2019年12月9日月曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第九日

もろびとこぞりて
―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第九日:宗教の中に居場所はない

男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(ルカ2:7)

いわゆる上層社会の中に、キリストの居場所はあるでしょうか?ベツレヘムにも、民衆よりも自分を上に置く、立派な身分の人たちがいたのではないでしょうか――名声があり、地位も高い彼らはキリストの居場所を見つけられなかったのでしょうか?愛する友よ、いわゆる良き社会の中に、主のいる場所はありません。人間の社会には、愚かでつまらない様式を作って、その中に自分を閉じ込める場所があり、また、無意味な細かい礼儀作法が置かれる場所、軽薄な会話の場所、肉体を誉め合う場所、その時々の偶像として、あれやこれやを建てる場所があります。しかし、キリストのための場所はあまりに小さく、主に完全に従うことは、流行とは程遠いところにあります。

人の輪の中で、キリストについて語り始めると、すぐに誰かがその口を封じようとします。『あの男は二度と家には呼ばない』とまで言われてしまいます――『彼が宗教のはなしをどうしても持ち込みたいと言うなら。』愚劣と華麗さ、地位と名誉、宝石ときらめき、軽薄さと流行などが詰めこまれた彼らの家にイエスのいる場所はないと、誰もが伝えていします。どんなことにも世論というものがありますが、この国では、キリストについてだけ、全く寛容さがないことをあなたもご存知でしょう。

真実の宗教のもっとも呪われた敵とは、その擁護者のふりをした人間たちでした。金銭目的の偽物の働き手たちは、キリストの羊飼いではなく、キリストの羊たちを愛してもいない、私たちの神とキリストに対するもっとも残忍な敵だったのです。主の御名が荘厳な賛美歌の中で唱えられ、香り立つ煙の中に主の像が掲げられるところに、主の居る場所はありません。へりくだって自分を悔いている霊たちに、主の恵みによって避けどころが備えられているところの他には、どこへ行こうと、平和の君がいる居場所は残されていません。

私はあなたの宗教に対して一銭たりとも与えたくないし、錆びた釘の一本も打とうとは思いません。神の御言葉が、一粒一粒まで真実であれば、私たちはそれに基づいて行動しなければなりません。

出典:No room for Christ in the inn(1862年12月21日に語られた説教)

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