2020年5月13日水曜日

【Daily Open Windows】5月13日

五月十三日

あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。(マタイ二十三・九)

おそらく、終わりが来たとき、あなたと私だけでなく、世界中にいる主の民が、他の何よりも理解しなければならないことのひとつは、私たちがどれだけ天的であるかという現実です。主の名をかたる全てのことが試されることになりますが、それは、終わりを支配する、はじまりの法によって行われます。始まりには、彼らは天的な人たちであり、すべてのものが天におられるキリストにあって、彼らのために備えられていて、天にいるキリストから与えられていました。彼らにとって、全ての支配、指示、備えは、天でそうであったように、主から来ており、また、主の中にあったのです。主は何度でも戻ってこられ、ものごとをその始まりによってさばかれ、そして、終わりには、そのさばきは非常に厳格に適用されることになります。私たちが見るのは、ものごとの表面的な形式であり、それは、この世的で、人の手で作られ、人の手で定められた形式であって、霊的なものの模倣、あるいは、描写に過ぎず、その土台からして崩れ、揺れ動いています。私たちが働くこの世の組織は、全て砕け散ってゆきます。国々で、この世の枠組みは、すべて引き裂かれます。そこに残されるのは民だけとなり、おそらく、彼らは、散り散りになります。そこで、試されるのは、キリストから来るものが、そこにどれだけあるのかということです。もし、秩序、教会、制度、また、会合や大会といった、自分でキリスト者の生活を支える手段とみなす多くのものに頼ってきたのなら、それらが失われ、崩れ去ったとき、そこでこの問いが投げかけられます。すなわち、ここにはどれだけのキリストがいるのだろうか?キリストの計り、天的なキリストの計りはどれだけありますか?


弟子たちにとって、これが、 大きな危機であったかは明らかです。彼らは、主とともに三年半を過ごしましたが、心は外に向けられており、外の世界により頼み、また、肉体的にも、感性の上でも、外の世界とつながっていました。主とは誰であるのか、主のことをどう思うか、主について何を信じているか、主のためなら何を行うかといったことを、当時の弟子たちは大胆に語り、立派な告白や宣言をし、また、主へのうたい上げました。しかし、主が彼らの前から取り去られたとき、そこには何が残されたでしょう?キリストはおらず、主のいのちはなく、生きる目的も失い、すべては消え去りました!感性に頼ってきた生活が終わって、表面的な秩序が終端を迎えると、彼らに残されたものは何もなく、弟子たちは絶望の中に置かれ、彼らの信仰は砕け散りました。同じことが、今日もいたるところで起こっています。私たちは、全てが崩れるときがきて、主のためにできることが何もなくなり、もはや、祈ること、神の御言葉を読むこと、また、日々の礼拝を執り行うことすらできず、主の民と顔を合わせることもできなくなって初めて、そこにどれだけのものがあるのかを理解できます。大ぜいの主の民が今、この状態に近づいています。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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