2020年4月30日木曜日

【Daily Open Windows】4月30日

四月三十日

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ四・十三)

とどまるとは、どういうことでしょう?キリストのうちにとどまることは、これまでに何度も言ってきたように、私たち自身の中にとどまることの反対です。自分自身の中にとどまるとは、この生活、あの主への奉仕を、自分自身の力だけで行おうと試みること、それを行うことを助けてくださいと主にひたすら願うだけで、神を満足させた主のいのちが既に完成されたことも、信仰こそがキリストにある完成を助けることも認めようとしないことです。キリストのうちにとどまるとは、ただ単純に、何をするにしても、何を満たすにしても、それがキリストから生じるものとして行うということです。それは確実な土台です。そこで、『それができるだろうか?私にできるだろうか?』とか、『私には、はっきり分からない』などと自問したり、論じたりする必要はありません。それは、必ずできます。主イエス様は、あなたや私がこれから出会う全てのものに、すでに会われていますし、あらゆることにおいて、必要なことをなされたのです。主がなされたことを、信仰は用いることができまし、また、信仰はこう言います、『そう、私自身の中ではこのことは愚かなことだし、それを試みるのもばかげたことではある。私自身について言えば、じっくり考えるだけでも愚劣ということになるだろう。しかし、それは絶対に実現できる。なぜなら、すでに行われているからだ。私は、この要求を満たすことができるし、あの問題に対抗できる。苦しくても持ちこたえることもできるし、私にはあれもできる。――「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです(この『どんなことでも』とは実に大きなことばです)。」』私たちの力、食物、滋養の隠れた源としてのキリストとは、まさしくこのようなものです。これは学校であり、私たちが前向きなかたちでこの授業を受けるところです。・・・

2020年4月29日水曜日

【Daily Open Windows】4月29日

四月二十九日

唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。(第一コリント八・六)

救いとは、ただ、魂を助け出すだけではなく、その魂を、キリストの完全さへと向かう道に乗せることでもあります。本当にみ言葉と御霊の中にある務めの全ては、この目的に支配されています。そして、ただ救われて、そこに留まるだけでは、み言葉の目的を果たすことはできず、聖霊の活力を十分に得ることもありません。『主の働き』と呼ばれるものの中で、この世界のどこかに出かけていくなら、私たちは次の目的に支配されていなければなりません。すなわち、その場所では、キリストの完全さに届かないものは存在しないようになり、また、可能な限り、キリストがすべてであって、全ての中にキリストがいるようになることです。これが最終的で、完全で究極的な目的です。キリストから切り離されることも、キリストと分かち合うこともあり得ません。全てであるキリスト、全ての中にいるキリストでなければなりません。これが聖霊の狙いであり、目的であることに気づくとき、私たちの人生と務めの進む道もはっきりと定まります。それは、全てに当てはまるものです。

2020年4月28日火曜日

【Daily Open Windows】4月28日

四月二十八日

自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行なう。(ダニエル十一・三十二)

働きを続けるために、あなたは信者の大会や教師たちに、大きく頼っているのではないでしょうか?あなたは、最後に仕入れた材料を使い切ってしまい、何か、新鮮なネタを手に入れなければいけないと感じていて、そのために会合に出席し続けるのですか?それとも、あなたは、『自分の神を知っている』がゆえに、人の支えから完全に解放されて、栄誉ある孤立という場所に置かれたのでしょうか?そうなれば、サハラ砂漠の真ん中に取り残されたとしても、心配することはありません。神を知っているあなたは、周りからの助けに頼らなくても生きていけるから――このような者に『あなた』は変わったのです!これは、力を生み出してくれるような知識です。それは、この世に打ち勝つという経験です。これこそが、他のあらゆる制度を終わらせるものであり、あなたは、その上に、勝利に満ちて立つことになります。これが、使徒の時代の教会の奥義でした。王たちにはやりたいようにやらせておこう、民衆に立ち上がらせよう――これが続けば、それによって砕け散るのはローマ帝国であって、こちら方が、ローマ帝国の前に沈み込むことは決してない。これは、何ものにも依存しない自分だけの神の知識であり、この知識は、内なる誕生の結果として生まれたもので、今も生き続けています。主観的な真実というだけではなくて、客観的な力でもあり、それは、既に知っている真実のもっとも小さな断片が、その力を発揮して、生き生きした個人的な経験に変わるすばらしい日です。私たちが望むものは、まさしくこれです。自分の経験から直接、学んだ知識であって、伝え聞いた事実ではありません。神がこの知識を、私たちの存在の中へと注ぎ込み、私たち自身の一部としてくださいますように。断片的にでもよいので、これを受け取って、この知識をあなたの中で働かせて、あなたの中で生かしてくださるように、主にお願いしてください。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年4月27日月曜日

