2020年5月9日土曜日

【Daily Open Windows】5月9日

五月九日

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル四・十二)

この手紙の中心を流れる神の思いとは、霊的な完全さに尽きます。そして、あらゆる宗教が――キリスト教でさえ――魂と霊、感性と霊性を、明確に区別せずに混同しており、(かつては、キリスト・ユダヤ教がそうなり、また、今の組織化されたキリスト教がそうなっているように)、ユダヤ教と同じ運命へと突き進んでいます。私たちがキリスト教を建て上げるために、人の魂という資源だけを用いて、『すべてのものは神から来ている』こと――すなわち、すべては主から来なければならず、そして、そのとき、人間に初めて触れるところは霊であって、この霊が、新しくされて(作り直されて)、その後はずっと、神からくる全てのものの器となり入れ物となること――を認めようとしないなら、その組織がどれほど巨大なものになろうと、大きく『揺り動か』されたときは、必ず崩れ去っていくことになります。現在のキリスト教の大部分は、たくさんのユダヤ教的な特徴を内在させながら作り上げられています。その特徴とは、外的な秩序、様式、式服、肩書き、建物、そして、真実を学ぶ上でも厳格に設けられた境界のことです。天的な観点からみると、このすべてはあまりに意味がなく、子供の遊びのようなものですが、当の子供たちはそれを大真面目に捉えているのです。


この手紙が宛てられた相手は――長い期間にわたって――神がご自身に向けて世から引き上げた者という地位を、国の中で占めてきた人々であることを理解しておくことが大切です。この手紙は、彼らの性質と歴史を、キリストの光と、真に霊的なキリスト信仰の中で、説明しようとしています。この中で示されているのは、そのような人々でさえ、この世から離れ、地上の現実から離れることはできること、そして、そうするために、彼らは、『倒されて』きたし、これからも――キリスト者としてもなお――父祖がユダヤ教で行ったことをキリスト教の中で繰り返せば、再び、倒されるであろうということです。 ここにあるのは、ただ人を類型化する考え方とか、罪とさばきからの救いについて受け入れられている解釈よりも、ずっと大きなものです。ここで語られているのは、主の人々にとって本質的で欠かすことのできない、天的な相互関係と生活であり、それは、宗教的な意味においてさえ、生まれたままの生活から内的に切り離されているものです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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