2019年12月21日土曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第二十一日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第二十一日:このために生まれた

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカ2:10-12)

私たちの主イエス・キリストは、ある意味でアダムよりも人間的です。アダムは、人から生まれていません。アダムは、幼少期の危険や弱さで苦しむ必要はなかったのです。アダムは、幼少期の人間のひ弱さを知りませんでした――初めから完全な大人でした。父としてのアダムは、赤ん坊として、子供としての私に共感することはできません。しかし、イエス様はなんと人間らしいことでしょう!主は私たちと同じく飼い葉おけで揺られています。アダムのように人生の途中から生き始めたのではなく、主は幼子の痛みや弱さや無力さを私たちとともに経験し、そして、墓場までも一緒に生きてくださいます。

愛する皆さん、これはとても甘い慰めです。今は神である方が、かつては幼子であったのですから、私の心配事が、小さく些細で、比較的、幼いものであっても、御自身もかつては子供であった主のところに行くことができます。地上の偉い人たちが、貧しい子供たちをあざ笑って、『どうでもいいやつら、お前たちの苦しみなど同情に値しない』と言っても、私はつつましいよろこびとともに、天の王もかつては、母の胸にしがみつき、産着に包まれていたことを思い出して、すべての悲しみを主に伝えます。

主は、初めは幼子でありながらも、全てを支配し、永遠に祝福される神となったとは、なんとすばらしいことでしょう!私にとって、神はもう恐ろしいものではありません。私と神、聖なる子、イエスのあいだのこの聖なる結びつきが、あらゆる恐怖を取り去ったのです。

見てください。御使いは主の誕生だけでなく、主の責務についても少し語っています、『あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。』主が生まれ、この世に来た目的は、私たちを罪から解放することです。それでは、私たちを恐れさせたものは何でしょう?神を恐れたのは、自分が罪を通して失われていると感じたからではないしょうか?それなら、ここにはよろこびが重なっています。主は、私たちのあいだに人間として来られただけではなく、人を神から隔てるものから救うために、御自身を人とされたのです。

これまでの人生を奔放に送ってきて、悪しき生活のために父なる神から離れたしまった人たちのことを思うと、私は泣き出しそうな気持ちになります。彼らは、戻ってくることを恐れています。彼らは、主が自分を受け入れてくれないし、かつての自分たちのような罪人には哀れみすらかけられないと考えています。ああ、しかし、考えてみてください――イエス・キリストは、失われた者たちを求めて、救うために来られたのです。主は、救うために生まれました。主の誕生の目的は、救いだったのですから、人を救えなければ、主が生まれた意味はありません。この方が救い主とならないのなら、地上に向けた神の使命は、目的を達成できなかったことになります。その使命とは、失われた罪人たちが救われることだったからです。

神が来られました。永遠なる方、全能なる方が天上から身を落としたのは、惨めで落ちぶれて価値のない虫けらのようなあなたを引き起こすためでした。ここに、慰めがないでしょうか?受肉された救い主が、黒雲のように心を覆う恐ろしい不安を取り除いてくれるのではないでしょうか?

出典:God incarnate, the end of fear(1866年12月23日に語られた説教)

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