2019年12月3日火曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第三日

もろびとこぞりて
―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

Joy To The World
Daily Readings For Advent

第三日:パンの家、争いの家

ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。(ミカ5:2)

ベツレヘムということばには、二重の意味があります。『パンの家』と『争いの家』です。

イエス・キリストは、『パンの家』に生まれなければならなかったのではないでしょうか?主こそ、民が食べて生きるパンです。私たちの父祖が荒れ野でマナを食べたように、私たちも、この世ではイエスを食べて生きています。私たちは、世にあって飢えていますが、影を食べて生きることはできません。その殻は、世にある者たちの下卑た味覚を楽しませたとしても、彼らは野卑な者たちです。しかし、私たちは、本当に中身のあるものを必要としており、天の祝福されたパン、主イエス様の刺し貫かれた御体で作られ、苦しみの炉で焼かれたパンの中に、私たちの祝福された食べ物があります。沈み込んでいる魂にとって、また、もっとも強い聖者にとっても、イエス様のような食べ物は他にありません。神の家族の中でもっとも弱々しい者が、パンを求めてベツレヘムに行き、固い肉を食べる、もっとも強いものは肉を求めてベツレヘムに行きます。パンの家!あなたの他に、私たちはどこで滋養を得られるでしょう?

[ベツレヘム]が、『争いの家』とも呼ばれるのは、人間にとってキリストが、『パンの家』でなければ、『争いの家』となるからです。主は義なるものにとっては食べ物ですが、曲がったものに対しては、ご自身の言葉の通りに、争いを引き起こされます。すなわち、『わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります(マタイ10:34-36)。』

もし、あなたが、ベツレヘムを『パンの家』として知らなければ、ベツレヘムはあなたにとって、『争いの家』ということになります。イエス様の唇から、甘い蜜を飲むことがなければ、その口からは、両刃の剣が突き出します。そして、正しいものはパンを受け取るその口が、あなたに対しては滅びの口となるのです。パンの家であり、争いの家であるベツレヘムのイエスよ、私たちはあなたをパンとして知っています。ああ!あなたと今、争っている者たちも、耳だけでなく、心でこの歌が聞こえますように――

『地には平和と、穏やかなあわれみ。
神と罪人たちは和解した。』
(Hark the Herald Angels Singより)

そして、エフラテということばですが、これは、かつてユダヤ人たちが守り、愛した古い場所の名前です。その意味は、『大きな実り』、あるいは、『豊かさ』です。ああ!私の豊かな実りは、ベツレヘムでなければ、どこから来るでしょう?私たちの貧しく不毛な心からは、救い主の血が注がれるまで、ひとつの実も花も生じたことはなかったのです。私たちの心の土を肥やすものは、主の受肉です。主が来られるまで、土地全体を鋭い棘と強い毒が覆っていました。しかし、今、私たちの豊かな実りが主から来ています。

出典:The Incarnation and Birth of Christ - Sermon delivered 23rd December 1855 

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