2020年5月26日火曜日

【Daily Open Windows】5月26日

五月二十六日

彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる。――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。(マラキ三・十七)

もし、私たちが、自分自身を徹底的に神に捧げてきて、また、主の完全な御心だけを求めて、自分の思いなど顧みることなく、また、主の恵みによって、主が導き、示される道を、どれだけの犠牲を払っても進むという真摯な気持ちを持ち続けてきたとしたら、そして、本当にこのとおりに生きてきたのに、そこに生じた状況が怖ろしいほど複雑に見えて、神の真実さと相反するようにしか思えなかったら、私はそのことを、どうに考えたらいいのでしょうか?私たちは、どのような結論を導こうとするのでしょうか?次の二つの結論のどちらかしかありません――つまり、神は私たちの勤めも献身もまったく心に留めず、困難に巻き込まれても意に介さない、あるいは、この全てが主の目の下にあるということです。このふたつは、両極端な結論です。私たちには、神を信じるか、あるいは、まったく神を信じないか、そのどちらかしかありません。この全ては御言葉の中に示されており、そのすべてが、次の事実につながっていきます。すなわち、神による予見と、神による世界の統治に関わる人たちは、必ずこのような状況に陥ること、しかし、最後には、その統治が、主にとって何よりも大切な何かと結びついていると示されていること、そして、『万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる』(マラキ三・十七)ことです。


主は、日常生活よりもずっと大きな何かを見据えておられ、そのために人間の助けを必要としていますが、そこに参加する人々は、生活の中でも外でも、普通ではない経験をすることになります。それは、どこにでもある当たり前の人生ではなく、全てがうまく行き、誰にも受け入れられる生活とは違います。神が求める人たちが進む道はそのようなものではないのです。彼らが通っていく道は、苦痛に満ち、度を越えて困難なものですが、そこは神が統治されています。これが、私なりに、この状況を、御言葉の中で、じっくり掘り下げ、まとめてみた結果ですが、私がはっきり言えるのはただ、このような経験をすることは、決して、神の特別な目的の外にあるものでも、その目的と無関係なものでもないということです。この事実は、イスラエルの生き残りの者にも、また、キリスト教の摂理、黙示録やこの地上に届けられた教会への託宣の中で神が行う行動にも、その全てに当てはまるものです。この人たちは、とても正常ではないように見えますが、それは、神が、正常なだけものを、私たちが正常と考えるままに受け入れないからです。神が求めるのは、それ以上の何か、尋常ではない何かであり、だからこそ、私たちの経験も、尋常ではないものとなるのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

0 件のコメント: