2021年8月27日金曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】8月27日:祈らない人たち

この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。(第一コリント3:13)

キリスト教において、礼拝者が非常に不足している兆候がいたるところに見られます。

教会の委員会などには、すすんで参加するのに、霊的なよろこびや輝きを求める気持ちがなく、祈り会には全く顔を出さないような人たちがたくさんいます。

祈りもしないし、礼拝もしない人たちが、多くの教会を運営し、教会が進む方向を最終的に決定しているという事実は、私には、いつも、恐ろしく不自然なことに思えます。

2021年8月25日水曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】8月25日:サタンの策略

私たちは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。(第二ペテロ1:16)

驚くべきことに、キリストの信者に対するサタンのもっとも巧妙な策略は、私たちの美徳とするところを逆手に取って用いることです!もっと驚くべきことに、この策略は、しばしば大きな成功を収めているのです。

罪の誘惑という手立てを使って、私たちの個人生活を攻撃し、私たちの美徳を通して働くことで、サタンは信者の共同体を攻撃し、自分では守れないようにするのです。

街を攻め取ろうと思えば、敵はまず、その抵抗力を弱め、破壊します。教会は、抵抗しているあいだは、陥落することはありません。それを知っている悪魔は、教会の抵抗を無力化するためにあらゆる策略を用います。

2021年8月20日金曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】8月20日:『縮む』クリスチャン

ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛し・・・・ました。(エペソ5:1-2)

改宗したばかりの人は、すぐにはじめの熱意を失って、メリハリのない宗教的な日常生活に落ち着くことになるという考えが、キリスト教界の一部では信じられていますが、私たちも同じ考えを受け入れなければならないのでしょうか?私は、聖徒たちの幸福をいつも心で願っているつもりですが、キリスト者たちの中に、『世間並みの信者』という称号を受け入れて満足している人がいることには、心を痛めています。

2021年8月19日木曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】8月19日:遠くにいる神

わたしは近くにいれば、神なのか。――主の御告げ。――遠くにいれば、神ではないのか。天にも地にも、わたしは満ちているではないか。(エレミア23:23-24)

子供のころ、神の存在についての短い歌にあった『星空の彼方、遠く』という歌詞をよく覚えています。

そこは、人間が神を置いた場所です。神は、星空の向こうのどこか、遠いところにいることになったのです。

この世に生きる人間として、私たちは神の存在を自分に理解できる空間の観点から考えがちです。私たちは、光年とかメートル、マイル、尋(水深)などの単位で考えます。私たちは、神がどこかの場所に住んでいると考えます――違います!神は、ある人々が考えているように、天と地のあるところにいつも住んでいるのではありません。

2021年8月16日月曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第8回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

会合8 — 『あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか』
Meeting 8 - "Have You Understood All These Things?"

第8回会合
(1964年2月6日午後)

もう一度、マタイによる福音書、第13章、1~3節を読むことにします。

『その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。』

2021年8月15日日曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】8月15日:来るべき祝福の日

8月15日:来るべき祝福の日

神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。 (第二コリント5:1)

多くの人たちが、天国に行くことについて話していますが、世の宗教が与える希望は、実にはかないものです。

死という出来事の向こうに、祝福された状態を求めることができるという希望は、神の優しさ、そして、イエス・キリストが私たちのために十字架でなされた購いの御業の中にしかあり得ません。

神の深い深い愛は、そこから後の幸福が流れ出る泉であり、キリストにある神の恵みは、その泉から私たちに届く水路です。キリストの十字架は、神と同じ性質が罪人の側にあるという、高潔な状況を作り出します。

2021年8月13日金曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】8月13日:私たちはどのように主を知っているか?

8月13日:私たちはどのように主を知っているか?

私は、自分の信じて来た方をよく知っているからです。(第二テモテ1:12)

今日の近代的なキリスト教が置かれた状況をかんがみると、私は問いかけざるを得ません。『自分をクリスチャンと呼ぶ人たちの多くは、本当の体験をしていないのではないか?』

私たちは、心を奪うような出会いの代わりに、神学的な考え方を求めるようになりました。私たちの心は宗教的な考えで満ちていますが、そこにある大きな弱点は、この心を支えてくるものが何もないことです!

他に何があろうとも、真のキリスト者の経験には、常に、神との純粋な出会いが含まれていなければなりません。それがなければ、宗教は、ただの影、現実生活の反映、他の誰かに聞いたよろこびの経験の安っぽい複製に過ぎません。

2021年8月11日水曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】8月11日:霊的な窒息

8月11日:霊的な窒息

罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。(ローマ5:20)

人間は、霊的に窒息しやすいものであることを、わかり易く説明してみます。

かつて採掘会社は、かごに入れた生きた鳥を、採掘坑の奥深くまで連れて行って、危険なガスの存在を検知するために使ったそうです。高濃度の有毒ガスがあると、鳥はすぐに檻の底に落ちて死んでしまうのです。

私は、鳥とは、神が作った奇蹟だと思っています――緑の草原からかけ昇り、天井の甘い空気を吸うために造られた翼のついた奇蹟です。しかし、その鳥を、湿って汚染された暗い地下に連れていけば、直ちに窒息して死んでしまうのです!

2021年8月6日金曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第7回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

会合7 — 『主の教会はキリストに由来します』
Meeting 7 - Christ Corporate is the Church

第7回会合
(1964年2月6日午前)

引用聖句:ヨハネ4:19-23、出エジプト記25:8.
『女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。』

『彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。』

2021年8月4日水曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】8月3日

正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。(詩篇32:11)

私は、福音主義教会に、救いとは、あたりを照らす電球でも、地獄を避けるための保険証書でもなく、神とその心への入り口であることに気づくようにと祈っています。

カルト集団は、この小さな宗教ゲームが大好きです。彼らは、保険契約を結ぶようなやり方で安心を提供しようとします。残念ながら、彼らが提供するものは、聖書が与えるものより、はるかに劣っています。

私が心配するのは、世の福音教会も、危険なほど、このような態度に近づいてしまっていることです。どういうわけか、人が改心する理由も、この水準まで堕落してしまったのです。人が何から救われたのかということでも、神に感謝すべきではありますが、むしろ、何へと救われたのかということが大切なのです。

2021年8月3日火曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】 8月3日:神さま、確信をありがとう

8月3日:神さま、確信をありがとう

良い返事をする人には喜びがあり、時宜にかなったことばは、いかにも麗しい。(箴言15:23)

現代人は、どこへでも行けるし、好きなことをできるし、宇宙について、何でも知りたいと思うことも許されています。しかし、神を知りたいと思うだけの好奇心を持つ人は、めったにいません。

神が私たちを探し、見つけ、主の招きの声に、『イエス様、みもとに参ります!』と言える者としてくださったことに対して、私たちは十分、感謝しているとは言えません。

私は、自分がまだ17歳だったころ、この何も知らなかった少年の心に、聖霊が静かに働きかけたことを、何度も思い出します。ある隣人がいて――『ホルマンさん』という名前しか知りませんでした――この方が、キリスト教徒であることは聞いていました。