2020年1月31日金曜日

【Daily Open Windows】1月31日

一月三十一日


私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。(エペソ一・十九)

復活された後の主は、よみがえりのいのちの不思議な性質のために、もはや、自然の生命と同じ制限を受けなくなったことを、指摘しておきましょう。もはや主は、時間と空間の支配を受けません。この原理は、その後も生き続け、そして、今も同じように働いています。よみがえりのいのちの価値と活力の中に生きるとき、私たちは、永遠なるものの子供、宇宙の子供です。祈りは、この地上の隅々まで届き、私たちの存在と行動の意義は、全宇宙的で永遠の広がりをもつものであって、そこには制限はありません。ですから、神に愛されている皆さん、生まれたままのいのちはもはや、基準とはなりません。それが、強くても、弱くても、どうでもよいことです。霊的なことがらにおいては、いのちの強さは何の効力も持ちません。知的な強さ、道徳的、社会的、また、肉体的な強さ、どれであっても同じことです。その弱さは、不利な条件とはなりません。

2020年1月30日木曜日

【Daily Open Windows】1月30日

一月三十日

イエスから目を離さないで・・・(ヘブル十二・二)

このヘブル人の手紙には、パウロらしさが強くにじみ出ています――『イエスから目を離さないで。』実際にこの手紙を書いたのが誰であろうと、パウロの影が全体を覆っています。パウロの影響は、いたるところに表れています。そして、間違いなく、この手紙の著者は、他から目を離してイエス様だけを見るようにと召された人でした。さて、このことをしっかりと学んでおくことは、私たちにとっても不可欠です。キリスト者としての生活の中で、このことを何度でも繰り返して行わなければなりません。主イエス様以外の何かに目を向けたら、私たちは自分を抑えることができなくなります。ただし、神の聖徒たちには、全面的な敬意を持ってください。私は、神に仕える者たち全てに疑いの目を向けて、『そう、確かに、彼は完璧ではないですよね』と言い続けなければならないとは言っていません。栄誉を受けるべき人には敬意を払ってください。しかし、どれほど善良な人であろうと、あなたの信仰を人の上に建ててはいけません。

2020年1月29日水曜日

【Daily Open Windows】1月29日

一月二十九日

神は、・・・御子を私のうちに啓示することをよしとされた。(ガラテヤ一・十五、十六)

霊的な識別能力、知覚、理解、また、知性は、どれも、極めて稀にしか見られないものです。その原因は様々です。自分の仕事に心を奪われていて、様々な心配があること、いつも急かされ、走り回っている生活、年代に特有の心から消えない不安などであり、そこに、心を干上がらせる宗教的な働きかけも外から加わって、心の中で神が語るべき場所を、何の力もない、役に立たない状態に貶めてしまいがちです。聖書は、ただひとつの啓示ではなく、啓示を含んでもいること、そして、聖書で語られる深遠な霊的事実を認め、理解することができるのは、その目と耳が既に開かれたものたち、ことばを換えれば、目覚めさせられたものたちに限られることを、おそらく、私たちは忘れてしまったのでしょう。

2020年1月28日火曜日

【Daily Open Windows】1月28日

一月二十八日

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、・・・あなたがたが知ることができますように。(エペソ一・十八)

教会のことで、聖霊に光を当てられるという経験は、それを味わっていないであろう人に、ことばで説明することはとても難しいものです。しかし、それを見た人たちに対しては、説明は必要ありません。生活のあらゆる面で、この経験は大きな違いを生むからです。あなたにも、エペソ書、コロサイ書、ローマ書について語り、キリストの御体としての教会のことを何でも述べ伝えることができるようになります。それを、どれだけ書物で読もうと、そこに本当の姿は現れていないかもしれません。そんなある日、あたかも天が開け、この経験が霊の上に降り注いだかのように、あなたはそれを見たのです。そして、生活のあらゆる面を改めざるを得なくなりました。あなたは、こう言えるようになります、『教会は宗派や国家とは全く違うことが分かった。私は全ての信者がひとつになっていると信じるようになった・・・』そう、まさしくそのとおりです!しかも、それより大きな何かがあります。その何かとは、啓示によってのみ、もたらされるものです。他のものを選べば、限られたところにしか到達できません。しかし、このもっと大きな何かを受け取れば、それがあなたをずっと先まで導いてくれます。それによって、争いと損失にあふれる世界へと引き込まれますが、それは、あなたが完全に新しい世界に出てきたということなのです。それは、神の目的に近づくために必要なことです。

