2020年5月31日日曜日

【Daily Open Windows】5月31日

五月三十一日

あなたは、あなたの生まれ故郷・・・を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを祝福しよう。(創世記十二・一、二)

神からの呼びかけには、恵みと真実の両方が含まれています。真実とは、人を切り離す道具です。『あなたは、出て行きなさい。』恵みは約束です。『わたしはあなたを祝福し、あなたの名は祝福となる。』人は恵みを、すなわち、神が『わたしが祝福する』と言われるものをつかみながら、そこに伴う要求――『あなたは、出て行きなさい』という要求には従わないことがよくあります。さて、これは私たちの救いの初歩にだけ当てはまる問題ではなく、キリスト者の生活のさまざまな局面で、新たな啓示と呼びかけがあったときにも起こることです。主の真実と奉仕、証しと証言、明け渡しと経験を、より完全に、より高く受け入れるようにという神からの召しは、主が恵みによって導こうとする者たちのもとに、疑いなく、そのたびごとに異なるかたちをとって、天からもたらされます。この召しには定まった時があり、明白で、困難なものです。語り手は、どこの何者ともわからない人、よい評判もなく、認められているわけでもなく、この世的な名声も名誉もない人かもしれません。その人は、聞くものの心に、神からの伝言の大切なさわりの部分だけを残すと、すぐに去っていきます。その後、それを受けた者たちの生活は、前と同じままではいることはできません。

2020年5月30日土曜日

【Daily Open Windows】5月30日

五月三十日

だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。これらは、(ゼルバベルの手にある下げ振りを見て)喜ぼう。(ゼカリヤ四・十)

神の栄光の証しに組み入れられるということは、決して小さなことではありません。人からさげすまれることに、何か大切な意味があったかのように考えて、小さなことを行うことに誇りを持つべきでありません。しかし、同時に、神がご自身の栄光を示すために民を召したときはいつでも、その中に栄光のかけらもない者ばかりを選ばれたことにも気がつくはずです。

2020年5月29日金曜日

【Daily Open Windows】5月29日

五月二十九日

約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。(ヘブル十・二十三)

信仰を持つとき、二つのうちのどちらが私たちの特徴となるかが決められることになります。これは、本当に大切な点です。二つの生き方のひとつは、次のようなものです。すなわち、私たちはひどく麻痺した状態で生きるようになり、混乱、困惑、理解する能力のなさを通して、石のように硬直させられてしまい、もつれたものを解きほぐすこと、大切なものを選別すること、ものごとを真直ぐに、はっきりと見つめること、そして、目の前で起こっていることの意味をすることができなくなります。これがもたらすのは、完全な麻痺であり、私たちは腰に手を当て、無力さに打ちひしがれて、立ち尽くすしかありません。前向きな信仰がなくなると、このようなことが起こります。

2020年5月28日木曜日

【Daily Open Windows】5月28日


五月二十八日

いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。(使徒行伝一・七)

生活の環境や状態が変わって、今、置かれている立場と全く違うところに移されると、そのとき、私たちは、これは、何かが起こって、神の目的が、達成されようとしているのだと考えがちです。それに対して、主は、こう言うでしょう、『違う。大切なのは、環境ではないし、条件でもなく、あなたなのだ。』神学を修め、聖職者の位(くらい)に就いて、聖務の日課を与えられることに意味があると考える人もいますが、このような人たちは、公的な立場に着いて、そこで承認されれば、そこから人生の目的が果たされてゆくのだと思い込んでいます。そのために、彼らは、聖職者の地位を与えられ、職務に就けられるのを待っています。主は言われます、『いや、大切なのは聖務ではない、聖職者として認められることでもないし、地位に就けられることでもない。鍵となるのはあなただ』と。そして、それとは別に、多くの者は、組織、社会、責務、自分が関わっている教会のつながりに目を向けており、いつか、新しい日が来て、新しい人生が始まること、そして、何であれ、自分が属する団体が行動を起こして、そこで、自身の人生を捧げる働きが始まることを期待しています。これに対して、主は言われます、『大切なのは、教会、任務、組織、社会、団体ではなく、あなたなのだ。』使徒行伝の第一章に出てくる男たちは、自分の外で何かが始まるのを待っていました。彼らは、それを国の再興、全国家的な――おそらくは世界的な――運動となるべき秩序の構築と呼びました。すなわち、自分の外側に新しい秩序が打ち建てられ、その中に自分の居場所を見つけて、おそらくは、そこに自分が配置され、役割を与えられ、あるいは、職位を受けることを彼らは願ったのです。そして、主は、このような考え方をすべてをはじき返して、言われました、『いや、問題はそのようなことではなく、あなたたちだ』と。実際に、その通りであったことが明らかにされ、そのように行われてきました。私たちは一人一人が、神の目的にある全てのことに通じる鍵となれるのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年5月27日水曜日

