2021年8月6日金曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第7回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

会合7 — 『主の教会はキリストに由来します』
Meeting 7 - Christ Corporate is the Church

第7回会合
(1964年2月6日午前)

引用聖句:ヨハネ4:19-23、出エジプト記25:8.
『女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。』

『彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。』

ヨハネの福音書、1章14節:
『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。』

私たちは、今のようになってしまったキリスト教が、根本原理に立ち返ることを求めています。キリスト教が巨大な制度に作り上げられてしまったことに、誰もが気付いています。使徒たちが、主の待つ天国へ帰るとすぐに、人間たちはキリスト教に手を加え始めました。彼らはキリスト教の真実を教理という体系にまとめました。その証しを儀式という形態にはめ込んだのです。人間は、どんなことでも、何か自分で手を加えてしまうものです。アダムがその手を善悪の知識の木にかけた日から、人間は常に、神のものに、自分の手をかけてきました。神のものを、自分の支配下に置くためです。人間は、ものごとに手をかけて、自分の支配下に置こうとします。

しかし、神のことにも手をかけることは間違いです。人間はいつも、それをしてきました。ペリシテ人たちは聖櫃に手を置いたため、恐ろしい結果を招きました。ダビデの時代、ウザが神の箱を手で押さえると、神はウザをその場で打たれたので、彼は死にました。その後、長いあいだ、イスラエルは大きな混乱に陥ってしまいました。証しの箱は取り除けられました。神の目的へと向かう進歩は、完全に膠着してしまったのです。そして、ダビデでさえ、主に怒りました。いずれの場合も、人間がその手を神のものにかけたことから起こったのです。常にこのようなことが行われてきました。これはキリスト教においても同じです。

キリスト教は、単純で美しい生き方の中に始まりました。すべては、聖霊のいのちと解放の中にありました。聖霊が手を差し伸べているあいだは、すべてがうまくいきます。ここに人間が入り込んで、キリスト教を手中におさめた結果、私たちが今、見ているものに変わってしまいました。キリスト教ほど混乱しきっているところは、他にありません。主の証しは閉じ込められています。主の証しが制限を受けるのは、そこに人間の手がかかるからです。人間が、自分の支配下に置くようになりました。これはいつでも、危険で悲しいことです。主が取られる態度はこうです。『あなたがその手をどけるまで、わたしは手をふれない。わたしのものに、あなたの手が置かれている限り、わたしは関わりを持たない。』そして、悪い方へと進んでゆきます。誰もが、このことには気づいているはずです。誰であれ、神のものにその手をかければ、それだけ大きな混乱が生じます。人が、神のものごとを自分の支配のもとに置き、思い通りに動かそうとすると、問題が必ず起こります。だからこそ、主が、これだけ人を弱め、自分の弱さを理解させなければならなかったのです。使徒パウロは、もともと強い人でした。そして、タルソのサウロとして、その手を神のものにかけていました。主が彼に出会い、彼を打ちました。最後には、この使徒はこう言うようになりました、『私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇る。』

さて、このことを心にとめながら、話を進めてましょう。私は、あなたがたに山のような教えを授けたいのではありません。与えるものが、多くても少なくても、どうでもいいことです。あなたがどんなに小さなものも、見逃さないことが大切です。今、言ったのは、とてもとても大切なことです。兄弟姉妹の皆さん、神のものに触れるときは、その手の置き方に気をつけてください。聖霊のものを、自分で支配しようとすれば、主に打たれるかもしれないことに注意してください。それは、教会に混乱をもたらします。これほどひどく混乱した状態でキリスト教という制度が存在するのは、人間がその手を神聖なものにかけたからです。そうすると、神のものを、自分の考え方の範囲に持ってきて、こう言うようになります、『これは、こう行わなければならない。私たちは、これを行わなければならず、これは行ってはならない。』

よく知られているように、ペテロは、主が彼に異邦人であるコルネリオの家に行くようにと示されたとき、このようなことをしてしまいました。ペテロはいつも、ユダヤ人と異邦人は関わりがないという立場を取っていました。聖霊がペテロに、この異邦人の家に向かうように語ったとき、ペテロは言いました、『主よ、それはできません。』彼は、そこに自分の手をかけて言いました、『主よ、今は、あなたは間違っていて、私が正しいのです。私が理解している旧約聖書の教えに則した命令をしてください。』この日は、ペテロにとって大きな分岐点となりました。そして、主の教会にとっても重大な日でした。ペテロは、後にその手を放し、これは主の教会にとって、すばらしい日となりました。

