2020年5月17日日曜日

【Daily Open Windows】5月17日

五月十七日

御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。(第一コリント二・十五)

私たちは絶えず、こう問い続けなければなりません、『このことでは、キリストがすべてだろうか、それとも、私は自分の道を欲しているのだろうか?私は、自分の感情、欲望と嗜好が支配するにまかせているのか、それとも、キリストがすべてになっているだろうか?このすべての中にキリストがおられて、私の力が及ぶ限りにおいて、聖霊の活力の中にあって、これが現実となっているだろうか?』このような思いが、日常生活の些細なところにまで及んでいなければなりません。心が動揺し、悩まされ、挑発を受けて苛立ち、そして、必死で奮闘するとき、私たちは、そこから抜け出して、こう言わなければなりません、『主よ、このことでも、あなたがすべてであってください。私の損得などはどうでもいいことです。』そして、このような日々の生活と経験の小さなところから、より広い範囲へと、また、私たちが主の責任を荷うしもべになれる高みへと、み言葉と御霊に支配されたまま、向かわなければなりません。そして、み言葉と御霊が持つただひとつの目標とはキリスト――すべてであられ、すべての中におられるキリストです。このことを認めると、この状態へとさらに進んでいく必要があること、自分たちが真に霊的な民であることがわかります。


霊性、あるいは、霊的な民とは何を意味するのか、明確に定義することは、多くの場合、とても難しいものです。これは、説明するより、経験したほうがよく分かるものごとのひとつです。しかし、差しあたって、次のようなことばを使えば、きわめて単純、きわめて安全に、また、正確にまとめることができます。すなわち、霊的な民とは、神のみ言葉と御霊に支配されながら、心の内面と外面のすべてにおいて、キリストがすべてあり、すべての中におられるという、この目標を目指す人々のことです。これが真の霊性です。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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