【Daily Open Windows】4月27日

四月二十七日

わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。(イザヤ四十八・十)

悩みの炉は、信仰によって、キリストの中にいる者たちのためにあります。悩みの炉の中では、何が起こるのでしょう?火の中で変えられるものとはいったいなんでしょう?火の中で練られるのはあなたや、私でしょうか?あなたは火の中で練られるのでしょうか?私は悩みの炉の中で練られるのでしょうか?違う、絶対にそうではないと、私は言いたい!!もし、『そのとうりだ!』と言うのなら、悩みの炉、るつぼの中の金属を溶かす炎を見てみましょう。あなたはその金属をどうするのですか?あなたはこう言うでしょう、炎を熱く燃え上がらせれば、あらゆる不浄、堕落が表面に浮かび上がってくる。これを漉し取り、この作業がすべて終わったとき、そこには純粋な金が残されるのだ!そして、あなたが、これこそ、あなたの姿であり、私の姿であると言うなら、あなたは堕落についてこれまで学んできたことを全て捨てて、結局、自分たちの中には良いものがあると主張していたところまで、戻ることになります!あなたは、自分の中には良いものも、悪いものもある、そして、悩みの炉とは、私たちの中の悪いものを取り去り、良いものを残すためのものだと、言いことになります!これは正しい教えでしょうか?違います!

2020年4月26日日曜日

【Daily Open Windows】4月26日

四月二十六日

したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。(ヘブル四・九)

多くの読者には、ずっと昔、来た道に戻り、また、広く漠然とした世界に出て行くかのように聞こえるでしょうが、私たち、キリスト者は、自分たちのキリスト教と絶えることなく対峙し、その挑戦を受けていると、私は言いたいと思います。私たちの多くは、まだ、本当にキリスト信仰の中へと入ってはいません。どういう意味でしょうか?まずひとつは、キリスト信仰に入る扉とは、まさしく、休息の扉であり、それは、信仰が与える休息であるということです。主がこの事実を、非常に単純な言い方の中に、この訴えを込められた御言葉がこれです――『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます』(マタイ十一・二十八)。群集に向けられたこのことばは、救われていない人たちに福音を伝える中で、よく用いられるものです。主がこのことばを用いられた意図とは、このヘブル人への手紙の中で語られています。それは、広く理解されているように、『わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます』という単なる招きのことばではなく、そこには、はるかに深く、豊かな意味が込められています。『こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。』(ヘブル四・九)というこの一文には、私たちが聴き取り、見抜かなければならない何かが隠れているのです。

2020年4月25日土曜日

【Daily Open Windows】4月25日

四月二十五日

神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。(第一ヨハネ5:20)

主の子供たちにとって何よりも大切なのは、彼らが主を知ることこそが、他の全てに勝る主の目的であると、完全に理解することです。これこそ、主の私たちへの関わりの全体を支配する最終目標であると言えます。これが、私たちの全ての必要の中で、もっとも大きなものです。・・・・私たちの心が奉仕と働きでいっぱいになってしまうことはよくあります。主のために何かをすることを、人生の主要な目的と考えてしまうのです。人生を通した働き、務めとは何であるべきかということが、いつも気にかかっています。そのための手段として、何かを学んだり、知識を得ることを考えます。魂を獲得すること、信者を教えること、あるいは、人を働きに着かせることが、いつも前面に置かれます。キリスト教徒としての奉仕を効果的に進めるいう目的を念頭に置いて、聖書を研究し、また、各書の知識を学ぶことが、誰にとっても、緊急の重要性を持った問題となっています。これは悪いことではありませんし、確かに重要な問題ではありますが、その全ての背後で、主が他の何よりも大切にしているのは、私たちが主を知ることです。聖書を非常によく理解し、教義にその全体像から細かいところまで親しみ、信仰の根本的な真実さを守ろうと務め、休むことなくキリスト教の奉仕に参加し、人を救うために大きな献身を行いながら、それでもなお、ああ、心の内側にある個人的な神の知識は、不適切で限定されたままということも、大いにあり得るのです。ご自身を見出すために、主が私たちから働きを取り去らなければならないこともよくあります。全てのことの究極の価値とは、私たちが与える情報ではなく、私たちの教義の完全さではなく、私たちが行う働きの多さでもなく、私たちの心にある真実の大きさでもなく、ただ、私たちが主を深く、力強く知っているという事実にあるのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年4月24日金曜日