2020年1月27日月曜日

【Daily Open Windows】1月27日

一月二十七日

ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。(ヨハネ九・二十五)

キリスト者としての生活は、どのように始まるのでしょう?それは、見ることによってです。見ることでなければなりません。論理的に考えても、あらゆる意味で、それは見ることから始まるはずです。キリスト者の一生が、初めから終わりまで、ひとつの道の上を、ひとつの目的を目指し、真っ直ぐに進んでいくべきものだからです。この道、この目的とはキリストです。これが、ヨハネ九章の盲目に生まれついた男の問題でした。

2020年1月26日日曜日

【Daily Open Windows】1月26日

一月二十六日

私にとっては、生きることはキリストです。(ピリピ一・二十一)

荒れ野では、生まれたままのいのちの全てがむき出しにされて、私たちは自分の弱さと空虚さを,すなわち、自分は何も持っていないことを知らされます。こうして、私たちはキリストの中に全てを見出し、困難を乗り越えて、手に入れることができるのです。何かを手に入れること、自分が受け継いだものに入ることの奥義とは何でしょうか?それは、全てのものが、『キリストの中』にあり、主こそが全て――私たちの主なるいのちと存在そのもの――となる境地にたどり着くことにあります。肉が切り捨てられ、私たちは、自己の存在におけるもっと深遠な事実として、神が、私たちの内側で、霊によって、あらゆることをしてくださるのでなければ、すべて、何の価値もないことを理解します。主と同じ完全さに至るために、私たちは、自分のための働きを終わらせなければなりません。この後、自分の弱さの上にあぐらをかいて、自分を慰めているだけでよければ、何も苦労もありませんが、ここで主は言われます、『上れ。占領せよ。』あなたが受け継ぐべきものは、この地上でなく、天におられるキリストの中にあり、また、あなたの完全さは、あなた自身の中ではなく、主の中にあります。あなたの空虚さの対極にあるのは、いつも主の完全さです。あなたの弱さの対極には、主の力強さがあります。あなたが受け継いだのは、主ご自身の全てであり、それは、イスラエルにとっての乳と蜜が流れる地に当たるものです。

2020年1月25日土曜日

【Daily Open Windows】1月25日

一月二十五日

こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。(コロサイ三・一)


心が完全に神のみに向けられている人に向かって、『あなたはこれをあきらめなくてはいけないし、あれもあきらめなくてはいけない』などと伝える必要はありません。このような人は主にお任せしておけば、全てはうまくいくでしょう。主だけに向けられた心に出会うことは、それ自体、大きな祝福です。心がこのような状態にあるとき、何ひとつ、思うわずらう必要などありません。あらゆる不安は、心が完全に主に向けられていないところに存在するのです。あの使徒がテサロニケの人たちに書いた二通の手紙は喜びに満ちています。彼は、この人たちのことを思い出すたびに、主に感謝したのです。手紙を書いた使徒は、彼らのことを、どれだけ賞賛し、また、彼らがどれだけ輝いていたかを語っても足りないほどでしたが、それはひとえに、彼らが世に背を向けて、神の方を向き、『生けるまことの神に仕えるようになり、また、御子が天から来られるのを待ち望むようになった』からであり、彼は、この人たちには、何の心配もしていませんでした。コリントの人たちに目を向けると、・・・こちらは、問題だらけでした。そこは、荒れ野の状態に戻っっており、すなわち人々の心は分断されていました。

2020年1月24日金曜日

【Daily Open Windows】1月24日

一月二十四日

しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。(ローマ七・六)

主への奉仕は、世からの分離、この世の王国からの解放から始まりますが、この奉仕とは、徹底して身を捧げるべきものです。ああ、この解放と分離のことで、神が最後に語られたことばがこれであったことは、教会も認めるはずです、『ひづめ一つも残すことはできません』(出エジプト十・二十六)。すなわち、モーセの奉仕は、どこまでも徹底した奉仕で、余すところなく突きつめたため、ひづめ一つも残らなかったのであり、これでこそ神への奉仕といえるのです。『このとおり、民は完全に離れてしまい、世とのつながりは何一つ残っていません・・・。』

