2020年12月31日木曜日

【Daily Open Windows】12月31日

十二月三十一日

まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。(ヨハネ一・五十一)

よみがえりのキリストが意味するものは、開かれた天です。油注ぎの御霊が私たちの上にのぞむのは、十字架にかけられた方がよみがえるからです。御霊は、神の御子が私たちのために開いた天を出て、私たちのところに来ます。・・・・主イエスは言われました、『その方、・・・・御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。』そして、ヨハネは、このことばを裏付けています、『キリストから受けた注ぎの油が・・・すべてのことについてあなたがたを教えるのです。』上り下りする御使いたちが、これを象徴しています。私たちが交流しているのは御霊ですが、キリストは地から天へと届くはしごです。このはしごはどこにあるのでしょう?この世ではありません。このはしごは、私たちの心の中にかけられています。それは、私たちの心の中にいるキリストです。天から私たちの心へと開かれた道があり、キリストご自身が、私たちを神の臨在のただなかへと導いています。御霊は、キリストとのつながりの中で動き、キリストが御父との交わりの中におられるように、私たちをキリストとの交わりへと導きます。

2020年12月30日水曜日

【Daily Open Windows】12月30日

十二月三十日

私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また・・・、あの声が言った。「ここに上れ。・・・あなたに示そう。」(黙示録四・一)

主とともに働く私の目的は、すべてのことをはっきりした現実として示すことです。だからこそ、私たちは、すぐにこの問いを投げかけて尋ねます、あなたの内住の御霊は、神の完全さを御子の中に、ますます強く表していますか?それが、あなたの霊的な生活の性質になっていますか?もし、そうでなければ、あなたは主の前に行き、それを正すための訓練を受けなければなりません。何かが間違っているからです。これが油を注ぐことの意味であり、あなたの霊的な生活がこのような性質のものでなければ、あなたの場合、油注ぎのことで、何かがおかしくなっています。主イエス様は、ナタニエルに言いました、『天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます』(「いまに」に当たる「henceforth」は古い英語では「hereafter」ですが、多くの人はこれを、誤って「死後」と捉えています)。もちろん、「いまに」(hereafter)とは、文字通り、直ちにという意味であり、すぐそこまで近づいていた聖霊の日のことでした。天が開けるのを見たら、神が御子に何をさせようとしているのか、それをあなたは、知ることになります。

2020年12月29日火曜日

【Daily Open Windows】12月29日

十二月二十九日

キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。(コロサイ三・十一)

愛する友よ、あなたがたが他の何よりも、願い求め、祈るものとは何ですか。私の場合、何にもまして、切に願うもの、心から祈るものとは、主イエス様を日々、新たに力強く捕らえること、キリストを心に捕えることです。ああ、主は私たちのいのち、私たちの救い主であり、とても大きな存在であり、そして、私たちが主なしでは生きられないということは、確かな真実です。それでもなお、この真実と、私が言うキリストに完全に捕らえられるということのあいだには、多少のずれがないでしょうか?主が生きる上での情熱であること、主こそが私たちの生活を支配する力であるということ。言葉では言い表せません・・・・主が私たちを捕らえたこと、これだけ完全に捕らえたこと、もはや主なしでは生きていけないとという意味で、主が私たちのいのちであるというだけではなく、主こそが生きていく情熱であるということです。このことばを書いた男のことを考えてみましょう。どのようにしてか、彼は、まずキリストを見たのであり、そして、長い人生を通じて、キリストのさらに多くの面を見続けて、最後には牢獄に入りました――この長い年月に渡って、彼の上には、数多くの恐ろしい試練と苦しみと逆境と悲しみと失望が投げかけられ、最後の時まで、ありとあらゆる困難を受けましたが、それでもなお、キリストは全てを超えるものでした。キリストは、まっすぐ上へと昇っています。すなわち、『キリストがすべてとなり、すべてのうちにおられるように』なるのです。ことばには限界があって、言いたいことを全て表すことができませんが、あえて言います、ああ、このキリストへの情熱がどこまでも前向きなことはどうでしょう。・・・・

2020年12月28日月曜日

【Daily Open Windows】12月28日

十二月二十八日

私にとっては、生きることはキリストです。(ピリピ一・二十一)