【Daily Open Windows】4月24日

四月二十四日

金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。(使徒行伝三・六)

新しい天的なイスラエルに属する者とは、自分の利益を追い求める心から解放されて、神の利益を願うようになった人々であり、彼らは、足にイエス・キリストによる霊的な履物を付けて、主とともに進む道を力強く歩いています。五旬節の日の後に行われた第一の奇跡が、エルサレム宮の門で、生まれつき足なえの男を立ち上がらせたことだったのは、非常に象徴的なことだったと思いませんか?美しい物語を集めて、一冊の興味を惹く読み物を作ろうとしたわけではないのです。神は明確な目的のもとに行動されているのであり、キリスト者の時代の第一の奇跡を、この足なえの男の癒しとすることによって、この新しいイスラエルの人々は、不自由な体から解放されて、霊的な履物を着けた者となったことを、神は伝えているのです。キリスト者が、自由に動かせないところはたくさんあります!彼らは、自分の足で立ち上がることができないし、他の人たちが彼らを立たせることもできません。ためしに、彼らを立たせようとしてみなさい!一、二歩は歩くかもしれませんが、すぐに倒れこんでしまいます。このような人たちはたくさんいて、あなたが一生かけて、彼らを自力で立たせようと試みてもむだなことです。彼らの人生を蝕んでいるものは、いったいなんでしょう?何が彼らを歩くこともできないほど、不自由な体にしているのでしょうか?それは自分を中心とする思いです。間違えようもなく、それは何かのかたちを取った自我の現われです。人からの注目を欲する自我です。自尊心というかたちで現れる自我です。この哀れな男が解放されたのは、自分の無力さを知って、イエス様の言われたことを信じたからです。彼はイエス・キリストのすべてを信じるものとなったのであり、つまり、自分自身により頼むことをやめたのです。そう、これが奥義です――私たちが、惨めな自我に背を向け、自我に捕らわれることを辞めて、きっぱりとこう言い切ることです、『私はもう、お前とはかかわりはない、捻じ曲がった自我よ。私は、自分の全てをイエス・キリストへと委ねる。自分を引き渡すというこの大きな一歩を、踏み出すのだ。』イエス様は決して、このような人を失望させません。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年4月23日木曜日

【Daily Open Windows】4月23日

四月二十三日

確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。(第二コリント十三・四)

神の働きの世界に何よりも大きな傷を与えるもののひとつ、いずれは必ず恥と混乱と大きな悲しみへと導くものとは、生まれたままの魂の力であり、この力に頼って生きようと勧めているのは、強い意志と堅い決心を持った積極的なキリスト教徒たちなのですが、彼らはまだ、断固とした不屈の意思、個人的な決意、決断と、これとは根本的に違う別の力、すなわち、忍耐、粘り強さとなる霊的な恵みや、神による内的な強めを、はっきり区別できるだけの、霊的な状態に達していません。後者が働く場所を作るために、主が、前者を打ち砕かなければならないことがよくあります。全てをやり遂げるパウロの意志の力を褒めたたえてはいけません。パウロには、働きを続けさせてくれる主の恵みのすばらしさについて語ってもらいましょう。

2020年4月22日水曜日

【Daily Open Windows】4月22日

四月二十二日

だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。(マタイ十一・六)

