2020年5月6日水曜日

【Daily Open Windows】5月6日

五月六日

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ五十五・八―九)

何に対しても、神の思いは、私たちの思いとは全く違うものです。私たちはよく、神ならば決して許さないことも、許してしまいます。神は、ものごとを、まったく違った視点から見ています。私たちがものごとを判断する基準と、神が判断される基準は異なっています。神の視点に立つことが必要です。『ああ、』人は、こんなふうに言います、『あのこと、このことには何の害もない。ああ、あのことに悪いところが何もない。誰それのこと、あれこれのことを見ていればいい』などと言っては、生きる上での標準を、他の誰かの中に求めるのではないでしょうか。私たちは、多くの人々がこうするのを見てきました。すなわち、神の働きの中にいる傑出した人物を見つけようとするのです。その人の人生には何かがあると思い込みます――それは、模範とみなして、見習ってきた何かであり、その何かをずっと続けてきたのです。『ああ、あそこには悪いものは何もない。誰それを見ていなさい。』そして、まさにこのような弁明をしたために、滅びてしまった多くの人生や奉仕の生活を、私は見てきました。


問うべきは、そのことで主は何と言っているかということです。『あなたはわたしの前を歩みなさい!』と、神は言われます。模範とする人の前ではなく、いかなる人間の標準の前でもありません、『そうはいっても、別に害はない。害になるのは、あれやこれをではないか。これは誰でもやっている当たり前のことだ。』違います!『わたしの前を歩みなさい!』と、主は言われているのです。私たちは、このことを霊の中、内なる人の中に、刻まなければなりません。このことばは、最善の道徳的水準よりも深いものです。そうでなければ、このことばが聖書の中に置かれている意味など全くありません。私たちの道徳的な水準が、神が満足するまで達することもあるとしたら――今のような扱いを受けて、私たちが造り直されなければならない理由がどこにあるでしょう?主のこのことばは、私たちの知性よりも、私たちの論拠よりも深いものです。根拠や知性によって、神の水準に到達することはできません。絶対にあり得ないことです!ああ、どのような論理的な手法を重ねても、それによって、神の水準に達するなどとは考えないでください。絶対に、そんなことはありません。そう、それは聖霊の啓示によってのみ行われます。キリストは、私たちの心の中に、御霊によって啓示されなければなりません。

私たちが、自分の知恵だけに頼って、神の水準に到ることができたとしたら、イエス様がこのように言われる意味はありません、『その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。』それは、意味のないことです。私たちの心の中、内なる部分にキリストが啓示されることによって、行われなければなりません。そこには、霊的な何かがあります。『神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません』――霊とまことは、いつもひとつです。霊的であるもの、神から来ているものだけが、真実です――他にありません!

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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