これが、あらゆるものを捕えるキリストの良い知らせです。キリストが人を捕えるとき、あらゆることが起こるし、どんなことも起こり得ます。パウロや他の人たちにも、このようになりました。キリストが、ただ彼らを捕らえたのです。彼らが生きていく上で、キリストの他には何も思わないようになりました。彼らにも、この世では、自分の職業、仕事、与えられた役割があり、それぞれの人生と生活の歩みがあったでしょうが、彼らの考え、願い、関心の全てはただひとつのこと――キリスト――で占められました。彼らの中で、キリストが全ての上に置かれてました。他には言いようがありません。主が彼らの心を捕えたのです。そして、愛する友よ――単純すぎるように聞こえるかもしれませんが――これで全てが説明できます。これでパウロのことも理解できます。・・・・信者たちのことが理解できます。彼らのお互いへの愛も理解できます。これが全ての問題を解決し、あらゆる困難を拭い去りました。ああ、これこそ、私たちに必要なことです!あなたと私がこのようになり、本当の意味でキリストに捕えられさえすれば!うまく伝えにくいのですが、この真理を見た時――この真理を見て、読んで、それについて考えたとき――私は自分の内に何かが入ってきた、言葉では説明できない何かが入り込んできたことを感じました。結局のところ、私たちが直面する十の問題の九までは、私たちが個人的な関心事に影響され、支配され、制御されている――生活の中にキリスト以外の側面がある――という事実から始まっていると考えることができます。キリストが本当に、私たちを捕らえ、心の全てを奪い、支配し、そして――敢えてこの言葉を使いますが――キリストが強迫観念、輝かしい強迫観念にまでなってくれたら!

2020年12月27日日曜日

【Daily Open Windows】12月27日

十二月二十七日

「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(第二コリント四・六)

聖書にある『新しい契約』の原理とは、キリストが、一人ひとりに直接、信者の心の中に現れる神の栄光の知識として、啓示されることにあります。一人一人の信者は、心の中にキリストが啓示されることによってのみ、真のキリスト信仰へと導かれます。こうして、キリストの知識が彼らのものとなり、やみの中から光が輝き出よと、神が命じた時のように、現実に存在するものとなります。しかし、それだけではありません。この輝き出た光は、広がり続けなければなりません。キリストはあまりに壮大で、一度ではその一端しか見ることができません。新約聖書の多くの部分が、キリスト者たちに、彼らがどれだけ広大な世界に入ってきたのか、どのように進むべきかを理解させることに費やされています。・・・・キリストへの信仰が活気に満ち、いつも新鮮で、また、大きな影響力を持ち続けるためには、御霊が心の中に主を現してくださって、キリスト者たちが絶えず、キリストの理解を深めながら生きることが必要です。

2020年12月26日土曜日

【Daily Open Windows】12月26日

十二月二十六日

どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。(第一コリント三・十)

言葉をかえれば、何よりも大切なのは、キリスト教の教義を、知性によって調べ上げて理解することではなく、キリストを生きた、明白なかたちで霊的に捉えることです。これこそ、行うべきことです。あなたは何を建てているのでしょう?主イエス様との生きた、明白な、内的で経験的な関係を通して、心の中の霊的な知識から生まれる建物を作っていますか?あなたは、それによって成長しているのでしょうか?それとも、人に言われたことや、自分の頭で判断し、評価し、分析し、受け入れ、そして、納得したことによって成長しているのですか?建てることの本質とは何でしょう?私たちが携わっている仕事、み言葉にある『それぞれの働き』が指しているものとは、キリストを、私たちの人格を形成する材料、生活の骨組みとして、生き生きと建て上げることです。キリスト教について深く知るということではありません。ここに注意しましょう。すべての問題の核心は、キリスト教やキリスト教義という哲学と、キリストの霊的な知識とのあいだの違いです。

2020年12月25日金曜日

【Daily Open Windows】12月25日

十二月二十五日

神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ一・三)

私たちの霊想の対象とは、『私たちの全てを満たしてくれる方として天におられるイエス・キリスト・・・・』につきます。主イエスが持つ備えは、この地上におられた時、父なる神から与えられたものです。主は、完全に神に依存した状態で生きることを選ばれました。これは、主が望まれたことです。主は、ご自身の中に何かを持つことを、完全に拒絶されました。必要なものは天にだけ求め、すべてを上から、受けられました。復活によって主と結びついているとき、私たちのために天におられる主と私たちを、御霊がひとつにしてくれます。これによって、主イエス様が生きるために用いたあらゆる備えを、私たちも使うことができるのです。この備えとは、隠された備えであって、世には知られていませんでした。主とともにいた人たちも、み力がどこから来ているのか、まったく分かっていませんでした。主とみ父のあいだには隠された関係があり、それが彼らの心を捕らえました。彼らは、主のいのちの背景に何かがあることに気づいたのですが、この不思議な力と知識は、普通の人間ではあり得ないものでした。主には、他の誰も持っていないたくさんの得物があって、思うがままに用いることがでたのです。人間の理解をはるかに超える知識を、主は持っておられました。そして、主が隠された生活、み父にある生活をしていたため、主の持っていた力は、人間には不思議で驚くべきものでした。

2020年12月24日木曜日

【Daily Open Windows】12月24日

十二月二十四日

私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(ガラテヤ一・十一、十二)

私は、パウロはどう思うだろうと考えてしまいます・・・・もし、彼が、今、この世界に帰ってきて、これまで何世紀にも渡って彼の手紙について書かれてきた文献、真理と教義の体系、パウロが啓示を受けて語ったことばの上に人間が作り上げた驚くべき教会組織を見渡したら、パウロはいったい、何を言うでしょうか。彼はあっけにとられて、こう言うのではないかと思います、『なんと、彼らは、私が言ったことばをもとに、これを作りあげたというのか!こんなものが、生み出されたとは!』自分の教えが、どこにあるのか、彼には分からないかもしれません。それが、自分が言ったことを正しく実現していると言えるのか、パウロは疑わしく感じるに違いないと思います。これはただ、仮定の上の質問として挙げているのですが、それでも、じっくり考えるべき問題としておきたいと思います。