2020年1月23日木曜日

【Daily Open Windows】1月23日

一月二十三日


わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネ十・十)

思い出してください、『この方にいのちがあった』(ヨハネ一・四)。主は、他の人間たちと違った性質を持っているのでしょうか?生まれ持った性質において、主は、他の人間たちとは違うこと、そして、その違いは、この方にあるいのちから来ていることは、誰の目にも明らかです。このいのちが与えられるとき、それまでと違った何かを自覚するようになります。主イエス様を見てください!主が、本当に自覚したこととは何だったでしょう?それは、主がいつも話していたことであり、主の場合、それが何であったかは、あまりにも明白です。主は言われました、『わたしと父とは一つです』(ヨハネ十・三十)。『わたしがいつも、その(御父の)みこころにかなうことを行なうからです』(ヨハネ八・二十九)。『わたしが父の御名によって行なうわざ』(ヨハネ十・二十五)。ああ、ヨハネの御福音書にある、『御父』ということば!

2020年1月22日水曜日

【Daily Open Windows】1月22日

一月二十二日


あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る。(イザヤ三十三・十七)

み言葉の中にこの一節があります、『あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る。』このふたつの言葉からなる呼びかけは、まったくそのまま、一言も変えずに、主に対して当てはめることができます。主こそが麗しい王であり、そして、主ご自身が、遠く広がった国でもあります。さて、主イエス様との生きた関係に入るということは、遅かれ早かれ、自分では何も理解できず、一歩も進めない状態に入るということであり、そのとき、私たちはこう言うしかありません、『主よ、あなたは手の届かないお方です!主よ、私に理解することはできません。あなたは、私には大きすぎるお方です!』

2020年1月21日火曜日

【Daily Open Windows】1月21日

一月二十一日


真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。(ヨハネ四・二十三)

イエス様は、女に向かって、言われました、『時が来ます。今がその時です。』それから、主は、その時まで存在していたあらゆる制度体系を退けてしまいます。それは、旧約聖書にのっとったユダヤ教の体系の全てでした。ただひとつの文章で、主は信じられていた全ての摂理を消し去りました。そして、主は、根底から変えられた新しい秩序をもたらしました。ここで主は何を言おうとしていたのでしょう?主が、時が来ようとしており、今がその時であると言われたとき、文字通り、何時何分という定まった時刻を示していたのではないことは明らかです。主が言われたのは、それが新しい日の初まりの時間だったということです。この時をもって、完全に新しい日が始まったのです。この新しい日とは何でしょう?イエス様に、短い文章で説明して欲しいと頼んだなら、主はこう言ったでしょう、『そうだね、私がここにいるということだ。』ここでいう時とは、特定の時間のことではなく、ある『人』のことなのです。新しい摂理とは、イエス・キリストの摂理です。キリストこそが新しい摂理です。『私はここにいる』と、主は言われました。ヨハネの福音書を読み通してみてください。主は、すべての中心にご自身を置かれます。『わたしは道です。わたしは真実です。わたしはいのちです。わたしは羊飼いです。わたしはぶどうの木です。わたしはよみがえりです。』その全てが一人の『人』を指しているのです。これがすべてを支えている事実です。キリスト教とは、キリストです。キリストがキリスト教です。これこそ、全てが始まるところであり、それが、主から離れることは決してありません。キリスト者の生活の成長とは、ひとえに、生活の中におけるイエス・キリストの広がりに他なりません。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年1月20日月曜日

【Daily Open Windows】1月20日

一月二十日


あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。(コロサイ三・三)

この時代、この神の摂理の中に生きるのは途方もなく大きなことです。この時代とは、主が、宇宙全体と全ての被造物に対する権利を持ちながらも、十字架によって、この宝に特別に力を注いでおられ、その宝を被造物から取り出そうとしている今、この時のことです。すなわち、『天の御国(このことばは、天の国々と複数形であるべきです)は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠します。・・・』

2020年1月19日日曜日

【Daily Open Windows】1月19日

一月十九日


わたしは、自分からは何事も行なうことができません。(ヨハネ五・三十)

