2020年3月31日火曜日

【Daily Open Windows】3月31日

三月三十一日

永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召されました。(第一テモテ六・十二)

主のよみがえりは、神の力の最上の証明です。主イエス様のよみがえりについては、私から多くを語る必要はないでしょう。主が、あの十字架につけられていたとき、主の死を確かめるために、あらゆる手だてが取られました。主の両手、両足を十字架に釘付けた後、主が死んだことを確認するために、彼らは、主の心臓を槍で突き刺しました。主が十字架から降ろされ、墓に入れられたとき、祭司長が、『番兵たちにしっかり墓の番をさせる』ように命じたので、大きな石を転がして、墓穴をふさぎ、その石には封印がされました。それから、多くの番兵たちにも墓の番をさせました。主が間違いなく死んだと確かめるために、これ以上のことができたでしょうか?そう、人と悪魔にできることは、全て行われました――そして、この全てをこえて、この言葉があるのです、『神はこのイエスをよみがえらせました』(使徒行伝二・三十二)。

2020年3月30日月曜日

【Daily Open Windows】3月30日

三月三十日

子は、自分からは何事も行なうことができません。(ヨハネ五・十九)

これこそが十字架の原理です。主は、自分からは何事も行うことができないという立場を受け入れました。すべては、神から来るのでなければなりません。そうでなければ、何も成しとげることはできません。・・・三十年前、私の人生に革命が起こったのですが、それは、この十字架の原理が私の聖職者としての務めの前に立ちふさがったときでした――それまで、何年にも渡って私が執り行ってきた務めです――この原理は、たくさんの書物を読んで学びながら遅くまで過ごした日々、聖職者としての務めのために積み上げてきながら、いつしか、私自身の中でとても耐えられない重荷となっていたものの前に立ちはだかりました。他の人たちは、おそらく、それを非常に良いことと思ったでしょうが、実は大きな転機でした――男性も、女性も、聖職についている人、また、そうしたいと考えている人は、よく聞いてください――この原理、この十字架の原理を認めるべきときが来たのであり、それは、私が扉を閉めて、主にこう言ったときでした、『聖職者としての務めを、もう私はやりません。あなたが今、何かをしてくださらるのでなければ、私は説教もしません。私は、この務めを何年にも渡って続けてきたし、自分で仕事を整えてきましたが、もう、終わりにします。あなたこそ、それをやるべき方です。』ここで、私はあの原理、すなわち、十字架の原理を認めたのであり、そこではっきりと決断しました。

2020年3月29日日曜日

【Daily Open Windows】3月29日

三月二十九日

あなたがたは、手でさわれる山、燃える火・・・に近づいているのではありません。(ヘブル十二・十八、十九)

あの古い摂理から、新しく導入された摂理への変革はなんと壮大なものでしょう。あなたたちの新約聖書には、福音書の中でキリストが導き入れ、使徒たちへと引き継がれた、ただひとつのことが書かれています。そして、このヘブル人への手紙を見ると、この手紙全体の明白な目的とは、ひとつの摂理から、主にある別の摂理への移行です。ああ、もう一度、読んで、このことを褒め称えてください。ヘブル人への手紙をもう一度、読んでみてください。これを誉れとしてください、『これはすごい、私たちは、なんと言うものの中へと導き入れてもらったのだろう。』幕屋でしょうか?そのとおりだと、手紙の著者は言います。かつて、この地上に幕屋が置かれていた時代もありました・・・・それも、この時で終わりとなりました。著者は続けて言います、この古い幕屋はすっかり消え去り、そして私たちは今、手で作られたのではない本物の幕屋へ、神が作られた天国の幕屋へと入ってきたのだと。これはなんとすばらしい移り変わりではないでしょうか!――ひとつの摂理から、別の摂理へと移動したのです。

2020年3月28日土曜日

【Daily Open Windows】3月28日

三月二十八日

御子を私のうちに啓示することをよしとされた。(ガラテヤ一・十五、十六)

もし、キリスト、神の御子の愛が、信じる者の心の中心であり、最上のものであれば、それ以外のものの多くは屈服していきます。屈服するしかないのです。神と論争しようとするところには分裂が生じますが、人の手で作られたもの、人間の活動から、また、自分自身を神の役に立つものと見なしたり、そう人に思わせることから生じたものは、心の内側に主イエス様の適切な啓示があれば、いずれは消えてゆき、その心の中に留まることはできません。私たちにはふたつの道があります。ひとつは、心の中にイエス・キリストが啓示されて、主に対する情熱を持つようになります。別の道とは、心の中へのキリストの十分な啓示が欠けているため、私たちは、まったく別のことを追求し始め、それこそ主の利益になり、主の役に立つはずだと主張しますが、神の心を喜ばせることは絶対に、決して、ありません。願っているのは、御父の心が満足することです。

2020年3月27日金曜日

【Daily Open Windows】3月27日

三月二十七日

もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。(ガラテヤ五・二十五)