このように、私たちが知っているキリスト教の体系に立ち戻らなければなりません。イエス・キリストの初めの単純で霊的な原理へと立ち返るのです。そして、昨日も言ったように、ヨハネの福音書、4章23節のこの箇所は、私たちを初めの場所へと連れ戻してくれます。新しい時代の始まりです。イエス様は、女に言われました、『時が来ます。今がその時です。』ここで主は、それまで存在していたあらゆる制度体系を退けてしまいます。それは、旧約聖書に則ったユダヤ教という大きな体系でした。ひとつの言葉で、主は信じられてきた摂理を消し去りました。そして、主は、根底から変えられた新しい秩序をもたらしました。

主は、何を言おうとしていたのでしょう?主が、時が来ようとしており、今がその時であると言われた時、実際に、ある時刻を示していたのではありません。主は、新しい日が始まる時が来たと言われたのです。この時、完く新しい日が訪れたのです。新しい日とは何でしょう?イエス様に、短い文章で説明して欲しいと頼んだら、『わたしがここにいるということです』と言われたでしょう。ここでいう時とは、特定の時間ではなく、『人』のことなのです。新しい時代とは、イエス・キリストの時代です。キリストこそが新しい時代です。『わたしはここにいる』と、主は言われました。ヨハネの福音書を読み通してみてください。主は、ご自身をすべての中心に置かれます。わたしは道です。わたしは真実です。わたしはいのちです。わたしは羊飼いです。わたしはぶどうの木です。わたしはよみがえりです。全てがこの一人のお方に向かっています。これがすべての背後にある真実です。キリスト教とは、キリストです。キリストがキリスト教です。これこそ、全てが始まるところであり、主から離れることはありません。キリスト者の生活の進歩とは、生活の中でイエス・キリストが広がっていくことに他なりません。

ヨハネの福音書の4章では、焦点は神の家に当てられています。女は言いました、『私たちの先祖は、この山で礼拝しました。』彼女が言うのは、サマリア人たちが礼拝するゲリジムの山のことです。私たちの先祖は言いました、『人間は、この場所で神を見いださなければならない。』しかし、あなたがた、ユダヤ人は言いました、『その場所とは、エルサレムにある神殿だ。』すべてのユダヤ人は言います、『神を見出したければ、エルサレムの神殿に行かなければならない。』これが彼らの考える神の家だったのです。イエス様は、これを新しい時代との関わりの中で取り上げています。主は言われます、『サマリヤでもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。今がその時です。』

初めに読んだふたつの箇所まで来ました。出エジプト記の25章8節にあります、『彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。』これは、聖書全体の偉大な真実を示しています。聖書はここで始まり、聖書はここで終わります。聖書の全体は、この一点に集中しています。聖書の始まりの部分では、神は人間のあいだに住んでいます。主なる神は園に入ってこられました。ここから、神の大きな望みは、人間とともにいることであると分かります。神が人を創られた目的は、まさしく、ご自身が人のあいだに住まわれることにあります。あなたが知らないどこか遠い場所にいる神ではなく、人間とともに暮らすために降りて来られる神となることです。このことは、いつも神の願いでした。ただひとつの目的は――歴史全体を通して――人間とともにありたいという神の願いです。

神の臨在の中にいることのすばらしさを聖書は示しています。ああ、主が臨在されることは、何という祝福でしょう。そして、聖書が語るもっとも恐ろしいことは、主が人間から離れていくことです。今日、ここにいる人は誰もが、知っているはずです。つまり、私たちにとってもっとも困難な経験は、主の臨在を感じられないことです。主が遠く離れてしまったように思える日があれば、それは、とてもとても辛い日になります。主の臨在を実感する日があれば、それは人生で最良の日です。古い時代の主のしもべが言ったことを覚えているでしょう、『もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。』彼にとって、神なしで出かけることは考えられませんでした。主は言われます、『わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。』こうして、彼らは、進んでいくことができました。

主の臨在こそ、すべてに勝って大切なことです。今からそのことを説明しますので、よくお聞きください。主がモーセに、『彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む』と言われたとき、主は、もちろん、幕屋、荒野に建てられる幕屋のことを言っていました。そして、神は、彼らに幕屋に関わるすべてのことについて、指示を与えました。そして、幕屋が示された型のとおりにできあがったとき、神が降りてきて幕屋を満たしました。神は、人々のあいだにご自身を『現された』のです。