主の子供たちが学ばなければならない、もっとも難しい課目のひとつは、神のもとへと自分を向かわせることです。神の目的に沿った、正しい物事の中でさえ、アブラハムがイサクを通して学ばなければならなかった課目が必要なのです。その課目とは、神から与えられたもの、約束であれ、所有物であれ、神が賜ったものに執着しようという意思を持つことではなく、信仰によって、心穏やかに、恐れを持たず、主ご自身にすがることです。主から来たものを何か持っているとき、私たちは、主は、もっと大きな目的のためでない限り、一度、与えたものを取りあげはしないことを確信していられます。そして、一方では、主が、これは私たちのものだと定めたら、他の誰もそれを取り上げることはできません。しかし、神の贈り物や目的に関連しては、私たち自身の意思から生じる危険がいろいろとあることも確かです。

2020年1月18日土曜日

【Daily Open Windows】1月18日

一月十八日


今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。(ヨハネ十七・五)

主イエス様の心に、ご自身がかつて持っていた栄光に対する大きな切望と祈りがいつもあったことは、明らかだと思います。この節は、ヨハネが、このことにはっきりと触れている箇所ではないでしょうか。福音書の第十七章に、ヨハネは主イエス様のこの大いなる祈りを書き留めています、『父よ、世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください』(五節)。このことばが窓を開き、主イエス様が、永遠の昔から持っていたご自身の栄光を知っていたことを教えてくれます。主の心には、いつもこの事実があり、主はこのことをご存知でした――すばらしい考えです!――そして、かつて持っていた栄光をいつも心に抱いていたことが、主がその栄光に戻り、また、その栄光が主に戻ってくる日、その遠い日に向かって、主を祈らせていたのです。『父よ、世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。』主の姿が変えられた変容の山は、主の心からの祈りと叫びと願いへの答え――少なくともその答えに触れるもの――となりました。かすかに触れただけでしたが、それは、主にとっては大きなこと、あなたがたのキリスト者としての生活の中でもほとんど知らないことのひとつとなりました。主が何かをされ――それが、すぐに消えて行っても――、そのことによって、あなたは、自分の声が聞かれたことを知ります。あなたは、御父の心には、今の欠乏と状況に対するあわれみがあることに気づくのです。その何かは、一日だけ、一晩、一時間、あるいは、ほんのしばらく続いて、すぐに消えてしまうかもしれません。それは、まだ道の終わりに達していないから、永遠の栄光が、まだ、来ていないからです。しかし、道の途中でこうして主が触れてくださることが、私たちを先へと推し進めてくれます。私たちは、主が聞いてくださったことを知っています。主がこの内なる叫びと願いに心を止められたこと、そして、ご自身のあわれみを示すしるしをくださったことも知っています。それはまるで――主イエス様にとっての――主ご自身の叫びへの答えのようでした。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年1月17日金曜日

【Daily Open Windows】1月17日

一月十七日


こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。(第1コリント十三・十三)

すべての贈り物を受け取りながら、なおも、まったく未熟なままでいることもありえます。霊的な広がりとは、たくさんの知識を持つことによって起こるのではなく、また、成長への道とは、信仰の力が外へと現れていくことではなく、むしろ、内側の忍耐によるところが大きいのです。神が盛んになっていく道を知りたいですか?それは、愛によるのです。主が必要としているのは、主ご自身に対して開かれた、純粋な精神であり、すべての聖徒に向けられた愛です。お互いに対する混じりけのない愛――主にある愛があるところであれば、主は、その満ち満ちた姿へと導いてくれます。・・・エペソ人への手紙では、キリストのみ体なる教会に関するもっとも深遠な教えが語られ、その中に、天の真実が余すところなく明らかにされていますが、この手紙は、初めから終わりまで、愛の金の糸が途切れることなくつながっています。この手紙に込められたものが何かを考えると、これは大きな意味のあることです。第一コリント十三章は、偉大なる愛の書であり、全ての『贈り物』のかたわらに、置かれています。愛こそは、まさしく人を霊的にする、本物の霊性であるといえます。愛とはあらゆる贈り物の中で、もっとも困難で、もっとも偉大なものです。『あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです』(第二コリント六・十二)。あなたの心はあまりに狭く、縛られていて、閉じた垣根のように、押し込められたままで、息が詰まりそうです!『私たちの心は広く開かれています。あなたがたは、私たちの中で制約を受けてはいません。』