【Daily Open Windows】5月27日

五月二十七日

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。(黙示録十二・十一)

今日、主の民でありながら、サタンの下に支配されている人たちが数多くいます。彼らを操って、人を告発するように仕向け、人を裁き、非難したい気持ちを起こさせ、彼らの心から平安と確信、安らぎ、希望を奪い去るので、このような人々を見ると、自分自身の欠点、罪にまみれた性質について、絶えまなく語っていることに気づきます。彼らは、自分から離れられず、自分ではそうなりたくない姿、変わりたくても変われない自分の周りを回っています。このような人たちにとって、サタンからの解放とは、彼らのことで御父は御子に満足されていることを日々、新たに思い、また、御父の前に受け入れられている自分の居場所を見出すことにあります。これが、解放の道、敵対者を追放する道です。これが、告発者である敵を打ち負かす道です。そう、流された血潮という土台は、この欠けたところなく、全面的で、全てに渡る勝利を得るために十分なものです。『兄弟たちは、小羊の血のゆえに彼に打ち勝った』のであり、そして、流された主の血潮が持つ意味の中でも、あらゆる意味で最上、かつ、最高のものとは、その汚されることのない罪のなさという主イエス様の性質です。このようなお方が、それまでいたことはなかったのです。

2020年5月26日火曜日

【Daily Open Windows】5月26日

五月二十六日

彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる。――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。(マラキ三・十七)

もし、私たちが、自分自身を徹底的に神に捧げてきて、また、主の完全な御心だけを求めて、自分の思いなど顧みることなく、また、主の恵みによって、主が導き、示される道を、どれだけの犠牲を払っても進むという真摯な気持ちを持ち続けてきたとしたら、そして、本当にこのとおりに生きてきたのに、そこに生じた状況が怖ろしいほど複雑に見えて、神の真実さと相反するようにしか思えなかったら、私はそのことを、どうに考えたらいいのでしょうか?私たちは、どのような結論を導こうとするのでしょうか?次の二つの結論のどちらかしかありません――つまり、神は私たちの勤めも献身もまったく心に留めず、困難に巻き込まれても意に介さない、あるいは、この全てが主の目の下にあるということです。このふたつは、両極端な結論です。私たちには、神を信じるか、あるいは、まったく神を信じないか、そのどちらかしかありません。この全ては御言葉の中に示されており、そのすべてが、次の事実につながっていきます。すなわち、神による予見と、神による世界の統治に関わる人たちは、必ずこのような状況に陥ること、しかし、最後には、その統治が、主にとって何よりも大切な何かと結びついていると示されていること、そして、『万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる』(マラキ三・十七)ことです。

2020年5月25日月曜日

【Daily Open Windows】5月25日

五月二十五日

主にあって、その大能の力によって強められなさい。(エペソ六・十)

主は、私たちをガラス張りの家に入れて、主の木となるべく成長させてはくれません。主は、私たちを嵐から、逆境から守ってはくれず、むしろ、私たちを逆境と試みという強風と照りつける太陽のもとにさらします。主は、私たちの中で働いておられますが、それは、主ご自身の性質――永遠であり、忍耐強く、いつまでも変わらない神としての性質――にしたがって行われ、その性質は決して、簡単に取り去られるものではありません。主はあなたの中に、大きな何かを注ぎ入れています。ああ、今日、私たちが恐れているのは、キリスト者になりたいという願いが、多くの場合、気軽で楽しい時を過ごしたい、幸福な人生を享受したいという観点から生まれることです。確かに、天から与えられるたくさんの喜びのことでは神に感謝すべきです。しかし、神の家、神の都について言えることは、主が、第一に民に向けて働きかけ、また、民の中へ注ぎ込もうと求めているのは、大きく積み重なる信仰、堅実で忍耐強い信仰心であること、そして、それをご自身の性質に即して行われることです。積み重なる信仰心!ああ、世話を焼いたり、大切に育てたり、いつまでも面倒を見続ける必要のない数多くのキリスト者たち。彼らは、自分を前に進め、あるいは、立ち上るように勧められています。男も女もレバノンの杉のように、削り出した砥石のように――重みがあり、責任を持ち、そして、重責を負わされています――そして、そのすべてのために強さが求められています。