キリスト教と呼ばれるものは、本質的には霊的なものであって、この世の秩序とか制度をさすのではなく、そして、その構成要素はひとつひとつが霊的な経路から、主にあるいのちと啓示という道を通って入ってこなければなりません。偽物と、主のいのちは、あらゆる面で完全に違っています。ああ、何かを外から客観的な気持ちで見ることと、主のいのちにあってその中に入ることの違いは、あまりに大きなものです!本物の驚異、栄光、生命力、活力、力が見られるのは、このいのちの中だけです。

2020年3月26日木曜日

【Daily Open Windows】3月26日

三月二十六日

わたしはまことのぶどうの木です。(ヨハネ十五・一)

まことのぶどうの木は、それが存在するただひとつの目的を果たします。イエス様は、ここで、ぶどうの木を使った説明をご自身と教会との関係に重ね合わせており、主イエス様の性質がどのようなものかは、ここで完全に明らかにされています。主は、すべての人に手を差し伸べ、全世界を受け入れてくれます。主は、あらゆる国の人々に、ご自身の心に入るよう求めています。主は、あらゆる国の人間を心にとめておられるのであって、ひとつの国だけではありません。主は、弟子たちに言われました、『それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい』(マタイ二十八・十九)と。こうされることこそ、イエス様の本質です。排他的であったり、小さく狭い心を持ち、自分のことしか頭にないという性質は、主の中にはまったくありません。・・・しかし、この事実を客観的に捉えておくことは、非常に良いことです。この性質が、私たち一人ひとりの中に下って来なければなりません。あなたや私の中に、キリストがいることの証拠は何でしょう?キリストが私たちの中にいることは、どうすれば分かるでしょうか?それを知る道はただひとつです――他の人たちが私たちを通じて主のいのちを受け取っていること、私たちが主のいのちを他の人たちに与えていること、飢えた貧しい人たちが私たちと触れ合うとき、主のいのちの感触を感じることです。表現の仕方は、いろいろありますが、結局はこういうことです、『あの男、あの女には、私が持ったことがない何かがあり、それこそ、私が求めているものだ。彼らについて、私には強く感じるところがあり、これこそ、私が本当に必要なものではないか。』一人ひとりのキリスト者がこうでなければならないというのは、私たちの中にキリストがおられて、私たちを通してご自身を拡げ、また、私たちを通してご自身のいのちを与えておられるからこそです。

2020年3月25日水曜日

【Daily Open Windows】3月25日


三月二十五日

わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ十五・五)

十字架は語ります、すなわち、この世の秩序は、たとえ、どれだけ宗教的で、正しい動機から生まれ、よい願いから出たものであっても、それが、生まれたままの状態にある人間から発せられたもの(必ずしも、神と対立することであったり、主への反逆を意図していなくても、ありのままの人間の自然の状態から表れたもの)であれば、やはり、その秩序全体は打ち捨てられると、十字架は言います。神は、法に照らし合わせて、このような秩序を裁き、それを禁じました。主イエス様の十字架で、神はこう言い渡しました、『生まれたままの状態にあるあなたがたは、わたしに仕えることはできないし、私の栄光となる実を結ぶこともできない!外に出て行って働き、骨を折ることはできるし、何とか私に仕えようとして、その重圧から死ぬことはあっても、あなた自身のままで、生来の資質によって何かを行う限り、それがわたしのための実を結ぶことはできない。この事実に変わりはない。』神の目的に届き、主のいのち――永遠で神にある天的ないのち――に入ることができるのは、聖霊から生まれ出るものだけです。

2020年3月24日火曜日

【Daily Open Windows】3月24日

三月二十四日

彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くしなさい。(コロサイ二・六、七)

あの土地に着いたアブラハム・・・それなのに、神から与えられた約束は覆されそうです。アブラハムは、何か間違えたのでしょうか?私たちは、主のされることに、ときに戸惑い、また、主のされることがとても理解できない場合もあるのではないでしょうか?すべてが、混乱しきっているように思えても、信仰さえ保たれていれば、いつか、すべての理由が示されて、主をたたえる日が来ます。『義人の道は、・・・いよいよ輝きを増して真昼となる』――箴言、四章八節にあるとおりです。できごとではなく、そこに至る『道』に目を向けてください!その道に現れる謎の中には、神が隠された謎があります。そして、それもまた、主の知恵と力が現れる機会のひとつではないでしょうか?すべてが失われて、激しい対立があり、そこで経験することはあまりに不可解で、状況を説明できる鍵は見つかりそうにないとき、私たちは、これが、本当に神が与えた約束なのだろうかと、疑わずにいられなくなります。すべてが、期待したものと逆に思え、自分が完全に間違っているのではないかと悩み始めます!まさにこのときこそ、私たちは主にあってしっかりと立ち、その足元を信仰にあって、堅く守るべきです。結局のところ、私たちは誰もが、似たような経験をします。そこには困惑があり、明らかな矛盾があり、対立があります。経験のかたちはいろいろではあっても、私たち全てに、さまざまなかたちを取って、この事実が伝えられます――すなわち、『主は常に真実である。』このことが、どのようにして、私たちを立たせてくれるのでしょうか?どこからもまったく助けがなく、また、自分も当てにならない状況に置かれることによって、私たちは自分自身を主にゆだね、そして、私たちが主を認めるのはこのときです。あなたは、神の謎を知る場所へと向かっているのであり、主にとって、これは、ご自身の知恵を示して、あなたの信仰を確固たるものにする輝かしい機会となります。このすべては、忍耐という問題です。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年3月23日月曜日