2020年12月23日水曜日

【Daily Open Windows】12月23日

十二月二十三日

事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(ヘブル十一・十六)

神の働きの兆候は、いつでも初めから人の目にとまるわけではありませんが、主とともに進んでいれば、その場限りで一時的なものの多くが、後に取り残される――取り残さればならない――ことに、気づくようになります。霊的で天的なものは、より大きな場所を求めて進み続け、そして、神の道具として用いられ、また、働きに召される者たちの生活に欠かせないものへと変わっています。自ずとこのようになり、このようなことが必ず起こります。私たちは、目を覚ますと、自分が新しい世界、新しい位置へと移動したこと、そして、地上に置かれた備えがどれだけ加えられても、必要を満たせないことに気づきます。もっと多くのものが必要とされているだけではなく、全く違う何かが求められています。これは、危険な局面であり、神の究極の目的を示す幻がなければ、安全に切り抜けることはできません。そのためには、霊的なるものに捧げられた心、天的なものを掴む能力が求められます。ひとつの世界が砕け散っても、完全で最終的な説明が必ず与えられます。

2020年12月22日火曜日

【Daily Open Windows】12月22日

十二月二十二日

御子を私のうちに啓示することを(神が)よしとされた。(ガラテヤ一・十六)

人に向かって、もっと完全な啓示があるまで、何かをすることをやめたほうがよい、啓示だけが真の解放を成し遂げてくれるから、などと忠告するのは、無益で危険なことです。・・・・私たちの中に、そのまま当てはまる人は多くはないかもしれませんが、この大きな原則をしっかり、心にとめていただきたいと思います。今のあなたには、ユダヤ教や律法主義などから解放される必要はなくても、大切な原則として、あらゆる意味での増加、進歩、拡大、成長、そして、成熟のためには、心の中に、イエス・キリストの新しい面が途切れることなく現わされていくことが不可欠であり、そして、あなたも私も、もう全て知っている、これ以上、知るべきことは何もないということには、決してならないのです。中には、今年は、これまでの全人生で過ごしてきた年月よりも、主イエスの意味を理解できたと、心から言える人もいるでしょう。あなたは、そう言えるでしょうか?

2020年12月21日月曜日

【Daily Open Windows】12月21日

十二月二十一日

その名は「神のことば」と呼ばれた。(黙示録十九・十三)

全てをつかさどるただひとつの事実が、時代を超えて貫かれています。キリストが、神の全ての考えと方法の中におられるという事実です。これは、全てを包括することばです。あらゆる時代を通し、神のすべての願い、神が取られる全ての方法において、キリストが中心であり、キリストこそすべての上に立つものです。全てのものが主と関わり、全てのものが主とつながっています。キリストは最後であり、それは、キリストが最初であったからです。もし、神のそばに立って、神の目を通して見ることができ、そして、神と同じ考え方に支配されたら、神にはただひとつの願いしかないこと、そして、その願いがあらゆる時代を通して、人、国々、そして、世界に対する主の働きを動かしていることに気付くはずです。そのただひとつの願いが御子、イエス・キリストを中心としているのですから、主のみ言葉と行動に現れた、神の願いと方法の中にキリストを見いだすことこそ、啓示の本質、そして、霊的な啓発の中核であるということになります。

2020年12月20日日曜日

【Daily Open Windows】12月20日

十二月二十日

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。(マタイ 二十八・十八、十九)

ここで、行くというのは誰のことでしょうか?それは、教会のことであり、主の教会の最小限の核となれるのは二人からです。これは、集会をどう作るか、御体の大切さを全ての人に表すにはどうするかという問題です。御霊が動いているとき、そこでは、まさしく、復活し、昇天して、高く上げられたキリストが、御体なる教会を通して、はたらきを続けており、あらゆる制約が取り除かれています。これは驚くべきことです!すべてが真実であるか、あるいは、全く真実ではないかのどちらかです。真実だとしたら、これは驚くべきことです。もし、真実でなければ、私たちは全くの愚か者ということになります!しかし、これは真実であり、そして、ああ、主の教会が、復活したキリストとの生きた一致の中にあることの意味を、いっそう深く学ぶべきです!そのためには、二、三人、または、もっと多くからなる群れが必要であり、地上の肉体には、時間的、空間的な制限があっても、この群れは、聖霊の中で求められるはたらきを続けなければならないのであり、その目的は、普遍的な存在であるキリスト――キリストが神の右にあることの大きな意義――が、現されることです!御霊によってこのことがあなたの心に入り、あなたがその意味を理解してくれるよう、私は神にお願いします。それが、あなたを大きく変えることになるからです!このことを正しく理解するためには、さらに長い道のりを行かなければなりません。しかし、これは真実なのです!