2020年5月24日日曜日

【Daily Open Windows】5月24日

五月二十四日

神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。(ヘブル一・一、二)

古いイスラエルの悲劇とは何だったのでしょう?もちろん、古代イスラエルの悲劇とは、最終的には、神の務めから外されたことでした。彼らはいわば、任を解かれたのです、『神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられる。』このとおりになりました!そして、その状態が今も続いています。取り去られた天の御国――イスラエルから取り去られ、他の国民たちに!イスラエルの悲劇とは、彼らが、神の摂理から、あるいは、神の天啓的な活動から、解任されてしまったことです。それが、二千年間続いてきたのです。このあと何年、それが続くのか、私たちは知らないし、おそらく、そう長くはないのでしょうが、そのことは、ひとまず、置いておきましょう。

2020年5月23日土曜日

【Daily Open Windows】5月23日

五月二十三日

人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。(マタイ二十四・四、五)

気が付けば長くなってしまったこの人生と聖職の中で、私が繰り返して見てきたのは、愛する神の人々が、御霊による解放の中で、大きな約束を与えられて、主とともに広い世界へ出て行きながら、何らかの『主義』に捕らえられてしまう姿です。彼らは、その『主義』の教えから自分で抜け出すことができないのです。何度も繰り返して、私はそれを見てきました!悲劇です。・・・ここ数年のあいだに、アメリカとヨーロッパの全域を覆うように広がってきた大きな主義があります。私があえて、取り上げたい主義とは、はっきり、名前をあげますが、万人救済主義というものです。この『主義』は、たくさんの人たち心を捕らえてきました!そして、ひとたび、この主義に捉えられてしまったら、もう、その人と行動を共にすることは二度とできません。それにしても、私が以前、よく知っていた彼らは、ああ、有望な人たちでした・・・とても有望だったのですが、この主義がこっそりと、魅力的で心を惹かれるものとして彼らの生活に入り込んできました。・・・それは、心に強く訴える教えであり、最終的には誰もが、悪魔自身でさえも、救われるというものでした。あなたなら、この考えにどう応えますか?行き当たりばったりに、誰もが救われる・・・こうして、福音のもっとも大切な教えの多くが切り捨てられているのです。

2020年5月22日金曜日

【Daily Open Windows】5月22日

五月二十二日

異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされた。(ガラテヤ一・十六)

パウロが生きていた時代から、キリスト者の行動の非常に多くが、自分たちの活動の拡大、教えの伝達、自分が属する団体の利益の増大に注がれてきました。大切なのは活動そのものではないし、地上で何かの活動を立ち上げて、信者、支持者、会員、援助を集めることでもありません。団体が大切なのではなく、それが教会と呼ばれる団体であっても同じことです。教会は、イエス・キリストの啓示と関わりがなければ、神の御心の中に存在する意味すらなく、教会の意義は、その存在によって、神の御子であるキリストの愛が、どれだけ現れるかという、そのはかりに応じて裁かれます。証しというものが、あなたにとって、特定の形式の教え、体系化された教理を意味するのだとしたら、それも大切ではありません。それは、証しとは言えません。『証し』について話すとき、何をもって証しと考えているのかということに注意しましょう。

2020年5月21日木曜日

【Daily Open Windows】5月21日

五月二十一日

私は、キリストとその復活の力を知りたいのです。(ピリピ三・十)

彼が書いたものの中に、自分がどれだけ主イエス様に献身的に尽くしてきたかを語ることばはほとんど見られません。全体の文脈は、ある一人のお方に、心の全てを余すところなく注ぎだすものであり、そのお方とは、彼が自分は『とらえられた』と言ったその人、その思いのすべてを、『私はキリストを知りたい』というこの短い節の後半に集中させたお方のことです。このことばで表された望みについて印象的なことは、それが明らかにされた時間です。ここにいるのは、イエス・キリストの啓示と知識を、その時代に至るまで地上に存在した誰よりも多く受けた男です。その知識は、彼がこう言った時に始まりました、『神は、御子を私のうちに啓示することをよしとされた。』その始まりが彼を打ち砕き、それが意味するものを捕らえさせるために、彼を砂漠へと送り込みました。

2020年5月20日水曜日

【Daily Open Windows】5月20日

五月二十日

あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。(マタイ十六・二十三)

