものを必要としており、天の祝福されたパン、主イエス様の刺し貫かれた御体で作られ、苦しみの炉で焼かれたパンの中に、私たちの祝福された食べ物があります。沈み込んでいる魂にとって、また、もっとも強い聖者にとっても、イエス様のような食べ物は他にありません。神の家族の中でもっとも弱々しい者が、パンを求めてベツレヘムに行き、固い肉を食べる、もっとも強いものは肉を求めてベツレヘムに行きます。パンの家!あなたの他に、私たちはどこで滋養を得られるでしょう?

2019年12月2日月曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第二日

もろびとこぞりて
―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

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第二日:悪魔をなぎ払う一撃

『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。』(創世記3:15)

キリストは、年老いたへびにかみつかれる。しかし、それだけです!かまれるのは、かかとであって、頭ではありません!ですから、ごらんなさい、この勇者は再び立ち上がります。そのかみ痕は、致命的ではなく、いずれ消えていきます。主は死なれますが、墓の中で眠っている時間はとても短いため、きよらかな御身体が傷むことはなく、完全で美しい御姿で外に現れ、休まずに働いた労苦の日の後で、ゆっくり眠って目覚めた人のように、墓の中からよみがえられます!

2019年12月1日日曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第一日

もろびとこぞりて―
降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

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第一日:恵みの第一幕

『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。』(創世記3:15)

これは、地上で最初に行われた福音説教と言えます。エホバご自身が説教者となり、全人類と暗闇の君を聴衆として迎えた記念すべき語りかけでした。私たちにとっても、もっとも心を傾けて聴く価値があります。この偉大な福音の約束が、そむきの罪が行われたすぐ後、これほど早く行われたことに注目すべきではないでしょうか?まだ、二人の反逆者のどちらにも判決は下されていないのに、この約束は蛇に対する判決というかたちで与えられているのです。