ここで、ヨハネ1章の14節についてお話しします。これからは、少しだけ聖書の勉強になります。ヨハネの福音書を開いて、旧約聖書への言及がどれだけあるか、数えてみてください。ヨハネはユダヤ人であり、旧約聖書に精通していました。そして、彼が何かを書くときはいつも、旧約聖書から何かを引用しています。これを知っておくことは、非常に有意義です。今は、これだけをお伝えしておくことにします。彼は自分の福音書をこう始めています、『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。』彼が使う言葉に注意してください。『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた(tabernacled)。』これが原語であり、すなわち、神は私たちのあいだに幕屋(tabernacle)を作られたのです。ヨハネの頭の中では、イエス様は荒野に置かれた幕屋に結びつけられていたのです。この節でヨハネが言ったのは、神が、かつては荒野の幕屋に入って人のあいだに住まわれたように、『神は御子、イエス・キリストにあって、人のあいだの幕屋に入られた』ということです。この時代における神の幕屋とは何でしょう?それは御子です。神の家とは何でしょう?イエス・キリストです。主の教会とは何でしょう?そう質問されたら、あなたがたは紙にどう書くでしょうか?もし、一枚の紙に、『主の教会とは何ですか』という問いへの答えを書きこむように言われたらどうでしょう?いったい、何が返ってくるでしょうか。誰かが、教会のすばらしい真実を体系立てて示してくれるでしょう。現実の教会が持つすばらしい秩序をです。答えは簡単です。主の教会とは、イエス・キリストであって、それ以下でも、それ以上でもありません。キリストがたくさんの人の中にいたら、そこに教会が形成されます。教会を作るのは、私たちの中のキリストであって、教義が第一ではなく、実践が第一でもなく、人が集まって行う何かでもなく、何よりも先に主のご臨在です。集まった人たちの中の主のご臨在が、教会を作りだすのです。

しかし、これまで話してきたのは主の教会(the Church)であったことに、ご注意ください。私が考えているのは、全世界に広がる教会のことです。この教会に、地理的な区分はありません。お分かりですか?それは、この山にも、エルサレムにもありません。主の教会に決まった場所はありません。主の教会に時間はありません。今、ここでは午前9時近くです。イングランドでは8時間前です。9時から8時を引けば1時です。あの国では、ほとんど深夜なのです。更に西に進めば、もっと早くなります。しかし、主の教会ではそのようなことはありません。主は絶対に眠らないお方です。闇も光も、主にとっては同じようなものです。天国には昼も夜もありません。主に時間は存在しません。私はそのことを、とてもうれしく思います。このことは、今は置いておきましょう。また、別の時に、他の何かとの関わりでお話しできるかもしれません。

話を戻したいと思います。キリストは、どんな時も、どこにいても同じです。ですから、主の教会も同じです。教会には、アメリカ式も英国式も中国式もフィリピン式も、何もないのです。主はそんなことは気にも止められません。主にとって大切なのは、ただ心の中に主の居場所があることで、それが世界のどこにあるか、今は何時であるかということはどうでもいいのです。主の教会は、その性質をキリストから受けています。『主の教会はキリストに由来します。』この私が主の教会の中にはいないと言うためには、キリストが私の中にいないことを証明しなければなりません。誰であれ、内にキリストが宿っている人に対して、その人が主の教会には属していないなど言うことはできません。お分かりですか?あなたの考えも同じですか?私たちは、キリスト教の背後から、キリストへと戻っています。人が教会と呼ぶものの背後から、キリストへと戻るのです。

これまで、主の教会(the Church)のことを話してきたので、ここからは世の多くの教会(churches)について話すことにします。世の教会とは何でしょうか?ここで、私たちは多くのことを考え直して、考え方を根本的に変えていかなければなりません。使徒たちの願いは諸国に出て行って教会を形することであったと、多くの人が信じ込んでいますね。例えば、使徒パウロに与えられた仕事は、世界中のあちこちに教会を建てることだったと、考えている人たちがいます。パウロの本当の目的は、アジア、ビテニ、そして、ガラテヤへと出て行って、教会を形成することでした。多くの人は、教会は至るところにあるべきだと考えていました。あなたもそう思っていますか?もし、そうなら、全く間違っています。真剣に考えてみてください。そうすれば、考え方が根本的に変わることになるからです。

パウロと使徒たちは、自分の仕事は何だと思っていたのでしょう?教会を作り出すことでなかったことは確かです。彼らは、キリストをあらゆる場所へもたらすことが自分の役割だと信じていました。新約聖書のどこかで、使徒が知らない土地に着くなり、『私たちは教会を立ち上げるために来ました。主が私たちをこの地に送ったのは、教会を作るためです』などと言っているところがあったでしょうか。新約聖書の中でそんな場面を探そうとすれば、むだな時間を費やすことになります。そんなことは、書かれていません。私たちが聖書にあると思いこんでいるが、実際にはどこにも書かれていないことは、他にもたくさんあります。聖書のどこにもないのに、書かれていると教えられるようになったこともあります。そんなことは、書かれていないのです――福音に戻ってください。『弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始めた。』そして、また、『主は、ご自分が行くつもりのすべての町や村へお遣わしになった』とあります。主のこの原則は変わっていません。主は、教会を形成するためにとか、キリスト教を設立するために、私たちを送り出すことはしません。主が、私たちを遣わすのは、主ご自身をもたらすためです。とは言え、世の教会には何の意味もないというわけではありません。しかし、ここで、重要な点になります。教会とは何でしょうか?教会とは単に、主ご自身がいるところに、キリストのもとに集まった人たちのことです。至上のものとは、神へのこの永遠の思い、主のご臨在です。主の臨在、これこそが教会と呼ばれるものの目的です。これが、ただひとつの目的です。