この節が語っているのは、神の御心に関わることでは、、包括的で、かつ、多くのものごとを覆う立場を取らなければならないということだと思います。私たちは、はっきりしと意識して、積極的にこの立場を取ることが求められており、そして、時には、どんな手を使ってでも、私たちの心を乱し、御心に従おうとする意思を弱め、別のはなしを持ちかけ、いろいろな問題や利害に光を当てては、考えを変えさせようとする敵の策略と出会うことを、心にとめておかなければなりません。私たちは必ず、この攻撃、このつまずき、この妨げにぶつかるし、そのときは、断固とした態度で臨まなければなりません。

2020年5月19日火曜日

【Daily Open Windows】5月19日

五月十九日

時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。(エペソ一・十)

包括的で、その中にすべてを統合するひとつの真実があります。その真実は、それが、本当に私たちの心を完全に支配し、私たちの意識の全体をつかさどることによって、私たちの意思、私たちの心、私たちの考えを捉えるとき、新しい契約が古い契約からの革命であったように、現実に全てに革命的な変化をもたらすものです。

2020年5月18日月曜日

【Daily Open Windows】5月18日

五月十八日

主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。(イザヤ64:8)

私たちは主の御手の中にあり、そして、御手の内にあることによって、主である陶器師の手の中に置かれているのですが、この陶器師は、はっきりした目標を持って働いています・・・はじめは、器がこの陶器師の手の中にあるのですが、後には、陶器師がその器の中に入ります。ここで言いたいのは、陶器師が仕事を始める前に、どのような器になるか、きわめて明確に、彼の心の中、彼の思いの中に描かれているということです。その形態は、外から示されていくものではなく、彼の心の中で、器はすでに完成されています。その上で、陶器師は、器を作り始め、そして、完成したとき、陶器師は自分が作り上げたその器の中にいるのです。神の中にあったものが、その器の中に現れたのです。

2020年5月17日日曜日

【Daily Open Windows】5月17日

五月十七日

御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。(第一コリント二・十五)

私たちは絶えず、こう問い続けなければなりません、『このことでは、キリストがすべてだろうか、それとも、私は自分の道を欲しているのだろうか?私は、自分の感情、欲望と嗜好が支配するにまかせているのか、それとも、キリストがすべてになっているだろうか?このすべての中にキリストがおられて、私の力が及ぶ限りにおいて、聖霊の活力の中にあって、これが現実となっているだろうか?』このような思いが、日常生活の些細なところにまで及んでいなければなりません。心が動揺し、悩まされ、挑発を受けて苛立ち、そして、必死で奮闘するとき、私たちは、そこから抜け出して、こう言わなければなりません、『主よ、このことでも、あなたがすべてであってください。私の損得などはどうでもいいことです。』そして、このような日々の生活と経験の小さなところから、より広い範囲へと、また、私たちが主の責任を荷うしもべになれる高みへと、み言葉と御霊に支配されたまま、向かわなければなりません。そして、み言葉と御霊が持つただひとつの目標とはキリスト――すべてであられ、すべての中におられるキリストです。このことを認めると、この状態へとさらに進んでいく必要があること、自分たちが真に霊的な民であることがわかります。

2020年5月16日土曜日

【Daily Open Windows】5月16日

五月十六日

このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。(コロサイ二・十九)

信者とは何でしょう?神の目から見た信者とは、その中にキリストが埋め込まれた者をさし、そして、神は決して、キリストを限定的なかたちで見ることはされません。神はいつも、キリストを絶対的な見方で見ており、私たちの人生の始まりにキリストが埋め込まれたときも、神は、ばらばらに分けて埋め込むようなことはしませんでした。神の考えとは、終わりが始まりとつながれていること、そして、キリストがすべてであり、すべてのうちにおられることでした。回心は、それ自体が終着点ではないと言う理由はここにあります。それは、神の最終的な目的地に向かう第一歩に過ぎません。ここから、神が願っている信者の性質が分かります。すなわち、それはキリストにあるという性質です。人は、自分で、その性質を持つことはできません。教会においてある来訪者カードも、その性質を作り上げることはできません。男であれ女であれ、相手に、大きな決断をして、キリスト教の教理にある教えを心に受け入れるように諭し促すことによって、人をキリスト者に変えることはできないのであり、それは、たとえ、その教えが、主イエス様の人格や働きに照らして、完璧に真実であっても同じことです。

2020年5月15日金曜日

【Daily Open Windows】5月15日

五月十五日

見よ、世の罪を取り除く神の小羊。(ヨハネ一・二十九)