2020年1月16日木曜日

【Daily Open Windows】1月16日

一月十六日


勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。(黙示録三・二十一)

よみがえられたキリストとひとつになっていれば、私たちは誰もが、よみがえりのいのちを持っています。しかし、それ以上のものがあります。すなわち、そこには、よみがえりの力があり、その力がいずれは、私たちを(その力が完遂されれば)主の御座へと運んでくれます。すべての者がその御座に到達するわけではありません。それは、『勝利を得る者』だけに起こることです。カレブはパウロのように、また、パウロはカレブのように、主の人々が望んだ安易な道の前に立ちはだかったのです。ほとんどの者たちは、自分たちが受け継いだものを見て、これほどたくさんのものを持っていることに満足し、前に進むことをやめて、その場にとどまることを選びました。その行程は途中で終わり、霊的な進歩はそこで押しとどめられて、神が意図し、願ったものよりもずっと小さな何かを受け入れたのです。大多数の者がその道を選んだ中、カレブは、決して満足せず、他の者たちの思いの前に立ちはだかりました。カレブはいつもそのように、神の大きな御心を表していないものであれば、相手のほうが多くても、臆することなく彼らに立ち向かってきました。・・・

2020年1月15日水曜日

【Daily Open Windows】1月15日

一月十五日


肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているのです。(ガラテヤ五・十七)

この二つは、長いあいだ、対立し、互いに反目してきました。今まで、ずっとそうだったのです。御霊を、新たな気持ちで経験した後で、あなたが最初に気付くことは、自分の中に、古い肉の生活との新しい対立が生まれていることです。このようにからだの内側で肉が沸き上がるのは、悪魔が引き起こしていることであり、それは、あなたが主から受け継いだものが、悪魔の目にとまるからです。こうなるのは、御霊が入る時、主から受け継いだものが、外からも見えるようになるためです。主は、人が受け継ぐべき資産をもたらすようになりました。ですから、御霊を経験したすぐその後で、自分を主張し続ける肉との対立と直面し、それが、道の真ん中をふさいで、あなたが受けとったものに近づくことを妨げていても、驚かないでください。

2020年1月14日火曜日

【Daily Open Windows】1月14日

一月十四日


私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ四・十三)

キリストの霊性は、主が、日常生活の現実から切り離されていたことにあるのではありません。実際には、主は、日々の生活の現実的な問題と向かい合うために、天にあった力と備えを持ち込んでいたのです。あなたも、家の扉や衣服、床を洗ったり、また、毎日の家事を行いながらも、霊的であり続けることはできます。人は、霊的な働きと、通常の働き、例えば、家事などは、まったく別々のものであると考えているようです。このような人は、霊的な働きと、他の働きを分けて語ります。さて、あなたがたは、何ごとであれ、それを行うためにふさわしいものであれば、天にある備えを用いることができますし、そうすること自体が証しともなります。

2020年1月13日月曜日

【Daily Open Windows】1月13日

一月十三日

キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。(ローマ八・二)

私たちはよく、自然をつかさどる原理について語ります。自然の原理とは、なんでしょう?例として、栄養に関する原理を取りあげてみます。この原理を尊重して、忠実に従った生活をすれば、すなわち、適切な時間に、正確に必要なだけの栄養が身体に与えられれば、栄養の原理がこれをつかさどり、そして、非常に自然なかたちで、身体の発達、成長が行われて、この原理自体が身体全体に現れます。これは、そこに働いている自然の原理が行っていることです。あなたは、座り込んでこの原理のことを考えたりしないし、調べたり、思い悩んだりもしません。あなたがすることは、ただ自分で食物を摂って、後はこの原理に任せるだけです。この原理に従わなければ、その結果はすぐに現れますが、栄養の原理が示すとおり、正しく行動していれば、この原理のことを、朝から晩まで考え続ける必要などなく、ただ用意した食事を摂って、なすべき仕事を続けてゆけばいいことになります。こうするだけで、あなたは働き、生き続けることができます。必要な栄養を摂ったからです。

