2020年5月22日金曜日

【Daily Open Windows】5月22日

五月二十二日

異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされた。(ガラテヤ一・十六)

パウロが生きていた時代から、キリスト者の行動の非常に多くが、自分たちの活動の拡大、教えの伝達、自分が属する団体の利益の増大に注がれてきました。大切なのは活動そのものではないし、地上で何かの活動を立ち上げて、信者、支持者、会員、援助を集めることでもありません。団体が大切なのではなく、それが教会と呼ばれる団体であっても同じことです。教会は、イエス・キリストの啓示と関わりがなければ、神の御心の中に存在する意味すらなく、教会の意義は、その存在によって、神の御子であるキリストの愛が、どれだけ現れるかという、そのはかりに応じて裁かれます。証しというものが、あなたにとって、特定の形式の教え、体系化された教理を意味するのだとしたら、それも大切ではありません。それは、証しとは言えません。『証し』について話すとき、何をもって証しと考えているのかということに注意しましょう。


中には、頭の中で、自分なりに調整した真理を並べたて、その真理を大仰な言い回しや文体で飾り立てて、これこそが『証し』であるかのように語る人たちもいますが、大切なのは、このような意味での証しではありません。大切なものとは、宗派ではなく、『非宗派』でも、また、『宗派を超えた』何かでもありません。キリスト教にも、意味はないのです。『働き』でもありません――ああ、私たちはいつも、『働き』のことを語りあっています。『最近、働きはうまく行っていますか?』――私たちは、働きに身をささげ、働きに心を配り、働きのために出て行きます。大切なのは奉仕でもありません。それは、キリストなのです。『御子を宣べ伝えさせるために・・・。』この目的が、常に中心にあり、全てを超えていたら、信者を分裂させる元となってきたひどい妬みが生じる機会などなかったはずです。今日のキリスト教団体の中に存在する不幸な混乱も生じてはいなかったでしょう。混乱が生じたのは、組織の中にのみ存在する何か、活動、奉仕、教え、証し、交わりなどが、本来、キリストの居るべき場所を占めてしまったからなのです。人々が、世界に拡がって、こういったものを推し進め、伝え、建てあげてきました。誰も、敢えて告白しないでしょうが、今日、私たちの働きの中で、キリストが大きな位置を占めていないことは、明白な事実です。さて、愛する皆さん、心の中への啓示だけが、この状況を癒してくれるものです。私はあまりに、厳しい言い方、おおざっぱな言い方をしているでしょうか?これまで述べてきたものの存在は、キリストが正しいかたちで、心の中に啓示されていないことを示しているのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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