世の罪とは何のことでしょう?それは、高慢です。あなたは、そう思わないかもしれないし、気づいていないかもしれませんが、もう一度、思いを巡らし、罪と呼ばれるものの根源はすべて、高慢にさかのぼることができないか、罪とは、高慢がかたちを変えて表れたものではないかと、考えてみるようにお願いします。高慢の源とは何でしょう?高慢とは何でしょう?それは、自我がいのちを持って、立ち上がり、動き始めたもの――これこそ、高慢の根であり、その枝、そこから生じる実です――その実はどれだけあるでしょう!――妬み、貪欲、怒り、そして、その他たくさんの実が高慢から生じます。なぜ、怒りも高慢なのでしょう?そう、怒りとは、子羊の怒りのように聖なる、清められた、血で浄化された怒りではなく、私たち自身の思いと関心が突き動かす怒りであれば、それは自我の怒りです。私たちの怒りは、自分の利益や楽しみを脅かすものに対する自己保身や反発であることが、往々にしてあります。反抗心、頑迷さ、偏見、そして、私たちの恐怖の多くをたどると、高慢に行き着きます。私たちが恐れているものは何でしょう?何を怖がっているのでしょう?自分の恐怖を吟味してみれば、私たちはなぜ、恐れているのでしょう?個人的な関心から完全に切り離されていたら――すなわち、自分を全面的に主に明け渡し、自分の思いを完全に断ち切ることができたら――私たちの恐怖の多くも消えて行かないでしょうか?こんなふうに話しを続けていくことはできますが、とは言え、私たちは、風呂敷を広げて、人間の性質や高慢さについての分析に浸りたいとは思いません。ここまで、多くのことを語る中で、高慢こそが全ての根源であること、そして、この高慢という根源までさかのぼることができる産物も数えきれないほどあることを示してきました。・・・

2020年5月14日木曜日

【Daily Open Windows】5月14日

五月十四日

定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わされました。(ガラテヤ四・四)

定めの時が来たのです!アブラハムの人生を見れば、彼の信仰がいかに、神の定める時と深く関わり続けていたのか、すぐに分かります。アブラハムにとって、時という要素は、きわめて現実的なものであったし、また、おそらく、彼の信仰に対しても、もっとも影響が大きく、何よりも重大な要素のひとつだったのです。私たちは、アブラハムの信仰を持っているか、神が定める時々に、何度も繰り返して試されます。実際、ある視点から見れば、アブラハムの人生全体を俯瞰して、この時という要因のゆえにこそ、この人生は最後に、信仰の勝利へと登りつめたとも言えます。純粋に神から来たものということで言えば、アブラハムはその人生において、約束を取り付けていません。人生の最後に来てもなお、アブラハムは約束の成就を求めていました。もし、信仰を投げ出していたら、彼が、当然、次のような態度を取っていたでしょう。すなわち、こんなに長い時間、自分の全人生を通しても、あのことは成就されなかったのだから、これは、どう考えても、自分の側に、何か大きな過ちがあり、自分が分不相応な期待を持ったか、間違った方向に進んできたとか、そういったことの表れに違いない。しかし、ヘブル人への手紙を、実際に起こったこととして、そのまま受け取るなら、人生の終わりに至っても、アブラハムは信じ続けました。彼はかたく信じていたのです。すなわち、神には御自身で定めた時があり、その時が来て、初めて目的を果たされること、・・・・そして、彼自身が生きているあいだには成されなくても、いつかは必ず、成就されることを。しかし、彼が生きているあいだに――このすべてが神の目的の中に包み込まれていたのです――時というこの要素に関連して、試みを受ける出来事があり、そして、この要素で試みを受けて、約束は果たされたのでした。

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2020年5月13日水曜日

【Daily Open Windows】5月13日

五月十三日

あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。(マタイ二十三・九)

おそらく、終わりが来たとき、あなたと私だけでなく、世界中にいる主の民が、他の何よりも理解しなければならないことのひとつは、私たちがどれだけ天的であるかという現実です。主の名をかたる全てのことが試されることになりますが、それは、終わりを支配する、はじまりの法によって行われます。始まりには、彼らは天的な人たちであり、すべてのものが天におられるキリストにあって、彼らのために備えられていて、天にいるキリストから与えられていました。彼らにとって、全ての支配、指示、備えは、天でそうであったように、主から来ており、また、主の中にあったのです。主は何度でも戻ってこられ、ものごとをその始まりによってさばかれ、そして、終わりには、そのさばきは非常に厳格に適用されることになります。私たちが見るのは、ものごとの表面的な形式であり、それは、この世的で、人の手で作られ、人の手で定められた形式であって、霊的なものの模倣、あるいは、描写に過ぎず、その土台からして崩れ、揺れ動いています。私たちが働くこの世の組織は、全て砕け散ってゆきます。国々で、この世の枠組みは、すべて引き裂かれます。そこに残されるのは民だけとなり、おそらく、彼らは、散り散りになります。そこで、試されるのは、キリストから来るものが、そこにどれだけあるのかということです。もし、秩序、教会、制度、また、会合や大会といった、自分でキリスト者の生活を支える手段とみなす多くのものに頼ってきたのなら、それらが失われ、崩れ去ったとき、そこでこの問いが投げかけられます。すなわち、ここにはどれだけのキリストがいるのだろうか?キリストの計り、天的なキリストの計りはどれだけありますか?