神のみことばは、私たちが主のゆえにつまずく可能性があることをはっきり認めています。みことばのどこにも、その可能性が生じるべきではないとも、決して生じないとも書かれてはいません。私たちが、主につまずく状況に陥ることはないなどと、主は一度として言っていません。こうして主につまずいたり、主の上に倒れたり、主のせいで身を落としたり――望むなら、主のために砕かれる機会は、「いくらでも」あることを、主は、「既に」はっきりと示されました。このようなことが起こる状況、あるいは、機会は、これからも数多くあるでしょう。そうならないと、主が一度も言っていません。このことは、私たちも理解しておいた方がよいでしょう。

2020年4月21日火曜日

【Daily Open Windows】4月21日

四月二十一日

あなたは心のうちの真実を喜ばれます。(詩篇五十一・八)

私たちの霊的な歴史が進んでゆく中で、神の私たちへの関わり方は、常に深くなっていきます。奥へ、奥へ、奥へと神は進まれ、奥底にふれると、私たちの心の深みで真実を与えてくれます。神は、私たちの職業、教義、思い込み、自負、幻想、そして、習慣などを全て、無用なものとして切り捨てます。・・・・ここには、単なる形式主義などありません。この中にユダヤ教の儀式はなく、外向けの儀式や典礼をただ守ることも、そこにはありません!まったく違います!それは、もっとも奥深いところにある存在、心の内側へとまっすぐに向かっていかなければなりません。神は、そこを目指して働きます。神はいつも、もっとも内側の部分に向けて働きかけています。このことが分かっていますか?神が、私たちにしていることを、理解していますか?ああ、詩篇一篇にある男のように、神の前を歩くとき、神は、ある特定の深さで、祝福をもって、私たちの前に現れます。

2020年4月20日月曜日

【Daily Open Windows】4月20日

四月二十日

まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。(ヨハネ六・五十三)

この道は、肉にとって、生まれたままの人間にとっては、非難を浴び続ける道であることを覚えておきましょう。ユダヤ人たちは、『この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか』と言って、互いに議論し合いました。しかし、それはユダヤ人たちだけではなく、宗教的に自己満足しきっていた敬虔な人たちも論じ合いましたし、また、こうも書かれています、『そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。』

2020年4月19日日曜日

【Daily Open Windows】4月19日

四月十九日

あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。(ガラテヤ三・三)

ガラテヤ人への手紙が何について書かれたものか、また、この手紙にある二つのひときわ目立つ単語のことも、あなたはよくご存知でしょう――自由――『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい』(ガラテヤ五・一)――そして、子としての身分という二つです。しもべとしての身分ではなく、奴隷の身分でもなく、息子としての身分、息子の自由です。この二つが、この手紙にあって大きな意味を持つ単語ですが、では一方で、そのガラテヤにある重苦しい縛りとは何でしょう?伝統、律法主義、そして、そういったもの全てが、その重苦しい縛りです。ご存知のように、愛する友よ、誰でも簡単に、このような重苦しい着物を着せられ、身動きできなくなってしまうものです!キリスト教の時代全体を通してずっと続いてきた危険とは、それ自体を何か、定まったもの、変えてはいけないものとして結晶化してしまうことです。あなたには、いくらかの光、いくらかの啓示、広大な真実の一部分、真実のごく僅かな一片が与えられますが、しばらくすると、あなたは、そこから固定した制度を形成し始め、それを超えてはならない限度と定めた上で、人が信じるべきものはこれだ、誰もがこの定めの内側に入って、このとおりに振る舞わなければならないと語り始めます。ここでもまた、制度化してしまうのです。『こうしなければならない・・・こうしてはならない!』これと旧約聖書の『汝・・・すべし、汝・・・なかれ』と何の違いもありません!

2020年4月18日土曜日

【Daily Open Windows】4月18日

四月十八日

訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。(ヘブル十二・七)

主が、あなたを働きの場から外して、何もできないところに閉じ込め、辛い思いの中であなたは、主が自分を見捨てた、すべてが失敗してしまったとしか言えない、そんなことがあるかもしれません。これは、いったい、どういうことでしょう?なぜか、痛みはひどくなっていくばかりです!痛みが拡がっていくことが、誰の目にも明らかだったのではないでしょうか?長い目で見れば、そこに間違いはなく、すべては正しかったのです。それまで、いろいろなことで生活が忙殺されてきたあなたですが、今は、主を知るようになりました。周囲から切り離されたあなたは、主を心の内側で知るようになって、霊的に有能な者に変わり、この力の大きさのゆえに、今ではあなたは、外的な状況にもうまく対処できるようになりました。主は誤解されてきましたが、実は、あなたを有能なものとするために働いており、有能さを高めるために私たちを訓練してきたのです。次第に大きくなっていく痛みは、つらいものです。あなたは、大きくなる痛みで苦しんでいる人を助けることはできず、彼らの苦しみを、横で見ていることしかできません。

2020年4月17日金曜日

【Daily Open Windows】4月17日

四月十七日

そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いた。(ルカ二十四・二十五)

今日の世界の状況を深く考えるとき、私たちは、霊的な盲目という病弊が広がっていることを、まざまざと見せ付けられ、暗澹たる気分にさせられます。これは、現代の病根です。今の世界を苦しめている問題の、全てではないにしろ、大部分がこの病根、すなわち、盲目という病までさかのぼることができると言っても、あながち、間違いではないでしょう。大衆は盲目であり、このことに疑いはありません。これまでにない啓蒙の時代となるはずだった日が来たのに、大衆は盲目のままです。・・・・指導者も盲目であり、盲人を支配する盲目の指導者たちです。しかし、大きな意味で言えば、主の民にも同じことが言えます。ごく一般的に言えば、キリスト者たちは今日、まったく盲目となっています。新しく見ることは、そのひとつひとつが天から来る御業です。それは一度だけで、完了するものではありません。

2020年4月16日木曜日

【Daily Open Windows】4月16日

四月十六日

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。(ヨハネ六・六十三)

神の目的の全体像を知り、また、理解して、自分をその目的に明け渡すことと、神がどのようにしてその目的を実現するのかを知ることは、まったく別の問題です。主が用いる手段を知ることは、さらにまた、別の問題です。多くの人々が、神の目的とは何か、その真の全体像を把握していながら、そこで用いる手段が、神の手段ではなく、そのために働きを始める道も、主の道ではないために、主が自分を支えてくれないことに気づきます。彼らは、正しい方向を向いているのかもしれませんが、主と同じ方法や手段を用いていないために、働きの責任を自分で引き受け、そのために必要な手立ても自分で見つけるしかないと思い込んでしまいます。こうして、多くの場合、彼らは気が付けば、消耗し切って、行き詰ってしまい、そして、神の働きを続ける備えを、あらゆる方法と手段を使ってかき集めるしかなくなりますが、これは、神ご自身からの手助けを、本当に享受していないからです。神の働きは彼らの肩の上の重荷となり、そして、そのようなかたちでしか、主には命じることはできません。なぜなら、彼らと、主のやり方、主の方法、主の手段、主の時間、そして、細部に至る主の目的は、完全に分かち合い、完全に一致していることがないからです。

2020年4月15日水曜日

【Daily Open Windows】4月15日

四月十五日

私たちの資格は神からのものです。(第二コリント三・五)

私たちは、神の御手の下で、試練と試みの時を通りますが、そこで、誰もがこんなふうに言いたい気持ちに陥ります、すなわち、『主は私たちを求めていない、主には私たちなど必要ないのだ!』私たちは、全てを投げ出し、後はどうでもいいという気持になります。試みのもとで心も押し潰され、自分は役に立たないものと決めつけます。こんな人間のところに主が来て、召し上げることがあるとは、とても思えません。すっかり意気消沈したエリヤは、荒れ野へと逃れ、山奥の洞窟に隠れました。しかし、他のどこかに行かなければ、主が彼に手を差し伸べることはできなかったのです。『エリヤよ。ここで何をしているのか』(第一列王記十九・九)。人が絶望の中にある時、主は決して、そのもとに来て、新たな働きを委ねることはしません。『神は、あなたのすべてを赦してくださいますが、絶望だけは別です』(F・W・H・マイヤー、『聖パウロ』)――絶望とは、神への信仰を失うことであり、神は、信仰をなくした人と一緒に何をすることもできないからです。・・・・多くの主のしもべたちにあっても、その生まれつきの性質から、多くのことが成されますが、たいていは悲劇的な結果に終わります。パウロから生まれたものは、数多くあります。『パウロとは、生まれたときから何と偉大な男だっただろう。なんと深い知性を持ち、多くの訓練を重ね、何と大きな能力を持っていただろうか!』これは、全て事実かもしれませんが、しかし、霊的な困難に直面したとき、それが彼にとって何の役に立ったか、パウロに尋ねてみなさい。パウロはこう叫びます、『いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか。』『わたしたちのこうした力は、神からきている。』(第二コリント二・十六、三・五口語訳)。パウロは、モーセと同じように、生命さえあきらめるほどの経験を通されました。彼は言いました、『自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした』(第二コリント)。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年4月14日火曜日