2020年12月19日土曜日

【Daily Open Windows】12月19日

十二月十九日

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ一・三十五)

私の意見に、主の民なら、ほとんどが賛成してくれると思います。すなわち、祈りにとりかかり、そして、自分自身を祈りに捧げることは、もっとも難しくはないにせよ、非常に難しいことのひとつです。祈りのことでいろいろと考えようとすると、たくさんの思いがけない、予測すらしなかった困難が湧き上がり、待ち伏せしていた部隊のように突然、襲い掛かってきます。祈りを妨げるものはいくらでもあります!私は、あなたが知らないことを教えているのではなく、こう言っているのは、このことを明白に、間違いなく、注意深く、心にとめてもらうためであり、また、祈りを阻害するものは、生活の中に普通にあるのではなく、敵が計画し、巧妙に仕掛けた罠であるという事実と向かい合って欲しいからです。この敵は、祈りに対抗するのではなく、主のための何千という仕事を押し付けて、祈りの時間を失わせようとと目論みます。敵は、私たちが忙しく、主に奉仕したり、また、説教をしたり、会合を持ったり、また、生活の中で、主の働きをしていると言いながら、あちこち駆け回っていても気にかけません。どれだけ主のための働きをしても、勝利に満ちた霊的な祈りを土台としていないなら、長い目で見れば、ほとんど、あるいは、まったく意味がなく、いずれは崩れ去ることを、敵はとてもよく知っています。あえて言いますと、あなたが奉仕することを、この敵は嫌がりはしません。主のためにどれだけ奉仕しても、祈りをなおざりにすれば、大した成果はあげられません。敵の巧妙な戦術のひとつは、私たちを主のこと、主のための働き――と自分では思うもの――で、いつも忙しく、手一杯で、息をつく間もないほど働き詰めにして、祈る時間が失われ、ほとんど時間が無くなることはなくても、働きの合い間に限られてしまうように仕向けることにあり、そして、主はこんな言い訳を、絶対に受け入れません、『主よ、私は、あなたのために尽くすことで手いっぱいで、祈っていられません。』主は、このような態度を好まれません。・・・・

2020年12月18日金曜日

【Daily Open Windows】12月18日

十二月十八日

天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。・・・イエスのことを考えなさい。(ヘブル三・一)

この天の召しとは、決して後ろ向きではないし、あいまいでも、受け身でもなく、常に、前向きなものです。あなたの日常生活に、前向きな召しの現われと思えるようなものは、見られないかもしれません。毎朝、働きに出かけて、ほとんど代わり映えのしない毎日を送りながら、同じ仕事、つまらない日常、決まり切った日課を片付ける日々を送っているのかもしれません。その生活とは、来る日も来る日も、何週にも、何カ月にもわたって、同じことの繰り返しです。同じ人たち、同じ環境、同じような行動ばかりです。この日々の生活の中に、格別におもしろい出来事など、滅多に起こりません。このような状況の中では、誰でも、こんなふうに言いたくなるでしょう、『やれやれ、毎日を過ごしているこの世界では、華やかな天からの召しなど、起こりそうもないなあ!私の仕事は単調で、誰でもできるものだ。こんなことを毎日、続けているばかりで、これからも大して、変わりそうにない。』どんな時も、どのような状況でも、天からの召しは前向きなものであることを忘れないでください。

2020年12月17日木曜日

【Daily Open Windows】12月17日

十二月十七日

主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(第二コリント十二・九)

あなたにとって、力とはどのようなものですか?力について、あなたはどのようなものと捉えていますか?あなたは、必死で力を求め、欲していますか?それなら、力は次のようなかたちで得られます。神の立場からすれば、真の力は、十字架の受難の力の他にはありません。十字架に付けられたキリストこそが神の力です。十字架の受難の力とは何でしょう?そう、それは、自分を無にすること、自分を無にしたあなたや私です――実際に、それに耐え忍ぶことは、口で言うほど簡単ではありません!ああ、今も私たちの中には、どれだけの自我が残っていることでしょうか!自分を本当に無にすることを、私たちはとても嫌がって――苦しんで――います!自分の力のなさを感じること――自分には価値がないと認めること――は、本当につらいことです。ああ、力さえあれば!しかし、自分がもっとも空虚で弱かったときこそ、実は、神がもっとも大きな働きをされていた時間だったのであり、また、それによって栄光を受けられた時間であったことを、私たちは、何度も繰り返して、示してきたのではないでしょうか?そう、常にそうだったのです。

2020年12月16日水曜日

【Daily Open Windows】12月16日

十二月十六日

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。(ヨハネ三・三)