【Daily Open Windows】3月23日


三月二十三日

キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。(コロサイ三・十一)

愛する皆さん、十字架が立てられた目的は、ただ、私たちにとって、主イエス様がすべてとなり、すべてのうちにおられるようになることでした。そして、主が私たちに手を差し伸べ、十字架を用いて、私たちを死と墓につぎ合わせたがゆえに、今、私たちは、それまで知らなかったかたちで主を知っているのではないでしょうか?主が私たちにとって、今ある姿となり、心の中でますます大切なものとなってゆくのは、その時、主がされたことのゆえではないでしょうか?主イエス様が、私たちの中で、また、私たちにとって、盛んになっていくのは十字架の道のゆえです。自分の最大の敵は自分自身、自分の肉であることを、私たちは非常によく知っています。この肉は、私たちに安らぎも、平和も、満足も与えてくれません。その中に、喜びはありません。それは、私たちにまとわりつき、いつも離れず、そして、私たちの前をひっきりなしに遮っては、生きる喜びを奪おうとします。これに対して、どう対処するのがいいでしょう?そう、十字架の中で、そして、十字架によって、私たちは自分から解放されます。罪だけではなく、私たち自身からです。そして、自分自身から解放されるとき、私たちは、キリストへと解放されるのであり、この時、キリストが自分の自我より、はるかに大きなものとなります。それは、苦しみに満ちた道筋ではありますが、その結末は祝福されたものです。そして、私たちの中で、このように生きたがゆえに最大の苦悩を味わった者が、こう証ししてくれるはずです。主イエス様の知識と豊かさからもたらされたものが、すべての苦しみを、価値のあるものとしてくれた、と。ですから、私たちのための主の働きと、私たちの中における主の働きは、十字架によるのであり、神の考えの中で、それは、主イエス様の入る場所を備えることだけを目的としています。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年3月22日日曜日

【Daily Open Windows】3月22日

三月二十二日

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ十一・二十八)

主が、ここで言おうとされたことは何だったのでしょう?民の上には、律法という苦しみが課せられており、それは、彼らにとって実に大きな重荷でした。パリサイ人たちは、モーセの律法に二千を超える解釈を施した上でこう言いました、『モーセの律法があるからといって、十戒だけを守ればよいわけではなく、あなたがたは、二千の戒律に従わなければならない』と。律法に従うよう求められ、それによって、生活が縛られていなければ、人の人生は全く意味のないものとされました。そして、このすべてが安息日へと集約されていました。すなわち、『安息日には、床を整えてはいけない!安息日には、床を取り上げてはいけない!安息日には、火をかき回してはいけない!安息日には、何ひとつしてはならない――三マイル以上歩くことすら許されない。』人々の生活を縛る二千の規則!彼らが日々、中でも安息日には必ず、守っていたこととは、『あなたはこれをしてはいけない』ということでした。

2020年3月21日土曜日

【Daily Open Windows】3月21日

三月二十一日

神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。(ヘブル四・一)

新約聖書の著者たちのように、神の民の霊的な生活に対して、真に重荷と責任を感じている人たちにとって、もっとも悲しいことのひとつは、主とともにまっすぐに進んでいくと約束した多くの者たちが、どこかでわき道にそれて、主が与えようとしたものとは違う何か、あるいは、もっと小さな何かへと向きを変えてしまうことです。それは、必ずしも罪とか、世ではなく、他の何か、一時的には非常に大きな満足感を与えながら、後には、霊的成長を阻む道に入り込む転換点であったことが分かる何かです。そして、彼らは、逆流が入り込む袋小路にいて、気がつけば、『神のご計画の全体』とは違う何かに夢中になっています。彼らは、『新しい発見』、『光』、とか、『導き』について語り、緊張の緩和、特定の問題の解決、自己実現に向けた解放の約束、そして、圧力からの脱出という理由を挙げますが、目新しさや輝かしさが薄れてしまうと、そういったものが、『当てにならない小川』に過ぎず、熟す前に落ちるエリコの果実を成らせていたに過ぎなかったことに気づきます。・・・

2020年3月20日金曜日

【Daily Open Windows】3月20日

三月二十日

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。(黙示録三・二十二)

私たちの時代の際立った特徴とは、明確なことばを伝える声があまりに少ないことです。この時代のための権威ある明確なことばが聞こえないことは、痛々しいほどです。・・・なぜ、こうなのでしょう?主から務めを与えられたかもしれない者たちの多くが、この世的な制度に、完全に取り込まれてしまったことが原因ではないでしょうか?それは、説教者を、完全に職業としてしまう制度であり、この制度があるために、説教は、需要と供給の問題に換えられて、人の手で作られた宗教的な秩序と行事で語られるためのものとされています。これは、説教だけの問題ではなく、制度化された形式となっている今日の『キリスト教』の組織と活動の全体に言えることです。自由に、なにものにも縛られずに語ることができないのは、『主のことばを語る重荷』が預言者に課せられているとき、あるいは、預言者が、『主の御手が私の上にあった』と言えたときに限られます。現在の秩序は、人がいつも語り続けることを求めます。これは、その人が何かを手に入れなければならないからであり、その必要があるのは、神とは私たちが考えた儀式を捧げて、それに応えるように求める存在である(これは神が決してされないことです)とか、あるいは、説教者は何度なく繰り返される状況に対して何かを作り続けなければならないと考えられているからです。これは大きな害をもたらす制度であり、神ではなく人間から来る、危険で卑劣な侵入者がいくらでも入り込む扉を開いてしまいます。こうして入り込むことのもっとも深刻な面とは、それによって、声、声、声、混乱させる声がいたるところに響き、その声は、神が、この時のために特別に発する声とは全く違うということです。・・・