旧約聖書には、幕屋があり、神殿があったことを覚えているでしょう。そして、主が神殿から退いたとき、それはもはや神聖な場所ではなくなりました。神にとって、その存在はもはや、どうでもよいものになりました。それは、中身のない殻でした。主は関心を失いました。これが、主イエス様がエルサレムの神殿で言われたことばの意味です、『あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。石が積まれたまま残ることがないときが来ます。』これは、神の臨在が去るまでは、きよらかであったかものが、今や道端の石と何の違いもないのです。これこそ、主がアジヤの教会で言われたことにつながります。主は言われました、『わたしは、あなたの労苦と忍耐をすべて知っている。わたしはあなたがたのキリスト教義も全て知っている。わたしは、あなたの働きもすべて知っている。しかし、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もし、しないならば、わたしは、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。』初めのものがなくなったら、そこにはもう、何の意味も目的もありません。

初めのものとは何でしょう?教えでも、教理でもありません。特定のキリスト教の実践でもありません。あなたがたの会合を続けていくことでもありません。それは主の臨在です。初めのこととは、人々が外から入ってきて言ったことです、『神があなたと共におられる。』彼らはひれ伏して、『神が、あなたとともにある』と言ったとあります。旧約聖書に戻ると、主が幕屋と神殿を満たしていたときは、司祭でさえ外に出たとあります。司祭たちは、主の臨在にとどまることはできませんでした。彼らは、人間に過ぎなかったのです。罪深い人間でした。そして、人間であるからには、主の臨在の中に居場所はありません。ああ、人間は、キリスト教をなんというものにしてしまったのでしょう。キリスト教の中では、人間が全てとされてしまいました。私が時々、呼ばれる場所があります。私は、そこで会衆へと紹介されます。私を紹介する人は言います、『オースティン・スパークスさん、欧州から来られた偉大な聖書の先生です。』他にもいろいろとあります。私は心が沈み、気分まで悪くなります。私は立って言わざるを得ません、『そんなことに注目しないでください。私などどうでもいい。主が全てです』と。神の家に、人間のいる場所などありません。私たちは、自分を大切にして、自分の力で神の家に入り、私たちの手、心、意思でものごとに取り組みます。私たちは、神の家全体の性質を変えているのです。そうなると、主に制限を課すことになります。実際に、主はご自身の思うままに動けなくなります。ご自身が神の臨在そのものであったキリストは言われます、『わたしは心優しく、へりくだっている』と。

一点、述べて終わりにしますが、前に、私たちは信仰の基盤について教えを受けるためにここにいると申し上げました。私は、あなたがたに対して誠実でありたいと願っています。すべてが天から揺り動かされる日が来ようとしています。キリスト教は、中国大陸でひどく揺り動かされてきました。そして今や、キリスト教という制度は、実質的にはなくなりました。ただひとつ残っている真実は、主から来て人々の心の中にあるものです。世界のあらゆる場所が、このように揺り動かされています。聖書がそうなると語っているのです。キリスト教はひどく揺り動かされることになります。主の臨在であるものだけが残ります。おそらく、会合はなくなり、不可能となります。キリスト者たちの交わりは、極めて困難なものとなるでしょう。おそらく、み言葉を述べ伝えることは止められます。外面的なものは消え去るでしょう。そして、残るのはこの問いかけです、私たちは主を得たのでしょうか?私たちは、主を知っているのでしょうか?主は、私たちとともにおられるのでしょうか?間違いなく、主はこのように問いかけてきます!主は多くの場合、個人に対してこの問いかけをされます。私たちのキリスト者としての生活が、外面的なものに依存していたら、主は私たちをそこから切り離すでしょう。主は、よくそのようにされます。そして、大きな問いは、私はどれだけ主を得たのかということです。それは、初めのものであるがゆえに、究極の問いかけでもあります。愛する友よ、覚えておいてください、『どの教会も、主の臨在によって試されることを!』教会がそこにあるとか、ここにあるとかではなく、この方式を取っているとか、あの流儀でやっていといったことではありません。そこに、どれだけ主を見い出せるかということです。人がどれだけ、主を見い出すかということです。そして、より大きく主を見ることは、人間をより小さく見ることを意味します。

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