私たちが神の子供であり、キリストの苦難から生まれた霊的な子供であることは、非常に綿密に定められたことです。それは、キリスト者の生活に、または、特定の高さや深さに達した者たちに対して、添え物のように付け加えられるものではありません。新生の時から、あなたも私も、誰もが、霊的な理解と知覚と知識という能力を持つべきであり、それは、天の御国の外では誰一人、持っていないものです!このことに気づかず、また、この能力に頼って生きることをしなかったために、キリスト教に起こった悲劇がどれだけあったか、いくらでも語り続けることができます。あえて断言しますが、キリスト者のあいだに起こるもめごとの原因としてもっとも多いのは、霊的な理解、霊的な判断力、霊的な知覚、霊的な知識という基盤に欠けていた、あるいは、その基盤の上に生きることをしなかったことです。キリスト者の世界に、一般的な知識というものはいくらでもあります。聖書の知識、預言者としての知識、その他いろいろあります。それに対して、霊的な知識とは、めったに手に入らないものです。それでいて、霊的な知識とは、私たちの上からの新生をかたち作り、私たちが備え持つ能力となるべきものです。

2020年12月15日火曜日

【Daily Open Windows】12月15日

十二月十五日

堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。(ヘブル五・十四)

人の肉体は生まれつき、五感を備えています。私たちには視覚、聴覚、臭覚、味覚、そして、触覚が備わっています。これが、私たちの肉体が生まれた時から持っている五感です。しかし、私たちの中には、『隠れた心の人』と呼ぶべきものもあって、その内なる人間も、外側の人の五感に当たるものを持っています。そこには、霊的な視覚、霊的な聴覚、霊的な嗅覚や感覚、霊的な味覚、そして、霊的な触覚が備わっており、これらの感覚は、内なる人の生活にとって非常に大切なものです――そう、肉体が持つ感覚よりもずっと大切です。肉体が持つ五つの感覚のどれかひとつでも失った人の辛さを、私たちはよく知っています。その損失は非常に大きなもので、不完全な人生、制限だらけの暮らしを強いられます。しかし、これは内なる人にあっても、まったく同じことです。霊的な視力を持たないことは、悲劇的な損失であり、大きな制限を受けますし、霊的な聴力を失えば、御霊に応える力もなくなります――『耳のある者は御霊が言われることを聞きなさい』と言われるとおりです。もし、聴く能力がまったくなければ、それは絶望的な状況と言えます。感覚――臭覚で言えば、匂いを即座に嗅ぎ分ける能力――が全くなくなれば、どれだけのものが失われるでしょう。

2020年12月14日月曜日

【Daily Open Windows】12月14日

十二月十四日

愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(エペソ四・十五)

この世界にあるものは、新しくなり、形を変えていきますが、神の目的はいつも同じです。神が見せるまぼろしは、見たことのない新しい方向から映されることはあっても、それは、神がはじめから示してきたものです。私たちは、自分を合わせられるでしょうか?『古くなったもの』は、捨て去ればいいのでしょうか?過去にあったことが、正しかったか、間違っていたのかと、問いかけることなしに、私たちは、『前に進み』、そして、『成長』し、『達成』することができるでしょうか?神が見せるまぼろしが人を祈るものへと変えます。聖書に登場する人たちのことを思い返せば、明白なことです。彼らを、取るに足りない些細なことがらから、引き離したものは神が見せるまぼろしでした。祈りを生活に欠かすことができないものに変え、人を本当の苦しみの中で祈るものとするためには、神のまぼろしが必要です。聖書の預言者たちの祈りは、実に広大な範囲に及んでいました!それでも、とてつもなく大きな問題が、何度となく引き起こされました。私たちの神の見方ではなく、私たちの中に神が示されるまぼろしが、いつも躍動し、ものごとの価値を定めるのです。

2020年12月13日日曜日

【Daily Open Windows】12月13日

十二月十三日

あなたがたの心の目がはっきり見えるようになりますように。(エペソ一・十八)

『あなたがたの心の目がはっきり・・・・』見たものとは、すべてを見抜く愛です。天が地から離れているほどに、愛は盲目から遠く離れています。『愛は盲目』ですか?いいえ――真実の愛は違います。事実、真実の愛は全てを見ながらも、すべてを超えるものです。弟子たちに対するキリストの愛は、相手のことを何も知らない盲目的な愛、だまされ、欺かれ、惑わされた愛ではなく、結局は、弟子たちは、主が見込んだような者ではないことを見抜いていました。そう、『イエスはすべての人を知っておられた』(ヨハネ二・二十四)のです。主の愛はすべてを見通しており、弟子たちがいずれ何をするか、始めから正確に語ることができました。それでも、愛は変わることなく続きました。愛とは、すべてを見抜く、大きなものです。

2020年12月12日土曜日

【Daily Open Windows】12月12日

十二月十二日

この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのです。(エペソ二・二十一)