2020年1月12日日曜日

【Daily Open Windows】1月12日

一月十二日


わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。(ヨハネ十四・十九)

今日、神との関わりは、多くの方面に広がり、広い範囲にわたっていますが、生きた関わりではなくなっています。そこには、神への感謝の言葉があり、形式に沿った神への礼拝があり、神と結びついた儀式はあります。そう、程度の差はあれ、何らかの神への献身、神の崇拝、神への感謝のことば、おそらく、神への願いは認められますが、そのどれを取っても神との生きた関わりには届かないものです。それでも、主が生ける神であるという事実は、主と関わりを持つ者たちが、そのまま生き続けることを意味しています。主はこう言われます、『わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです』と。神と生きた関わりを持つことは誰にでも許されています。・・・

2020年1月11日土曜日

【Daily Open Windows】1月11日

一月十一日


私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。(ガラテヤ六・十四)

本当に十字架に付けられた人々は、もはや、世の危険とは無縁です。この世が力を持つのは、十字架がその働きを成し遂げるまでのことです。世は、男であれ、女であれ、十字架につけられた者に対して、また、十字架につけられた信者の群れに対して、何をすることもできません。十字架は、世に対する最大の防御です。世を自分の内に入れたくなければ、十字架をあるべき場所に立ててください。十字架が、完全なすがたで、あるべきところに置かれていれば、他のすべてのものが、静かに従います。十字架とは、この世に対する最大の防御となります。十字架とは、悪の力に対する最大の防御です。十字架はすべてのものを安全に守り、すべてを、主のために安全に保ちます。

2020年1月10日金曜日

【Daily Open Windows】1月10日

一月十日


万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。(コロサイ一・十六)

神のもとにある全てにつながる鍵は、主のいのちです。・・・キリストの権勢、崇高さ、力、能力、また、かしらという地位が持つすべては、神なるいのちの特権から生じていることに、気づかなければなりません。すなわち、主は神の御子であり、神なるいのちを与えられています。主には、神から与えられた権利があり、信じる者であれば誰にでも、同じいのちを与えることが許されています。だからこそ主は、かしらなのです。要職を設けて、人員を配置し、その中の誰かを法王に任命することもできますし、その人たちも立派な主張をするかもしれませんが、そこにどれほどの価値があるでしょうか?あなたが死と向かい合っている時、彼らが何をしてくれるでしょう?しかし、死に打ち勝ついのちの力を持つお方、この世にあって常にへりくだっておられ、かしらであり、主人であり、主であるお方を迎え入れてください。死を目の前にして、世界に知られた最高の医師たちを何人、集めても、死が動き出すとき、彼らには何もできません。しかし、そこに、小さな、取るに足りない人、誰にも知られていないし、この世界で役に立つ能力は何ひとつ持たず、何の訓練も受けていなくても、死に打ち勝ついのちの力を授けられている人が入るとすれば、他の全てのものは、その存在の下に退けられて、何の意味もなくなり、その人こそが状況を支配する主となります。

2020年1月9日木曜日

【Daily Open Windows】1月9日

一月九日


あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。(ヨハネ三・三十)

霊的な成長とは何でしょう?霊的な成熟とは何でしょう?主にあって進むとはどういうことでしょうか?このことで、私たちの考え方は混乱してしまったのではないでしょうか。多くの人たちは、霊的な成長とは、キリスト教の教理に関する知識がより完全なものとなり、霊的な真理をより大きく把握し、神に関わる知識がいっそう拡大していくことであると考えており、このようなことを、成長、進歩、そして、霊的な成熟のしるしとして数え上げてゆきます。愛する皆さん、こういったことは決して、成長ではありません。

2020年1月8日水曜日

【Daily Open Windows】1月8日

一月八日


キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(第二コリント5:15)

私たちは、御霊に従うことによって、はじめてキリストを知ることができます。こうして、私たちが主について知りえること、あるいは、主とつながりを持てることの全てが御霊の中だけに存在できるという意味で、この摂理において、私たちにとってのキリストが真に霊的なものとなります。『ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません』(第二コリント5:16)。主を知ることは、御霊を通して行われます。私たちが用いる道具は霊的なものです。私たちの戦いの武器とは霊的なものです。すべては、上から私たちのもとに来なければなりません。敵が大きな努力を払ってきたことで、この摂理の中でも何度も功を奏してきたのは、神のものをこの世に属する何か、地に付属する何ごとかにまで引き下ろして、地上のものにしてしまうことでした。・・・