2020年3月19日木曜日

【Daily Open Windows】3月19日

三月十九日

わたしはあなたに忠告する。・・・目が見えるようになるため、目に塗る目薬を(わたしから)買いなさい。(黙示録三・十八)

自分では見えていると思っているもの全てを、私たちは試し、そして、生活の中でどのような効力を持っているかを知らなければなりません。あなたも私も、自分では霊的な知識と思っているものを大量に抱えているかもしれません。私たちには、多くの教理、多くの真理があります。福音の教理に含まれるものを箱詰めすることはできますが、それが何を生むのでしょう?愛する皆さん、私たちが変えられなければ、それは、真に霊的な意味で見るということではありません。そう、見ることは変えられることであり、変えられることがなければ、それは本当に見えていることにはなりません。そのようなものをすべて剥ぎ取られて、違いを生むほんの小さなものが本当に見える状態まで、真直ぐに導かれたら、その方が、私たちにとってはるかに良いことです。神に対して、本当に真摯に、そう願わなければなりません。

2020年3月18日水曜日

【Daily Open Windows】3月18日

三月十八日

しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。(ハガイ二・六、七)

それは、考えるだけでも恐ろしいことに思えます。しかし、『キリスト教』と呼ばれるもののあまりにも多くの面に触れてしまった今、私たちはこう信じざるをえません。すなわち、自分をキリスト教徒と呼ぶ膨大な数の人々が、完全に間違った側に立っており、そして、この制度自体の多くの部分が、あまりにこの世的、伝統的、形式的で、霊的ではないものとなってしまったため、今、世界全体を揺り動かすことが、絶対に必要であり、そのことは、いつの日か、正当化されるはずです。学術論文を書いているのなら、『キリスト教』と呼ばれるものが、まさしくキリストの最大の敵であることを示すことができたしょう。

2020年3月17日火曜日

【Daily Open Windows】3月17日

三月十七日

もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。(ローマ六・五)

ここでいう、つぎ合わせることの性質に、実は私たちも非常に親しんでいることに注意して欲しいと思います。『つぎ合わされて、キリストの死と同じようになっている。』これは、使徒の言葉です、『もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。』私たちをキリストの死へとより深くつぎ合わせる道具として、主の敵が使われることもよくあります。敵の攻撃、敵の攻撃、敵の挑発、すべてがそうです。主は、悪を生むことはありませんが、悪が存在することは許されます。私たちの心は何度も、こう泣き叫びます、『どうして主は、私たちの人生に、こんなことが起こさせたのだろう?』それは、心の奥深くへと続く暗い道となりました。なぜ、主はこれを許されたのでしょう?それを、防ぐこともできたはずです。そう、私たちはそのことによって、主イエス様の死へとつぎ合わされたのです。私たちは、これまでになかったほど、自我の終わりへと近づけられました。そう、こうして、これまで知っていたより、もっと大きな主の姿を知るため、そして、悪魔が次に何かを企んだ時、簡単には動かされないものへと変えられるためです。これは、死をより深く経験する中でとられる、神の崇高な方法です。『つぎ合わされて、キリストの死と同じようになっている。』あなたは、はじめから、つぎ合わされていましたか?十字架につけられたキリストに、つぎ合わされてきましたか?それとも、あなたも、何かにぶら下がっている者たちのひとりに過ぎないのですか?あなたは、つぎ合わされていますか?そして、より深くつぎ合わされるとき、下へ向かって伸びてゆくのは根であることを、思い出してください。そして、間違いなく大切になっていくのは、忍耐強く、動かされないこと、そして、堅く立つ力です。しかし、ああ、そこには、ずっと大きな実が結ばれるのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年3月16日月曜日

【Daily Open Windows】3月16日

三月十六日

互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。(コロサイ三・九、十)