ここにあるのは、引き離すことも、打ち壊すこともできないひとつの塊として、互いと結び合わされている仲間たち、いのちの群れであり、そこには、心の奥深く働く神の愛を見出すことができます。『彼らも一つであるために』とありますが、御子を通して種へと送られた、神のすべてを与える愛によって、ひとつになることを意味します。そう、この神の愛とは、この世の中のあらゆることがらに触れるものであり、今のこの時代、この愛について語るとき、私たちの心に、これほど強い情熱があふれてくるのは何故なのでしょうか?それは、悲しく、つらいことですが、この地上で、自分をキリスト者と呼ぶ者たちのあまりに多くが、自分のことばかりを気にかけ、自分の権利にこだわり、嫉妬深く、人を妬み、分裂しるからです。そして、このような人々が、天的な者として、地上に存在することは、神の願いと相反しています。神の思いは、キリストという種を地上に増やしてゆくことであり、この種とは、すべてを与える愛がかたちを取ったもの、新しく生み出すことを知っている愛、いつもすべてを与え続ける愛です。これこそ、主が求めるものです。それは、心の奥底で働く十字架の現われであり、私たちは、これ以外のものは、何ひとつ欲しくないのではないでしょうか?

2020年12月11日金曜日

【Daily Open Windows】12月11日

十二月十一日

天が支配する。(ダニエル四章二十六節)

天による支配こそが、今日、非常に強く求められています。しかし、それを行うのは聖霊であり、人間が作り上げた教会で私たちが見ているものは、天の支配とは違うという事実を認めなければなりません。神の霊的な民は、これまでよりもいっそう、キリスト教と教会、そして、聖職者というという古い制度から、自分が離れていると感じています。長いあいだ自分の足元を支える土台であったものに、多くの人が深い失望を感じ始め、霊的な真実を求める叫び声があげられています。巧妙で知的な力にあふれた説教はたくさんありますが、それが呼び起こすのは、霊に対する飢えです。多くの活動が行われていても、そこに霊的ないのちはなく、主は、真に天にあるもの性質を私たちに示そうとしているのではないかと思えます。人間が地上に引き降ろし、手に取って、かたちを与えたものは、天にあるものの貧相なまがい物に過ぎないのですが、この広い世界では、この戯画的に表された天国のすがたが受け入れられています。

2020年12月10日木曜日

【Daily Open Windows】12月10日

十二月十日

もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみのです。(第一コリント十二・二十六)

しかし、これは地上のことではありません。私が多くの苦しみを受けても、この世での生活の上のことであれば、あなたはそのことに気づきもせず、影響も受けないかもしれません。しかし、愛するみなさん、一人が霊的に苦しむとき、そのみ体全体が同じ苦しみを受ける、そのような世界もあるのです。ここから分かるのは、このみ体とは天的なものであること、各部分のつながりは自然のものではなく、霊的であること、そして、各部分を結び合わせる御霊の力が、自然の見識の及ばないところで働いているということです。・・・・

2020年12月9日水曜日

【Daily Open Windows】12月9日

十二月九日

「あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい。」とイエスに言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」(マタイ十三・五十一、五十二)

あなたの心は主に向けられていますか?神の御国を求める心を持っていますか?それは本当に、心の大きな部分を占めているでしょうか?主は言われます。あなたに、本当の心があれば、霊的な理解を得ることができると。・・・・主に逆らう気持ちのない、良い心を持った人たちがいます。『私に、主の御言葉は与えられないだろう』と語る人たちではありません。この人々は主に応え、その応えは彼らの心から出てきます。しかし、良い人々の中にも、妨げとなる者もいます。とても良い人たちの中にも、こんなことを言う人がいます、『さて、自分のすべてを主に捧げようという気持ちでいたら、友人たちは私をどう思うだろう?教会の人たちは、私について何を言うだろうか?それから、仕事の上での私の立場も、影響を受けるだろう。よく気を付けなければいけない。他の人たちに対する影響力が損なわれるのは困る。他の人がどう思い、どう言うようになるか、よく考えておかなければならない。そう、委員会も私にそう期待している。自分の全てを主に捧げれば、委員会も腹を立てるだろう。おそらく、辞めるように言ってくる。』私の言いたいことが分かりますか?とても良い人たちではあっても、この世的な考え方の影響を受けているのです。

2020年12月8日火曜日

【Daily Open Windows】12月8日

十二月八日

神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。(ヘブル八・十三)

このヘブル人への手紙は、神が御子、イエス・キリストを、この世界に送った時に行った革命、または、再構築――この世の全てを包み込む、宗教的な革命――について語っています。この革命は、ユダヤ教には拒絶され、また、使徒の時代以来、キリスト教徒の世界からも、ほとんど完全に見過ごされ、見落とされてきました。もし、この手紙の意味が、御霊の力における天からの啓示と受け取られていたら、現代、広く受け入れられているキリスト教の制度は存在できなかったはずです。すなわち、もし、この手紙の意味が、使徒パウロが『ナザレのイエス』とは誰かを知るようになったときのように、御霊の力によって、啓示という働きをもって、心の中に入っていたら、キリスト的ユダヤ教、あるいは、ユダヤ的キリスト教(今のキリスト教世界は大いにこのようなものとなっていますが)などあり得ないのです。パウロ自身の場合がそうでした。ヘブル人への手紙とは、ローマ人とガラテヤ人への手紙の中で繰り広げられた闘いの別の側面に過ぎません。