2020年5月12日火曜日

【Daily Open Windows】5月12日

五月十二日

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。(ヤコブ一・四)

神が、私たちを訓練する道に対して、私たちが取る態度はふたつあり、ひとつは、それをただ、苦しく、不快で厳しいものと受け取ることであり、もうひとつは、その鍛錬によって私たちが大きくなり、その鍛錬を経て成長し、能力を広げ、自分をより広い場所へ導いて、来るべき時代に世界を統治する主の知性にあふれた道具となるためにそれを受け入れることです。人生の歴史に入り込んでくるものの深い意味を、常に正しく測ることはできませんが、そこで私たちにできる説明とは、すなわち、副次的な原因として何があろうと、主は絶対的な権威者であって、その時点ではもっともひどい選択であるとこの世的には思われる行動であっても、それを行わせることに大きな意味があるとお考えになることもあり、その行動によって、その時は主の御名と勢力が傷を受けるように見えたとしても、そのことを通して、主は民を成熟した段階へと導くのであり、民もまた、そこで自分自身にとっての主を知るようになります。こういった苦しい経験を経て、私たちが気づくのは、御自身にとってずっと大きな価値のある何かを、主の子供たちのいのちの中に、主が作り上げていることです。ここに、主がされることの正当性、合理的な正しさがあり、他の方法でもできるなら、主は、そうされていたでしょう。

2020年5月11日月曜日

【Daily Open Windows】5月11日

五月十一日

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。(マタイ十一・二十九)

キリスト者に課せられた大きな課題はキリストを学ぶことです。これは、ただ学習する課目ということではありません。お尋ねしたいのですが、あなたの人生でもっとも大きな願いは何ですか?私の願いと同じでしょうか!私の心の中の何よりも大きな願い――長く生きるほど強くなっていく願い――とは、主イエス様を理解することです。主のことで、分かっていないことが、私にはまだ、たくさんあります。私は、主のことになるとすぐにたくさんの問題にぶつかりますし、それは、知的な問題では決してなく、霊的な問題、すなわち、心の問題です。なぜ、主イエス様はあのことを言われ、また、あのことをされたのだろう?なぜ、主は、このようなことを私にするのだろう?主は、いつも、私にとってあまりに深遠な方でり、私は、主を理解したいと願っています。主イエス様を理解することは、人生でもっとも大切です。そう、私たちがここにいるのは、主が私たちを、ご自身のより良い理解へと導くことができるようにです。御言葉の中身は、新しくなることはありません――よく知られた古い聖書のことばです。おそらく、私たちは、自分がヨハネの福音書をよく知っているつもりでいます。確かに、あなたはそうかもしれませんが、私は違います。この福音書には、私が知っているよりも、ずっと深い真実と価値が含まれていることに、私は読むたびに気づいています。・・・

2020年5月10日日曜日

【Daily Open Windows】5月10日

五月十日

そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。(コロサイ二・十)

主の十字架には、多くの側面があるとはいえ、完全で完結した原理です。この十字架は、原理として完全であり、完結しています。私たちがこれから学ぶのは、主の十字架は、この完全で最終的に完結した状態のままで、聖書の始まりのときから、ずっとそこにあったことです。そのとき既に、十字架は原理として、絶対的なものでした。私たちは、一日の中のその時々における生活を、十字架にあって、神の満ち満ちたさまへと引き戻すことではじめて、前に向けた歩みと、主のいのちの広がりを知るようになります――これまでになかったほどにです。

2020年5月9日土曜日

【Daily Open Windows】5月9日

五月九日

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル四・十二)