キリストご自身がこの地上におられたころは、民があの扉から、あるいは、あのまっすぐで細い道から入ったとき、その先には困難が待ち構えていることを、確実に知らせてこられました。さて、とても厳しいことばと聞こえるかもしれないし、あなた方のような、この扉から入ってきたばかりの若いキリスト者には、とくにそうでしょうが、このことをはっきりと完全に理解しておいてください。主イエス様は、このことでだれ一人、決して欺いたことはありません。主が人々に知らせたのは、当時、ご自身が言われたことばを使えば、『わたしについて』来ることによって、民は、困難と苦しみと迫害と試練と人生全体に及ぶ問題に、必ず巻き込まるということでした。ここに、代償、大きな代償があります。そして、私たちが気づくことになるのは、その代償に対する補償をしなければならないのですが、そこには、疑いもなく、この人生で行うべき償いが生じ、また、永遠に続く大きな償いがあるため、これは、どう捉えようとも、生まれたままの人間には、平坦な道とはならないということです。この聖霊の働きは、劇的で、厳格なものであり、肉にとっては非常に苦しいものとなります。勘違いしてはいけないのは、ここで非常に大きな活力が費やされるので、聖霊ご自身がこの働きを成し遂げなければならないことです。必ずそうなります。だからこそ、主イエス様は、私たちにいっさい疑う余地を残さなかったのです。しかし、使徒パウロがこのことを次のことばで述べたことに注意してください。私がパウロがこう語ったことを嬉しく思うのは、これは経験したとおりだからです。すなわち、『ますます新しくされている新しい人』です。次のことに気づいてください。すなわち、はじめに、はっきりとした明確な問いかけとして、『あなたがたは脱ぎ捨てて』、それから、『あなたがたは着た』と告げられましたが、今、この時に行われている働きは、ある一瞬、ある一日だけ行われる、一度きりのものではなく、私たちの中で続いていくものです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年3月15日日曜日

【Daily Open Windows】3月15日

三月十五日

神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせてくださったのです。(コロサイ一・十九)

次に私が言おうとしていることは、なかなか受け入れがたいかもしれません。それを言うのも同じくらい難しいことではありますが、それでも、誠実であろうと思えば、このようなことも話さないわけにはいきません。このことについて、ある日、想像すらしなかったほどの驚きに見舞われるはずです。驚くほど大きな活力、そして、活動、そして、機構、そして、熱情と献身が主の働きの中、主への奉仕の中に存在しており、これが、実に大きなものを作り出し、また、非常に広い範囲に渡る何ごとかを行っているように見えます。さばきをくだすの私たちではありませんが、法を制定し、その法を認めるのは私たちであり、あるいは、神によって制定された法を認めるのは私たちであるというべきかもしれません。いずれ、すべての働き、すべての奉仕、すべての活動のあいだで釣り合いが取れ、その中で、いつまでも残るものは何か、また、永遠に過ぎ去るものは何かが定まるときがきて、神のための人間的な活力に過ぎなかったものはすべて消え去り、主のための人間の企てでしかなかったものはすべて消え去り、なんであれ、人間自体から出ていたものは、たとえ、それが神への献身からであろうと、すべてが失われます。キリストの活力、キリストの知恵、キリストの力だったものだけが残ることになります。神はあなたの活力も、私の活力も使ってはいません。神は、キリストの活力を用いることを、私たちに求めています。神は、なんであれ、人から出てきたものには、自分の証印を捺すことはできません。

2020年3月14日土曜日

【Daily Open Windows】3月14日

三月十四日

それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。(ヨハネ五・二十)

絶対的に神とひとつになっているものだけが、神が与える責任を負うことができます。自分にどのような肩書きをつけようと、主のためにどれだけ立派な行動を取ろうと、神にとっては何の意味もありません。神のもとに来て、『さて、主よ、私がこの働きに携わっていることをご存知なのですから、そこに手を貸していただきたいと思います』などと言っても、無駄なことです。このようなことは、主が私たちを助けるべき理由にはなりません。神は、ご自身の子供たちに寄り添って立たれ、内なる関係のみに基づいて、彼らとともに働かれます。『公式な聖職者』という立場にはない人の中にも、公的な聖職と立場にある人たちの多くよりも、主にとって、はるかに役に立つ人もいます。大切なのは、霊的な知識でも、聖職者としての公式の立場でもなく、私たちの神との隠された関係です。神は、私たちを、ご自身への奉仕にあうように霊的に変えられ、公職者としての立場ではなく、私たちの子供としての立場を守ってくれます。主が私たちの立場に目を止めるのは、私たちが、自分と主の関係を心に留めているときです。

2020年3月13日金曜日

【Daily Open Windows】3月13日

三月十三日

大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。(ローマ十二・五)

私たちは、主の御体の一部です。私たちが受ける苦しみの多くは、私たちのせいで起こっているのではありません。神の子供たちが受ける苦しみの多くは、彼ら自身の過ち、彼ら自身の欠点とはまったく、何の関係もありません。彼らは、様々なこととのつながりの中で、この苦しみを受けています。彼らは主のみ体のゆえに、苦しみを受けています。彼らは、闘いの中へと取り込まれており、それは、この大いなる証しという争いです。主が、ご自身のいのちの証しとの関わりの中で何かを心に抱いているとき、まったく何の理由もなく、説明すらなく、私たちは、気がつくとその中に巻き込まれていることがあり、その様は、時に、ほとんど異様とすら思えますが、これは、私たちだけが、特別に経験していることではありません。

2020年3月12日木曜日

【Daily Open Windows】3月12日

三月十二日

どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、栄光が、とこしえまでありますように。(エペソ三・二十)