2020年1月7日火曜日

【Daily Open Windows】1月7日

一月七日


あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。(ルカ十四章三十三節)

何ごとも、一度、完全に明け渡された上で、そこに十字架の印を押されてはじめて、本当の意味で、完成したということができます。あなたたちは、この印を受けていますか?それがすでに、神からあなたたちに与えられていても、私たち自身の中の何かが、神からいただいたものの姿を変えてしまうという危険が常に存在しています。私たちは、その神から与えられたものの中に、自分の思いを入り込ませ、それを自分のものに変えてしまいます。この自我!この肉!ああ、そうです、神が私たちに何かの役割を与えると、私たちはその役割にしがみついて、誰にも渡すまいとし、他の誰かが難癖をつけて、その役割を奪うのではないか、そう、私たちの働きに口出ししてくるのではないかと恐れるようになります。肉とは、そのようなかたちで湧き上がりますし、他にも、いろいろな方向へ、いろいろな関わりの中へと出てくるものです。神がまず、何かをなさり、私たちはその中に入るのです。私たちが、神の為される働きに加わるのです。

2020年1月6日月曜日

【Daily Open Windows】1月6日

一月六日


私たちには、キリストの心があるのです。(第一コリント二・十六)

生まれたままの心は、私たちが走る競争をさえぎる大きな障害物であり、ひっきりなしに、その固定観念、議論、自分だけの関心や手段というかたちをとって現れます。コリント人たちが教会へと導かれたとき、自分たちの明らかな罪は捨て去ったのですが、世のものであって、神の霊から来るものではない、古い生まれたままの考え方と論拠を、この新しい世界にそのまま持ち込んでしまいました。しかし、この使徒は、彼らを、『ところが、私たちには、キリストの心があるのです』(第一コリント2:16)ととがめ、生まれたままの心と霊的な心のあいだに、十字架をしっかりと立てて、この二つを隔てることを強く求めました。

2020年1月5日日曜日

【Daily Open Windows】1月5日

一月五日


のがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。(イザヤ37:31)

主にとって、絶対に必要なのは、流されることのないもの、誰にも取り去られないもの、決して揺るがされないもの、そして、何よりも、根から抜き去られることがない何かです。それが、主にとっての『のがれて残った者』です。それが、主ご自身の栄光のためになくてはならないものであり、だからこそ、主は、『のがれて残った者』が、同じ仲間どおし、一つところに集まって、下に根を張るように、あらゆる手段をとられます。もちろん、上に実を結ぶためです。私たちは、ものごとの上向きの面について、すなわち、天的な生活、天から来たものに囲まれた暮らし、私たちの戦いやはたらき――主と結びついた私たちの生活が結ぶ実ついて、多く語ります。しかし、これは、下に根を張っていて、初めて可能なものです。これが現実となるためには、私たちは、決して揺り動かされない場所、すなわち、根が堅く張っていて、何があっても引き倒されるないところに至らなければなりません。そして、これが、今、この時代に、ご自身を信じる霊的な民に対して、主がなさっていることの大部分を説明していると、私は思っています。

2020年1月4日土曜日

【Daily Open Windows】1月4日

一月四日


この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。(ヘブル十二・二十七)