【Daily Open Windows】4月14日

四月十四日

私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(ピリピ四・十九)

神は、御父としての責任を担い、自分が負ったその責任を御子の中に、また、御子を通して果たすようにされました。キリスト者のことばの中で、これをどれほど大きな事実と捉えているのか、ピリピ書、四章十九節に見てとれます。これが意味するのは、認められたキリスト、知られたキリスト、キリストの中の神、そして、私たちが世から完全に離れて、主とともに立っているこの土台です。しかし、注意してください、これは神の贈り物です。主は言われます、荒れ野でマナを与えたのは、モーセではなく、御父であると。ですから、それは人の労苦の成果ではなく、神の恵みから生じたものです。あなたは、霊的な成長のために、骨折りを重ねているのですか?私たちは、自分の霊的な計りと霊的な水準を高めようと、どれだけ努力し、苦しんできたことか。自分の霊的な生活を守っていくこととの関わりの中で、私たちはどれだけの重荷を背負ってきたでしょう!私たちは、霊的な生活を送る責任は全面的に自分にあると考え、その責任は、祈りの中の自分の辛苦、神のみ言葉の中で受ける苦役、主への奉仕の中の労苦、自分の努力、自分の懊悩によって果たされると信じ込んできました。

2020年4月13日月曜日

【Daily Open Windows】4月13日

四月十三日

主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。(ヘブル十二・六)

息子とされることの目的とは何でしょう?それは、私たちを霊的な責任を持つ立場へと導き入れることです。神は、決して、『公職にある人たち』に責任を課すことをせず、息子たちに託します。このために、神は、子供として訓練することによって、私たちの中に息子としての資質を育み、神の責任を担える立場まで私たちを導かなければなりません。神は、霊的に成熟した状態、完全な成長へと、私たちを至らせようと願っています。これは、人を聖書学校に入れたり、『聖職へと』つけることによってできるものではありません。神は絶対に、公職の側に立って働くことはされません。ああ、そうです、神は、まさしく私たちをご自身の学校へと導き入れます。神はまた、私たちを、この世の訓練機関のようなところで、ご自身の学校へと導くこともできます。神がそうするなら、それもまた祝福されたことです。

2020年4月12日日曜日

【Daily Open Windows】4月12日

四月十二日

(神が)御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず・・・(ガラテヤ一・十五)

もしパウロが、使徒たちのところへ相談しに行っていたら、彼らはなんと言ったか、私にはわかりません。しかし、パウロに与えられていた啓示が、使徒たちには与えられていなかったこと、また、パウロが受けていた召しが、使徒たちにはなかったこと(彼らの召しは、異邦人に御子を宣べ伝えることではなかったこと)を考えると、彼らは、ただ、つつしみ深く、また、用心深くあるように助言していたのではないでしょうか。彼らは、だまされたり、うそを教えられていないか、よく考えるようにと、パウロを諭したかもしれません。このようなことは、それまで、起こったことがなかったからです。・・・

2020年4月11日土曜日

【Daily Open Windows】4月11日

四月十一日

この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。(第一コリント三・十三)

あなたが主を愛していることには、何の疑いもありません。私は、そのことに疑問を呈しているのではありません。しかし、ここでもう一度、言いますが、私たちはある大きな制度の中に組み込まれてしまっており、これは、実に複雑極まりない制度で、その大部分は主から来たものではないのです。それは、人が生み出した何かです。人間が、主から来たものに手をかけて、自分で考えた通りに作りかえてきたため、人から来ていて、主からは来ていないものが、非常に多く入り込んでいます。そして、私たちが、このように言うときは、キリスト教全般について考えているだけではなく、自分自身のことも考えに入れています。これは、私たちについても、当てはまることです。私たちは皆、キリスト教と呼ばれるものへと入ってきて、キリスト教から何かを受けとった者たちですが、今は、自分の中からたくさんのものを取り除いて、単純で根本的な現実へと立ち返らなければならないのかもしれません。そして、あらゆる現実の中で、もっとも根本的な現実とは主の臨在です。私たちが知るべきなのは、主が私たちとともにおられること、私たちが行うすべてのことの中に主がともにおられること、そして、これは、私たちの頭の中で生まれた考えではないということです。それは、私たちの意志から生じてきたことではないし、私たちの感情の中から生まれたことでもありません。私たちの魂から出てきたものではなく、幕屋と同じように、あらゆる細部にいたるまで、主から来たものです。イエス・キリストと同じように、それは、すべての細部に渡って、神から、私たちのもとへ来なければならないのです。