自分の魂という閉じた世界の中で、私たちが時に通らなければならない苦しみのすべてを乗り超えることのできる力は、間違いなく、非常に大きな力です。そして、確かなことに、主の教会で働くこの力によって、このキリストのみ体に属するすべての者たちにのしかかっている心の動揺を、すべて乗り切ることができます。では、あなたの苦しみをひとつに集めてください。あなたの絶望のすべて、動揺のすべて、人生についてのどうしようもない無力感を持ち寄ってください。あなたが神の子であれば、内側に働く力があり、その力は、そのすべてに対処し、乗り越え、打ち負かすために十分な強さを持っています。これが、私たちの中でご自身の目標を果たすために、神が用いられる手段であり、もし、私たちの中の神の目標がみ子の似姿に変えられることであれば、私たちの中で働く力は、内側で御子と対立するあらゆるものに対処し、乗り越えるために、全く十分なものです。

2020年3月11日水曜日

【Daily Open Windows】3月11日

三月十一日

それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。(ヨハネ十七・二十一)

では、キリストと一つになるとは、どういうことでしょう?それは、新しい創造、新しく創造された人として、主とひとつになること、すなわち、いのちの御霊によって新しく創造された生命である主のいのちの中でけるで主とひとつになるということです。・・・・ひとつになることの、意味とは何でしょう?それは、こうしてひとつになることによって、はじめて、神の働きが成しとげられるということです。御父との関係において、主を支配したものが、私たちをも支配します。この主との一致を土台としていなければ、成しとげられることは、何ひとつありません。どれだけ良い動機からであっても、これは、行動の問題ではないし、神の働きを引き受けるという問題でもありません。

2020年3月10日火曜日

【Daily Open Windows】3月10日

三月十日

わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(ヨハネ六・三十五)

『わたしがいのちのパンです』(ヨハネ六・三十五)。『わたしは、世の光です』(ヨハネ八・十二)。『わたしは良い牧者です』(ヨハネ十・十四)。『わたしはまことのぶどうの木です』(ヨハネ十五・一)。『わたしは、よみがえりです。いのちです』(ヨハネ十一・二十五)。ここに、私は何であるかというすばらしいことばが並び、主がどのようなお方であるかが、告げられています。そして、主が、このことばを、『このようになります』ということばと結び付けることが非常に多いことにお気づきでしょう。ヨハネの福音書に見られる、『わたしは何です』からつながる、『こうなります』は、強く心に残るものです――必ずしも、この同じことばを使っているわけではありませんが、文脈としては、同じ結論に至ります。しかし、ここでは、『こうなります』の例を、いくつか挙げてみます。『わたしはいのちのパンです。・・・・このパンを食べる者は永遠に生きます』(ヨハネ六・五十八)。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがありません』(ヨハネ八・十二)。主が描かれたご自身の姿と、私たちのあいだのつながりとは、すなわち、『わたしを信じる者。』主が言われる、ご自身は何々であるということばが、信じる者にとっての真実となるのです。『わたしを信じる者は、決して死ぬことがありません』(ヨハネ十一・二十六)、『・・・決して飢えることがありません』(ヨハネ六・三十五)、羊飼いのいない羊のようにさまようことは、決してありません。その人の現実生活には、羊飼いのように、生活の全てを支配し、つかさどるものがいます。『決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』ご自身は何であるという主のことばが、真実となります。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。』ご自身が何かであるかというこのような主のことばは、あなたが信じるとき、意味を持ちます。

2020年3月9日月曜日

【Daily Open Windows】3月9日

三月九日

すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ三・十八、十九)

御霊に支配された人の人生に現れるしるしは、その生活がいつもキリストで占められ、その度合いが常に強まってゆくこと、時間が経つほどに、キリストがより大きくなっていくことです。内側で御霊がはたらくことによって、この世界を超えて、はるか彼方まで広がる太洋の岸辺へと私たちは導かれ、その働きを思うほどに――ああ、私たちはキリストの深さと豊かさを感じます!世界の誰よりも長く生きたとしても、このキリストの広大さと豊かさの一端に近づくことしかできないでしょう。

2020年3月8日日曜日

【Daily Open Windows】3月8日

三月八日

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。(ヨハネ五・三十九)

聖職者の務めとは、主からいただいたいのちの表現であり、制服や肩書きを身にまとうことではありません。かつては私も聖職にあることを、特定の種類の働きに入ること、通常の仕事から離れて、そう、聖職者となることだと考えていました!人はこのように、何かにはまり込んでしまいます。実に多くの人たちが、このような考えの中で奮闘し、身を粉にして働き、失望しながらも、いろいろな決め事からなる秩序から離れることを恐れ、神からの召しと思い込んでいるものに逆らわないように努めています。他にも、それが生活のすべであるという理由で、聖職から抜け出せない人たちも多く、彼らもまた、失望し続けています。これは、すべて偽物です。聖職とは、このような制度的なものではありません。

2020年3月7日土曜日

【Daily Open Windows】3月7日

三月七日

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。(コロサイ二・九、十)