この手紙の中心を流れる神の思いとは、霊的な完全さに尽きます。そして、あらゆる宗教が――キリスト教でさえ――魂と霊、感性と霊性を、明確に区別せずに混同しており、(かつては、キリスト・ユダヤ教がそうなり、また、今の組織化されたキリスト教がそうなっているように)、ユダヤ教と同じ運命へと突き進んでいます。私たちがキリスト教を建て上げるために、人の魂という資源だけを用いて、『すべてのものは神から来ている』こと――すなわち、すべては主から来なければならず、そして、そのとき、人間に初めて触れるところは霊であって、この霊が、新しくされて(作り直されて)、その後はずっと、神からくる全てのものの器となり入れ物となること――を認めようとしないなら、その組織がどれほど巨大なものになろうと、大きく『揺り動か』されたときは、必ず崩れ去っていくことになります。現在のキリスト教の大部分は、たくさんのユダヤ教的な特徴を内在させながら作り上げられています。その特徴とは、外的な秩序、様式、式服、肩書き、建物、そして、真実を学ぶ上でも厳格に設けられた境界のことです。天的な観点からみると、このすべてはあまりに意味がなく、子供の遊びのようなものですが、当の子供たちはそれを大真面目に捉えているのです。

2020年5月8日金曜日

【Daily Open Windows】5月8日

五月八日

主であるわたしは変わることがない。(マラキ三・六)

暗闇の権威は、私たちにとっても、はっきりした現実です。これまでも経験してきたように、この権威に屈服してしまえば、私たちはそこでおしまいです。敵は、暗闇の権威をもって、私たちの生活に入り込もうとしますが、この侵害の前に屈服し、降参して、受け入れてしまえば、私たちは敗北します。

2020年5月7日木曜日

【Daily Open Windows】5月7日

五月七日

人にはできないことが、神にはできるのです。(ルカ十八・二十七)

全てはこのひとつのことにかかっています。すなわち(見かけどうりに単純なことですが)、もしキリストが臨在すれば(それは神が臨在するということに他なりません)、その瞬間には、何でも起こり得るということです。あなたはいつか、人生がもっと良くなる日が来ることを信じて待っているのでしょうか?その日が来るかどうかは、決して時間の問題ではなく、主の問題なのです。主は言われます、『わたしは、同時に、時間であり、永遠でもあるから、あなたは、時間に縛られることは、何ひとつ受け入れなくてもよい。わたしを受け入れなさい。そうすればあなたは、朝には、ほとんど死人のようになっていながら、一日が終わる前には、完全に生きかえることもできるのです。「わたしはよみがえりです。いのちです。」』マリアは言いました、『私は、終わりの日に、主がよみがえることを知っております。』彼女にとって、よみがえりとは、ある時間が来たら起こることでした。ああ、違います。よみがえりは、すぐそこにあったのです。・・・

2020年5月6日水曜日

【Daily Open Windows】5月6日

五月六日

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ五十五・八―九)

何に対しても、神の思いは、私たちの思いとは全く違うものです。私たちはよく、神ならば決して許さないことも、許してしまいます。神は、ものごとを、まったく違った視点から見ています。私たちがものごとを判断する基準と、神が判断される基準は異なっています。神の視点に立つことが必要です。『ああ、』人は、こんなふうに言います、『あのこと、このことには何の害もない。ああ、あのことに悪いところが何もない。誰それのこと、あれこれのことを見ていればいい』などと言っては、生きる上での標準を、他の誰かの中に求めるのではないでしょうか。私たちは、多くの人々がこうするのを見てきました。すなわち、神の働きの中にいる傑出した人物を見つけようとするのです。その人の人生には何かがあると思い込みます――それは、模範とみなして、見習ってきた何かであり、その何かをずっと続けてきたのです。『ああ、あそこには悪いものは何もない。誰それを見ていなさい。』そして、まさにこのような弁明をしたために、滅びてしまった多くの人生や奉仕の生活を、私は見てきました。

2020年5月5日火曜日

【Daily Open Windows】5月5日

五月五日

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。(ヨハネ一・十六)

人としてのキリストと同じ位置に来ることは、実に壮大なことであり、また、途方もない強さの源となります。そこでは、限りない天の備えが利用できるからです。私たちは、その場所に向かって一歩ずつ前進するしかなく、一気に到達することはできないと思います。私たちがそこに至るには、訓練という道しかありません――それは、私たちを、主だけにより頼むものに変えるという訓練ではありますが、自分を空にし、完全に砕かれるというそれ自体が目的なのではなく、そこには、神の恵み――神のあの恵み深さ――がいつもともにあり、空っぽになったときには、主の完全さで豊かに満たしてくれる、そのような訓練です。