エルサレムの崩壊によって――この(ヘブル人への)手紙が指摘した崩壊のことです――ユダヤ民族から見れば、まさしく、この地全体が揺り動かされました。全世界の中心点としての神の宮は、地にまで崩れ落ちました。祭司という特権階級のもとにまとまっていた聖職者制度も消え去りました。宮での務めは終わり、国は、もはや、ひとつに結束した人々の集団ではなくなりました。こういったものは、いつ取り除かれてもよかったのです。それが、どれだけ長く存在してきたでしょう!どれほど大きな力にも、持ちこたえてきました!自分の存在が終わることなど絶対にありえないという強い確信を、彼らは持っていたことでしょう!自分たちのすべてが神と固く結びついているのだから、破壊されることも、この世から消えることも絶対にありえないと、彼らは信じきっていたことでしょう!すべてが失われる最後の瞬間まで、彼らは激しく戦い、しがみついていたはずです!しかし、それもまったく無駄でした。神が、もはや、それまでの枠組みや地上の制度を欲してはいなかったのは、こういったものが、あまりに多くの場所、活力と資材を占めてきたため、本当に霊的な状態が実現する妨げとなっていたからです。その中で、霊的な価値が占める割合は、結局、あまりに小さく、また、霊的な関心は、宗教的な機構と伝統という入り組んだ迷路のずっと奥の方に置かれてしまっていたため、そこには何の価値もなくなっていました。目的があっても、そこに達する手段は近くにはなかった、すなわち、手段と目的のあいだの開きが、あまりに大きすぎたのです。神が本当に求めるものに、直接、触れることはなく、そのあいだにあるものが、あまりに多すぎました。それは、もはや捨て去るしかなく、そのままにしておくことをやめて、神ご自身がそれを払いのけたのです。

2020年1月3日金曜日

【Daily Open Windows】1月3日

一月三日


私は、キリストとその復活の力を知りたいのです。(ピリピ三・十)

復活が常に意味しているのは、われわれはこの世の外にいるということです。復活の後、主イエスは、一度もこの世界に現われていません。復活の後、主は御自身の姿を、この世の誰に向かっても現されていません。主の復活とは、主がこの世を去り、世の外側に離れて立たれたことを意味しており、そして、世から離れていることが、世を支配する主の御力となりました。この世界で何ごとがあっても、主が助けることができるのは、主がもはや、その出来事の内側にはいないからです。復活のいのちが意味するのは、私たちが霊的にこの世界の外側にいること、世を超えた場所に立っていることです。・・・

2020年1月2日木曜日

【Daily Open Windows】1月2日

一月二日


だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント五・十七)

このみ言葉は、キリストが既にこの古い創造の外側に取り出され、天で神の右側につかれていることを明白に語ってくれます。また一方で、主がここにおられること、そして、私たちが主と霊的にひとつになっていることは、私たちもまた、全ての霊的な計画と備えのために、キリストにある天的な性質の中にいることを意味していると、このみ言葉は教えています。・・・主イエス様、そして、私たちが導き入れられたこの新しい創造の大きな世界の偉大なる真実について、本物の霊的で生きた理解を、早く与えてくださるように主にお願いし、また、理解したことを日々の暮らしにあてはめ、実践し、日々、現実の中で用いるようにしましょう。

2020年1月1日水曜日

【Daily Open Windows】1月1日

一月一日


神のご計画に従って召された人々(ローマ八・二十八)

神は、信じるものたちのために、実に大きな計画をお持ちであり、その計画は、彼らの永遠の召し、そして、彼らのすばらしい贖いによって実現するものです。実に大きな計画であり、ほとんどのキリスト者にも、はかりしることすらできないほど大きなものです。おそらく、過半数のキリスト者は、自分が救われたことを知っていて、自分が救われたことが嬉しくてたまらず、救われていることを喜んでいるだけで、そこから先に進もうとは、ほとんど思ってもいないといっても、あながち間違いではないでしょう。永遠からなる神の本当に大きな計画を理解し、その中にいる人たち、すなわち、『神のご計画に従って召された人々』(ローマ8:28)は、比較的少ないのです。そのご計画とは何なのかを語り、説明するのは、今の私たちに課せられていることではありません。事実を述べるだけで十分です。私たちは実に大きな計画をもって召されたのですが、それは、ただエジプトから、また、悪魔の爪から抜け出すことではなく、そこには、ある目的、ある壮大な目的があり、その目的とはまさしく、神の御子であるイエス・キリストのどこまでも満ち満ちたさま、そして、永遠のはたらきとともにあるものです。私たちがキリストにあって、召されているのは、実に大きなことなのですが、現実には、どれだけのキリスト者が本当にこの召しの中にいるのでしょう。そして、自分がその召しの中にいることを知っているとして、どれだけのものがその意義、すなわち、主にあるこのいのちは、尽きることのないいのちであり、そこにはどんな時も、新しい展望が開けているという大きな意義を味わっているでしょうか?