愛する友よ、パウロが若い改宗者、成長するキリスト者として成しとげたのと同じ進歩を、あなたと私も達成したいと思うなら、また、パウロが持っていた霊的な印象と影響力の重みに近いものを、私たちも持とうと思えば、そして、パウロが用いられた主の働きにくらべて、例えわずかな程度であっても、やはり自分たちも用いられたいと望むなら、絶対的に欠けてはならないことがひとつあり、これをしっかり、理解しなければなりません。もっとも若いキリスト者たちは、ぜひ、このことを把握すべきであるし、他の人たちも同じです。すなわち、自分の救い、回心やこれに関わることがらを、ただその中だけで捕らえたら、そこに限界が生まれることになります。私たちは、全てのことを、このただ一人の方、神なるイエス・キリストの光の中で見なければなりません!すなわち、これを贈り物として――救いを贈り物として――受けるとき、また、キリスト者としての生活の他の何かを受けるときも、ひとつだけで独立した贈り物として受け取ってはいけません。それの贈り物を見て、言うべきことはこれです、『この贈り物は、与えてくれたお方について、何を教えているのだろう?これは、キリストのことで、何を伝えているのだろう?私の救いの源となるお方について、これは、何を意味しているのだろうか?』理解し難い点かもしれませんが、これは計り知れない大切さを持つことです。なぜなら、キリスト者の生活における前進と、キリスト者の奉仕で用いられる力は、何かを知ったり、理解したり、救いを喜ぶといったことから来るのではなく、イエス様を見ることから生まれるからです!なぜなら、イエス様とは、神の満ち満ちたさまを、全てにいたるまで、その中に集めたお方だからです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年3月6日金曜日

【Daily Open Windows】3月6日

三月六日

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ五・一)

律法主義が、何度も繰り返してキリストを十字架に付けるのは、律法主義がキリスト信仰におけるもっとも偉大なことばを切り捨てるからです。真実のキリスト信仰へと通じる扉に掲げられたそのことばとは、『恵み』ということばです。律法主義は常に、主の『恵み』を拭い去り、『律法』で置き換えます。恵みは、キリスト者の語彙の中でも、もっとも大切なことばです。律法主義がもっとも完全なかたちで現わされるとき、それによって、常に、空の墓のあるべき場所に十字架が置かれることにお気づきでしょうか?キリスト者が胸に貼る記章とは、空の墓です。すなわち、『死者の中からのよみがえり』です。律法主義がつける記章は、十字架、『死んだキリスト』です。律法主義は常に死を持ち出すのに対し、キリストにまつわるもっとも大切な事実は、復活です。死者の中からよみがえったいのちです。神が、パウロの中に御子を喜んで啓示されたとき、パウロが理解するようになったのはこのことでした。そして、パウロは言いました、『この律法主義という制度から抜け出そう。私たちが十字架につけた、ナザレのイエスは生きている。この主は、私の心の中に、生きている人として示されたのだ。』

2020年3月5日木曜日

【Daily Open Windows】3月5日

三月五日

私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(ガラテヤ一・十二)

私たちの中で、この世の泉を味わって来た人たちは、魂にかかわる性質の面で、その泉にあるものと、宗教の中にあるものの共通点に気づいています。このふたつは、属している場所が違うだけであって、その本質は同じです。この世の音楽や芝居が、一方的に生み出すものは――魂をかきたて、奮起させ、切望させるもの、情念、涙、侮蔑、憎悪、怒り、憂鬱、喜びなど――すべて同じようなものに過ぎず、それぞれを支える人が異なり、また、設定が違っているだけであって、実のところ、このようなものはいずれ消え去ってしまうし、私たちも、そこに何かを追い求めることはしません。多少ましな音楽、新しい説教者、行ったことのない土地、心をかき立てる物語が、私たちの魂を刺激することもあるでしょうが、結局、私たちは、どこにいるのでしょう?サタンは、仮面の下でどれだけ笑っていることでしょうか!ああ、現実、永遠についての現実のために!この世について言えば、美しく崇高なものに対する鋭敏な感覚を持ち、高い教養にあふれた魂は、浅ましい魂よりも遙かに喜ばれはしますが、これは必ずしも、そのような魂を持った人が、神――人格を持った神――について、個人的な生きた知識を持っており、また、本当に新しく生まれているという尺度とはならないということを、誰もが理解できますように!『信仰の復興』のために祈る時は、自分が何を求めているのか、そして、その考えを広め、実際に推し進めるために、どのような手段を用いるか、気を付けましょう。・・・・使徒パウロが、明らかにしているように、彼の人生と奉仕の全てをつかさどっていた秘訣とは、自分の福音を『啓示によって』受けたという事実でした。聖書を一冊の本として、ほとんど完璧に知っていたとしても、私たちは霊的には死んでいて、役に立たないこともありえます。聖書は、永遠のいのちの基礎として、神の知識と真実について多くを語り、それによって、人は自由になり、思うように利用されますが、同時に、聖書は、人は探求することによって、神を見い出すことはできないと明言しており、そのためには、生まれたままの心の中ではなく、霊の中の知識が求められることを繰り返し、明らかにしています。ですから、いくら、豊富な聖書知識を持ち、キリスト教の教理を専門家として厳密に理解し、生まれながらの人間的な知恵や能力といった資質を駆使してキリスト者としての働きを行い、聖書の内容や主題を巧みに組み合わせて人の心を惹くように語っても、それによって、人の生まれながらのいのちを超えることはできないし、人は依然として霊的な死という世界の内側にとどまったままです。議論したり、説得されたり、魅了されたり、関心を持ったり、『興奮』させられたり、自分で志したり、熱意を持ったり、感動させることによって、人を天の御国へと向かわせることはできません。人はただ、その中へと生まれるしかなく、それは、霊的に生き返ることによって行われます。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年3月4日水曜日

