2016年10月22日土曜日

心から心への言葉[52]『からだを打ちたたく』ことと、からだを痛めつけること

[52]『からだを打ちたたく』ことと、からだを痛めつけること
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

自分の体を痛めつけるとは、肉体の自然な欲求を否定することを言います。これを行う人は、霊的であるとはみなされません。冬になっても温かいお湯を使わず、冷たい水で顔を洗う兄弟がいました。彼はまた、体を痛めつけるために、冬の間も薄着で通しました。ある姉妹が、私を食事に招いてくれました。彼女が作ってくれた料理は奇妙な味がしました。理由を訊いてみると、その答えはこうでした、『霊的になるためには、自分の体を痛めつける必要があります。よい食事をすれば、肉に楽しみを与えることになります。そんな人は霊的にはなれません。だから、肉が喜びを得ないように、私はおいしい料理を作らないことにしているのです。』確かに、キリスト者は、この世の楽しみや、贅沢な食事を求めるべきではありません。しかし、だからと言って、わざと不味い料理を作ることも間違っています。

では、『自分のからだを打ちたたく』(第1コリント9:27前半)とはどういうことでしょう?これは、肉体から来る欲求が、霊的な生活の妨げとなることを許さないという意味です。この生き方を貫くキリスト者こそ、真に霊的と言えます。『からだを打ちたたく』は、肉体からの自然な欲求はあっても、主とその働きのために必要とあらば、その欲求を投げ出すことをもいとわないということです。自然な欲求をすべて満たすことに執着し続けるなら、そのキリスト者は、体を打ちたたくという霊的な教えを学んでこなかったことになります。

以前、私は一人の兄弟と旅をし、ある家に滞在しました。食卓についている間、彼は箸を休めることなく、皿に盛られた好物を口に運び続けていました。はじめの旅の後、10年以上経って、再び彼と旅することになりました。その時も、この兄弟は同じことをしていました。この人は、自分の体を打ちたたいて従わせるとはどういうことか、明らかに学んでこなかったのです。自分の体を痛めつけるというのは、体からの自然な欲求をも拒絶すること、肉体のあり方をねじ曲げることを言います。このような行動は誤りです。一方で、からだを打ちたたくことを学ばなかった人は、主の御手の内であまり役に立ちません。

あるとき、私は二人の兄弟と主の奉仕のために出かけました。彼らは、とても活発に福音を述べ伝え、また、熱心に人を助けていましたが、一日のある時間が来ると決まって、働くことをやめて、休み始めるのです。昼食の後は、午睡の時間と決めていたからです。その合間も、多くの人が交わりを持ち、助けを求めるために来たのですが、彼らは誰にも会おうとしませんでした。その時間、私も彼らに手助けを求め、無理に頼みさえしたのですが、無駄でした。これでは、自分の肉に合わせ、自己憐憫や自己愛にふけっているだけです。彼らは自分の体を打ちたたくことを学んでいなかったのです。

中国の道教、仏教は体を痛めつけると言う概念を採り入れていますが、この考え方は聖書的ではありません。『からだを打ちたたく』と言ったとき、パウロは体を自分に仕えさせることについて語っていたのです。彼は、体を自分に仕えさせることができ、自分の肉体に支配されることはありません。これは、人の霊的ないのちが、体の欲求の前に決して、くじけないことを意味します。冬に顔を洗うときは、必ず温かいお湯を使うと決めている人は、体を打ちたたいて従わせることを、身をもって学んでいません。私たちは、体の働きを壊さないように、肉体的な必要には注意を払うべきです。しかし、同時に、この体は霊に支配されていなければなりません。

悲しいことに、兄弟たちの中にも、満腹するまで食べずにいられない人がいます。空腹に耐えられないのです。眠りが足りないと生きていけないからと言って、好きなだけ寝ている人もいます。また、清潔さにこだわるあまり、部屋にホコリがあったり、散らかっていることに耐えられない兄弟がいます。そして、また、堅い木の上では眠れないと言って、やわらかい寝台しか使わない人もあります。これらはみな、その兄弟たちが体を打ちたたくことを学んでいないことを示すものです。キリスト者も、心は燃えていても、肉体が弱いうちは、体を打ちたたくことを学んでいません。このような『自分を愛する』人たちは、神の手の中で、ほとんど役に立ちません。体を打ちたたいて従わせるにはどうすればよいのか、神の深いあわれみを受けて、学ぶことができますように。

2016年10月18日火曜日

心から心への言葉[51]キリストの体の部分となるために

[51]キリストの体の部分となるために
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

私たちは十字架がすべての中心であると信じています。しかし、十字架そのものが目標ではありません。十字架は神のきよい目的を理解するための道であり、その目的とはキリストの体です。十字架が生活の中で働くことができれば、自分がキリストの体の一部となったことが分かるでしょう。