2020年12月7日月曜日

【Daily Open Windows】12月7日

十二月七日

これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。・・・キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。(ヘブル九・八、二十四)

神との交わりとは、このようなでなければなりません。すなわち、集まりに行くことができても、できなくても、私たちには主がいます。たましいに心地よい音楽が聞こえても、聞こえなくても、主がいます。あなたたちは、そのようなものに左右される世界にはいません、『この山でもなく、エルサレムでもない・・・。』煉瓦と漆喰は、霊と語り合うことはできません。人間のたましいは、神とひとつになった霊という乗り物を通して初めて、神と語り合うことができます。これこそ、主の十字架がなしとげたことです。なぜ、十字架が伝える真実が受け入れられないのか、あなたにもこれで、理解できるはずです。・・・・そして、この十字架を述べ伝え、そして、十字架のために立ち上がろうとするなら、それは歴史を通して継承されてきた伝統を完全に断ち切ることになるため、あなたも宿営の外に追いやられてしまいます。しかし、それ以上に恐ろしいことがあります――すなわち、神聖と映る表現、または、典型的な地上の制度を神が拒絶すると、サタンがそれを拾い上げて、うまく利用し始め、また、神が一時的な目的のために地上にもたらしたものを、サタンは、横から捕らえて、神との本当の交わりの性質を覆い隠すために用いてきたのです。

2020年12月6日日曜日

【Daily Open Windows】12月6日

十二月六日

あなたがたは、手でさわれる山に近づいているのではありません。・・・しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレムに近づいているのです。(ヘブル十二・十八、二十二)

『しかし、私たちは、近づいているのです』とありますが、この『しかし』以降は、初めの『ありません』の部分より、現実から離れていると思いますか?初めのほうは具体的であったが、私たちが近づいているというところは抽象的であると言いたいのでしょうか?それは違います。そこに関わる人たちにとって、その場所は間違いなく現実てあり、そして、愛する友よ、私たちが心を寄せるべき点はまさしくここ、すなわち、私たちが近づいている現実です。この全てをつぶさに調べ、自分なりに分析しようとしても、自分の感覚、心とたましいの感覚の中にいる限り、困惑するだけです。それはあまりに、理想的、空想的、目に見えない空気のようで、また、非現実的なものに見えてしまいます。つまり、生まれたままの者にとって、霊的な人など、現実には存在するはずっはありません。生まれたままの人間、たましいの人にとって、本質的に、霊的な存在である人などあり得ないのです。彼らの反応とはこのようなものです、『ああ、現実的になろう。地上に降りることにしよう。雲の中から出て、足をこの大地にしっかり付けよう。もっと現実的なことがらに心を向けようではないか。』これが、生まれたままの人間の霊的な人間に対する反応です。しかし、霊的な人にとっては、霊的なことがらの方が、この世の手で触れられるものよりも、はるかに現実的なのです。そして、非常に控えめに言っても、私たちが近づいている場所は、かつて民がシナイで到達した場所と、そこに至る道筋は違うものとはいえ、同じくらい現実的です。さて、ここで、動詞の時制に注目して欲しいと思います。この時制を使うことに大切な意味があるからです、『私たちはシオンの山に近づいている。』私たちは、そこに行くことにしたのではなく、これから出かけるのでもなく、いずれシオンに到着するのでもありません。そうではなく、『私たちは今、近づいている』のです。あなたたちは、『シオンのいただきを目指して進んでいる』とこれからも歌うでしょう。その気持ちは分かりますが、私たちは、シオンのいただきを目指して進んでいるのではありません。ここにある神のみ言葉は、『しかし、あなたがたは、シオンの山に近づいている』と、現在時制になっています。つまり、私たちは今、シオンにいることになっているのです。この違いが分かりますか?シナイとシオンの明白な違いがここにあります。しかし、二つは対比させるだけのものではなく、上で書いてきたように、この二つはただ差があるという以上に、ひとつは完結しているのです!

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年12月5日土曜日

【Daily Open Windows】12月5日

十二月五日

私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。(ヘブル十三・十三)

私たちは、運動を組織して、計画を練り、構想を描くことができます。その活動は、どこから見ても新約聖書に即して組み立てられたものでありながら、死んだ、力のないものとなってしまうこともありえるのです。・・・・伝統的な制度――ユダヤ教であれ、キリスト教であれ――と、キリストご自身から、聖霊によって生まれ、いつも生きているもの、聖霊自身がおこなっている本当に生きたものとの違いは明白です。確かに、そこには何らかの代償が伴います。聖書に描かれた人たちに、何を起こったでしょうか。この手紙の最後にこのようにあります、『ですから、イエスも、・・・・門の外で苦しみを受けられました。ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。』宿営とはユダヤ教のことであり、主が門の外で苦しみを受けられたのは、ユダヤ教を完全に否定し、神の御心のすべてを、ご自身の中に実現しようと立ち上がったからです。主は、すべてを、ご自身の人格の中にまとめ上げました、『わたしがそれです。』キリストこそが、神のすべての願いとあり方を総和し、体現された姿であり、それは、ユダヤ教に取って代わるものであるため、主は、ユダヤ教を完全に否定して、門の外で苦しみを受けられたのです。『宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。』