【Daily Open Windows】3月4日

三月四日

彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。(マルコ八・二十五

愛する友よ、あなたと私が、ひとりの人間として、また、何か主の民の集まりに属しているなら、その集まりが、キリストにあって、神の完全で究極的な目標に向かって進んで行けるのは、ただ、イエス・キリストの霊的な絵姿を見ている場合だけです。絵姿は、前に進むために不可欠なものです。『絵姿』という言葉を、私は使い続けなければいけないでしょうか?ここで考えているのは、あなたがたの肉の目に見える実在の何かのことではありません。それは、あなたの内側で起こった何ごとかであり、あなたの内なる霊の目が、そこで開かれたのです。あなたは、こう言えるようになります、『私は「見た」のであり、それが、人生に大変化をもたらした。見たことで、私はしっかりと立ち上がった。それが、私に進むべき道を示した。それが、生活の原動力となり、自分自身ではなく、見たことが、私を前に進めている。』そう、このようなに行われることを、神に感謝しましょう。

2020年3月3日火曜日

【Daily Open Windows】3月3日

三月三日

わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。(ルカ十二・四十九)

火の前には、なにひとつ隠れることはできません。這うように進み、入り込み、そして、燃え広がる火は、そこで、焼き尽くすことができるものと、その力が及ばないものを、はっきり区別します。火は、そこにあるもの全てを、このふたつのどちらかに分けます。すなわち、見つけ出し、分別し、決定します。ルカ十二・五十一の文脈を見てください、『あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。』主は、こう続けます――『今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。・・・』――すなわち、ここで、分別が行われ、全てが、それぞれの属する区分に分けられるのです。

2020年3月2日月曜日

【Daily Open Windows】3月2日

三月二日

神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。(第二テモテ一・九)

主イエス様はただ、人の救済者、人の取り分の守り手として、この世界に来られたのではありません。私たちは、主の贖いがこの宇宙でもっとも偉大なものであること、神の全ての関心は贖いにあること、そして、私たちの心がただ贖いだけに占められているべきであることを、強く示していただいて、これを信じるように導かれなければなりません。贖いとは、とても大きなことです。その大きさは、どれだけ誇張してもしすぎることはありませんし、私たちが、いつか贖いの偉大さを本当に知る日が来るのか、私には分かりません。そして、その広がり、その深さ、そのための代償において、贖いはあれほど大きくありながら、贖いとは、永遠なる目的から派生するものに過ぎません。キリストには、自分に託されたものを救済すべき、最善のときに来られました。その意味で、もちろん、人間は救済されていますが、そこにあるのは、それよりもずっと大きな何かです。それは、何よりもまず御子に関わるものであり、そして、主の民が正しい態度、正しい視点を持つ者となるまで、すなわち、神の完全で最終的な関心ごとはその全てが神の御子を中心としていることを理解できるまで、主の民といえども、神が備えられたものと足並みをそろえているとは言えないのです。私たちの思いが、自分だけに――すなわち、贖い、聖化、賛美といったものに――向けられている限り、あるいは、御子ご自身よりも小さなものに向けられている限り、私たちは、ご自身の働きを成し遂げるために神が与えられる原動力を受けておらず、そのため、次のことが必要になります。すなわち、聖霊が働くための十分で最良の土台として、心の中に、イエス・キリストの啓示がなければなりません。神の全ての活力が解き放たれて、有効に用いられることは、私たちと主のつながりの中で初めて可能となり、また、これこそ、神が主を送られた目的だからです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年3月1日日曜日

【Daily Open Windows】3月1日

三月一日

わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。(マラキ三・十)

信仰の復興が起こることを願う、実にたくさんの祈りがささげられ、リバイバルを求める声があげられています。・・・もし、現在、キリスト教の制度と見なされている何かに対して、神の御霊が、それに目をとめず、用いることもなく、そして、大した価値のないもののように扱われたら、(そして、御霊は、神にとって必要なもの、本当に神から来ているものについては一切、妥協しません)、それは、その制度から生まれるものについて、よく考え直すようにと、主が求めていることの現われではないでしょうか?主の教会の霊的な力と影響力がもっとも強かった時代とは、教会組織の形式、組織体系や儀式といったものがどこにもなく、主御自身がすべてであった時代でした。・・・価値のないものごとから逃れるために、神の御霊が力強く入ってくれることが必要です。これが、これだけが、私たちを助けてくれます。ほとんどの人はこのことに賛同してくれますし、この考え方に沿って、いろいろな経験が語られてきました。私たちをずっと惑わせてきたのは、この類のことがらが何度も繰り返し、力を込めて述べられてきたのに、それを聞いた人たちに、その中に、実際の変革を起こす十分な力があると信じさせることができなかったことです。ですから、別の見方をすれば、ご自身の道を進まれる中で、神の御霊が何度も繰り返して排除してきたものに、私たちも真摯な態度で立ち向かうなら、そこに、より永続的で高い水準の霊的な生活、完全さ、そして、大きな成果につながる道が開くことになるのではないでしょうか?