多くの信者は、聖さこそが自分の勝利であるかのように追い求めますし、確かにそれは価値あるものです。しかし、神が霊的な経験を与えるのは、私たちがキリストの体の部分となるためであり、霊的な巨人として世界に出てゆくためではないことを心にとめましょう。

私をキリストの体の部分としてくれるものは何でしょう?神が私にキリストの体を見させてくれたら、その啓示は私の生活をどのように変えるでしょう?新しいところに光を当てて、何かを説明してくれるだけでしょうか?いや、この啓示は人生を根底から覆すものでなくてはなりません。それはまさに、私がいかにしてキリストの体の部分とされたかという啓示です!これまでに経験したことや、これから行うことではなく、内なるキリストこそが私を御体の一部としてくださるのです。

私をキリストの体の部分としてくれるものは、自分が持つ能力や行いから出るのではなく、私の中の主のいのちを通して現れます。キリストの体とはキリストだからです。

使徒パウロは、コリント人への第1の手紙の中で説明しました、『ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です(12:12)。』この一続きの言葉の中で、パウロは文法的にも、霊的にも、何ひとつ間違いをおかしていません。文法に関しては、パウロは最後の一文をこう書くべきだったと言う人もいるかもしれません、『キリストと教会もそれと同様です。』しかし、この使徒が言おうとしたことは、かしらはキリストであり、体もまた、キリストであることです。キリストから来るものはすべてが御体を形作るのに対して、キリストから来ていない物は何ひとつこの体に加わることはできず、切り捨てるしかないからです。

従って、これは何を加えるかでなく、何を差し引くかという問題です。すなわち、キリストの信者が、キリストの体に入り、その一部となるために、何を得たり、何かをする必要はありません。信者に必要なのはただ、自分の持てるものをすべて取り除くことです。そして、まさにこの時点で十字架が目の前に現れます。私から、キリストの体の部分となり得ないものを全て取り除くために、神が用いるのはただひとつ、十字架だからです。私自身の中から生まれる性質や気性といったものは、切り捨てる必要があります。中には、とても利口な信者もおり、自分の明晰さを通して、神の言葉を理解し、人に伝えることさえできると信じています。しかし、このような考えは捨て去らなければなりません。何としても、自分の心から抜け出すことが必要です。頭には救いの兜をかぶらなくてはなりません(エペソ6:17前半)。

キリストの体を知り、体験するためには、大きな犠牲が伴うことを理解しなくてはなりません。これはいのちの根源に関わるものです。なぜなら、キリストの体の中では、一部分だけの独立した行動は一切、行うことができないからです。この体の中では、気ままな行動は許されません。人間の体の中も、キリストの霊的な体でも同じことです。手が動けば、腕の筋肉も動かないわけにはいきません。腕が動くとき、指も必ず従います。これが意味するのは、キリストの体においては個人的な言動は全て、消し去るしかないということです。私たちは誰もが、キリストの御体の部分として、協調して動き、お互いに支えあわなければなりません。誰一人、自分だけで存在することはできず、ひとりひとりが兄弟たちと手を取り合って、前に進まなければいけません。

さて、本当にキリストの体を見たなら、他のかしらを持つことはきっぱりと拒絶しなくてはなりません。かしらであるキリストと共にあることはできないからです。ダビデには二人の敵がいました。ゴリアテとサウルです。一人は外にいる敵であり、もう一人は内側にいました。そのどちらも、かしらとしての性格を持っていたことに注意してください(第1サムエル17章4節、10~23節を参照)。頭から生まれる思いや考えと言ったものは、油注がれた者(この場合はダビデ)がイスラエルのかしら、王となって、玉座につく妨げとなります。ある日、ダビデの放った石が額に一撃を与え、ゴリアテを倒しました。まったく同じ日に、(油は注がれても神に拒絶されることになった)サウルの命運も定まりました。私たちは、この世界のあり方を撃ち破る必要はありません。私たちの格闘は、『血肉に対するものではないからです(エペソ6:12前半)。』ゴリアテが倒された時、かしらであったサウルの問題も解決したのです。

本当に十字架を知っていれば、それはあなたをキリストの体の経験へと導くはずです。多くのキリスト者が、主と、十字架の深い意味を分かっているつもりでいます。また、彼らは自分がキリストの体の真実を理解しており、すべてのキリストを信じる兄弟たちと、キリストにおいて一つになっていると主張します。誰もが、古い人を捨て去らなければならないと断言します。それなのに、古い人の性質から実際に離れることができないでいるとは悲劇的なことです。心にとめておいてください。過去も、現在においても、神があなたの人生で起こされたことはみな、キリストの体を経験するための用意だったのです。主が私たちの内になされることはその全てが、道を整えて、キリストの体の部分として役に立つものとするための備えです。