2020年12月4日金曜日

【Daily Open Windows】12月4日

十二月四日

あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。(マタイ五・十四)

主の天的な民の光について語るとき、私たちは再び、とても荘厳、真摯、重厚な特徴と壮大な歴史を持つものにふれているのです。主の民と霊的ないのちの長い歴史は、光と闇の歴史であり、真理と偽り、純粋さと不純物や混ぜ物、明らかさと不透明さ、開かれた心と隠された心の歴史です。・・・・真理がことばや教義の中にあっても、それに対応する真理が、人の心の中、生活の中に存在しなければなりません。光とは、教義から出てくる問題だとしても、心の中にも、それに対応する光の状態がなければなりません。敵は、私たちがひとつ目の種類の光と真理を、どれだけ多く手に入れても、それを妨害しませんが、その真の価値に対しては、偽りと矛盾をことさらに取りたてることによって、破壊しようと試みます。・・・

2020年12月3日木曜日

【Daily Open Windows】12月3日

十二月三日

私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。(黙示録二十一・二十二、二十三)

神の立場から、また、神の御心においては、すべてが天とつながり、天から支配されなければならないことは、明白ではないでしょうか?民に対する主の目的とは、天が満ちること、すなわち、人々を天的な民とし、また、ご自身の天的な豊かさで満たすことです。この書の最後で、新しいエルサレムが現れます――古いエルサレムではなく、新しいエルサレムです――大いなる豊かさの中、天から現れ、神から下って来ます。このエルサレムは、実に途方もない大きさ――都は四角で、その長さと幅は一万二千里あります(黙示録二十一・十六)。ここには、すべてが満ちています。諸国の民は、生きるために必要なものをすべて、ここから受け取るようになります。そこには、いのちの木の実、いのちの水の川が諸国民のために備えられています。その光は、すべての諸国の民のために注がれます。『諸国の民が、都の光によって歩む』(黙示録二十一・二十四)。これが天なる豊かさであり、主はずっと、このために働かれてきたのです。

2020年12月2日水曜日

【Daily Open Windows】12月2日

十二月二日

なぜならば、ふたりまたは三人が、私の名によって<おいて>集まる<私の信奉者としていっしょ に集められる>所では、それがどこであっても彼らのまん中に私がいる<私は有る>からである。(マタイ十八・二十詳訳聖書)

真理そのものであるイエス様は、偽り者であるサタンとは対照的です。しかし、主は人の手による描写、類型、象徴や表面的な形式などとも、対照を成しており、こういったものは、真理でも現実ではなかったし、今でも、そうではないのです。私たちの主が、御体を宮に例えられたとき、聴衆たちが偏見で凝り固まっていたため、その全容を説明することを意図的に避けられたのですが、それでも、ある摂理から別の摂理への転換、そして、宮と礼拝の性質が完全に変わることの大きな意味を、初めて世に知らしめました。ステパノは、この事実を語ったたため、それを聞いた人たちに殺されました。彼が言ったこととは、『いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません』(使徒七・四十八)。パウロがアテネの人々に言ったことも同じです(使徒十七・二十四)。人々が完全に神の思いと一致していた時は、神は絶対にご自身を現さなかったという意味ではありません。神の幕屋と宮は、どちらも、『手で造られた』ものであり、神は、力と栄光のうちにそこに入られましたが、それは、ご自身をその場にゆだねるためではなかったのです。時が来て、神が幕屋と宮から離れると、そこに、神は見られなくなりました。神は、そこでは、一時的にご自身を現されただけであり、神の臨在は限られた条件の下でのみ起こりました。

2020年12月1日火曜日

【Daily Open Windows】12月1日

十二月一日

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。(第一コリント二・十四)

ここで生まれながらの人間と呼ばれる者たちの中には、明らかな罪人がおり、『文明化された』(?)者からは、『暗闇に座っている』(なんと言う誤った比較でしょう!)と呼ばれる異邦人たちがいますが、同時に、ここには、文明の光に照らされ、もっとも見識にあふれた人たちも含まれています。世に広く知られた極めて優秀な頭脳も、この中に入っています。誰よりも学識があり、多くを学んできたおおぜいの人たちもそこにいます。自分から進んで学び、探求して、神学と神智学という領域の奥深くへと引き込まれた多くの者たちもいます。そう、その中には、『教会』と呼ばれる場所で、聖職や役職に就いた者たちも、数多く含まれています。人間的な視点から見れば、これらの者たちの多くは、道徳的にほとんど欠点のない生き方をしています。それでもなお、その世界、その生き方の中では、彼らは、『主にあるいのち』、すなわち、永遠のいのちを知ることはありません。それは、神のいのちであって、人間のいのちではないからです。もう一度、見てください!彼らは、どう描かれているでしょう?『生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。・・・・また、それを悟ることができません。』