2020年5月4日月曜日

【Daily Open Windows】5月4日

五月四日

あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。(コロサイ一・二十七)

私たちは、天におられるキリストと、信者の中にいるキリスト、その両方について語ることの大切さを感じています。すなわち、客観的な見方と、主観的な見方についてです。真実の適切な釣り合いを保つことは、この上もなく重要です。私たちが抱える問題の非常に多くは、真実のある一側面だけを、不釣り合いなほど誇張するために起こっています。真実を知るのはよいことであり、また、真実の中で喜ぶのもよいことであるとはいえ、真実もやはり、私たちに困難をもたらす可能性があるのです。真実へと進む方向には多くの危険が横たわっており、それは、霊的な真実でも同じです。そして、主の人々の中にも、このような危険に陥ったことのある者が少なからずいます。光がないために苦しむのではなく、適切に整えられ、釣り合いが取れたかたちで光を受け取らなかったがために、彼らは、ひどく苦しんでいるのです。このために、私たちにとって、ものごとを正しい見方で、正しい均衡の中で受け取ることが不可欠となります。ある一面だけに偏り過ぎることによって、霊的な傷を負うことになり、多くの場合、それは、霊的な災厄へとつながります。

2020年5月3日日曜日

【Daily Open Windows】5月3日

五月三日

神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。(第一ヨハネ一・五)

光は透き通っています。光は清らかさです。光とは絶対的な純粋さです。光とは誠実さです。光とは、開かれた人格です。光は何も隠さず、その動作と性質は、何かを隠すことと、あらゆる面で正反対です。そこに隠すべきものは何もなく、全てをあらわにし、すべてが現れます。ことばを換えれば、光は偽ることがありません。何も覆い隠すことを望まず、また、何かを見せかけたり、実際とは違う姿と思わせることもしません。光は、ただひとつだけのものであって、二重のものではなく、光には裏表がありません。そして、光は正しいもの――それが光です!光のあるところには、『暗いところが少しもない』のです。・・・・暗闇には、どれだけの様相と側面があるでしょう!――数えきれないほどの言葉で表されます。十字架を用いて、そのすべてを終わらせるために御霊が来たのですが、そこで、すべては、主イエスという人格の中で終わりへと導かれたのです。それは、十字架の意味を私たちの人生に働かせて、この暗闇の王国に属するすべてのものが取り除かれるように、そして、最後には、私たちからも、暗闇が消え去るようにです。聖霊を持ち、聖霊を受け、聖霊によって満たされることを思うとき、私たちはこのことを本当に思っているでしょうか?ここでもまた、おそらく、自分の考え方を、少しだけ、変えることが求められています。

2020年5月2日土曜日

【Daily Open Windows】5月2日

五月二日

・・・責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。(第一テサロニケ五・二十三)

神は、私たちの意志も、私たちの考えも、私たちの心も、決して取り去ろうとしないことはご存知でしょう。中には、神が現れて、自分がすべき選択を肩代わりしてくれ、また、何を望むべきかを決めてくれ、また、すべての決断を行ってくれることを期待する人もいますが、そのような人たちは、自分を哀れで、神につまみ上げられて、神が望み、神が意図するところに放り込まれるだけの者と考えています。神は決してそのようなことをしません。主は、人間らしさというものを作り上げます。もし私たちが霊だったら、どのように振る舞っていたか、私にはわかりませんし、なにも意識しないで行動するのかもしれません。しかし、そうではありません。神が造られたのは、合理的な心を持った存在です。霊、たましい、からだという三つで一組の要素は、アダムの中にはなく、キリストにあって、初めて現れるものです。神は、キリストの心を作り上げようとしています。主と同じように考え、判断し、理解する心です。そして、主の思いを知るとき、それが自分自身の生まれままの心の思いとはまったく違うことに、私たちは気づきます。そして、生まれたままの心から出てくる思いは、あらゆる面で的外れなもので、完全に断ち切るしかありません。これが、霊的な理解、御霊の思いです。同じことが、私たちの感情、私たちの欲望にも当てはまります。こういったものが、私たちを道に迷わせることもあります。キリストの中には、私たちの心に着せる新しい衣が揃えられていますが、私たちは、主とともに立ち、主から来るもの中にいることが、常に求められています。受身であることが、もっとも大きな害となることもあります。よみがえられたキリストのすべての価値において、そのよみがえりのいのちを受け取らなければならず、これは、考え、心、意思が必要なのと同じくらい、霊、たましい、からだが必要とされるからです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス