2020年3月22日日曜日

【Daily Open Windows】3月22日

三月二十二日

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ十一・二十八)

主が、ここで言おうとされたことは何だったのでしょう?民の上には、律法という苦しみが課せられており、それは、彼らにとって実に大きな重荷でした。パリサイ人たちは、モーセの律法に二千を超える解釈を施した上でこう言いました、『モーセの律法があるからといって、十戒だけを守ればよいわけではなく、あなたがたは、二千の戒律に従わなければならない』と。律法に従うよう求められ、それによって、生活が縛られていなければ、人の人生は全く意味のないものとされました。そして、このすべてが安息日へと集約されていました。すなわち、『安息日には、床を整えてはいけない!安息日には、床を取り上げてはいけない!安息日には、火をかき回してはいけない!安息日には、何ひとつしてはならない――三マイル以上歩くことすら許されない。』人々の生活を縛る二千の規則!彼らが日々、中でも安息日には必ず、守っていたこととは、『あなたはこれをしてはいけない』ということでした。


『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます』(マタイ十一・二十八)。何が起こったのでしょう?イエス様は、ご自身が安息日そのものであるとされたのです。もはや、週の特定の曜日のことではありません――安息日とは、この神なるお方のことです。(セブンス・デイ・アドベンティストの人たちがこのことを知ったら、教義の全てが五分で崩れ去るでしょう!)そう、イエス様こそ、神の安息日なのです。イエス様ご自身が、神の働きの終わりであり、そして、この主にあって、神は休息に入られました。これこそ、『神の子供たちのために残されている休息』――すなわち、特定の曜日や暦の上の特定の日ではなく、神である人、神の御子ご自身のことです。この主にあって、私たちには休息が与えられ、私たちを縛っていたものは、今は、私たちのしもべとなりました。主にあって、私たちがいつも抗ってきたものが、今や、私たちの勝利となりました。ああ、その通り、イエス様こそ安息日であり、私たちが主の中に住むなら、安息日を損なうことなどありません。一日一日が、私たちの魂の休息の日であらねばなりません。ああ、これは主イエス様が成し遂げられた実に力強い働きです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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