2020年4月10日金曜日

【Daily Open Windows】4月10日


四月十日

私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなりました。(第二コリント一・八)

主イエスは言います、『わたしはぶどうの木です。』そして、神が一人で酒ぶねを踏むことは、初めから預言されていました。十字架こそが、主の酒ぶねでした。主はどれほどひどく、十字架で踏みつけられたでしょう!主は、打ち壊され、ばらばらにされたのですが、その砕かれた残がいから、あなたと私が持っている主のいのちが生まれたのであり、また、あらゆる国々で多くの者たちが、その同じいのちを受けたのです。これは、ある意味、主の教会に対しても当てはまります。主のいのちが世に来たのは、教会が押しつぶされ、壊されたその中からでした。そして、このぶどうの木の全ての部分、全ての枝にも同じことが言えます。この生きた本物の働きを私たちも果たそうと思えば、それは必ず、苦しみを通して、酒ぶねを通して、圧迫を通して、そして、壊されることを通して行われることになります。パウロは、『私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受けました』(第二コリント一・八)――しかし、この男が受けた圧迫から、主のいのちがどれだけ、生まれたでしょう!正にこのとおりなのです。ここで言っているのは、説教したり、聖書を教えることではなく、私たちを通して、ご自身のいのちを与えるという、キリストの大きな働きのことです。説教を通じて、また、教えることを通じて、あるいは、生きることを通して、人に何かを伝えることはできるかもしれませんが、主のいのちについて言えば、それは苦しみという経験を通して、生まれてきます。苦しみを味わったことのない説教師や教師が、主のいのちを伝えることはできません。これは確かにあまり 心地よい見方とは思えないでしょうが、真実です。最良の医師、看護婦とは、苦しみがどういうものか、自分で知っている人たちです。中にはただ、職業的に、あなたを事例のひとつとして扱う人もいます――あなたは、番号で処理される患者の一人に過ぎません。しかし、ああ!そうではなく、あなたを個人、人間として扱い、あなたのことを気をかけてくれる人たちがいます。なぜ、そうしてくれるのか尋ねてみれば、自分も大きな苦しみを経験した人たちであることが分かるはずです。彼らは、具体的にあなたの身に起こっていることについて、よく知っているわけではありません。ヘブル人への手紙のこの箇所を、誰もが読んだことがあるでしょう、『私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。・・・すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。・・・主は、・・・試みられている者たちを助けることがおできになるのです』(ヘブル四・十五、二・十八)。主が、酒ぶねという道だったのであり、私たちはそこから助けていただいたのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年4月9日木曜日

【Daily Open Windows】4月9日

四月九日

生まれながら(魂的な)の人間は、神の御霊に属することを受け入れません。(第一コリント二・十四)

第一コリントを見ると、どれだけ、魂から出る思い(soulicalism)があふれているでしょう。いたるところに、ことばの知恵、この世の知恵、さまざまな好感情と悪感情、好み、偏った愛情と嫌悪、そして、彼らのねたみが見られます。これはこの土台の上では、これは、よいものとは言えません。あなた自身の魂の生活を、キリストと結びつけることをしてはいけません。この二つを、足し合わせることはできないし、最後までひとつでいることもなく、煙とともに消えていくだけです。あなたは自分のキリスト信仰を、どう感じるかという問題にしようとしているのでしょうか?そうなれば、あなたは、種々雑多なものが交じり合ったキリスト信仰を持つことになり、そこに一貫したものはなく、まったくの継ぎはぎでしかありません。何かの問題のことで、非常によい論理的な結論に達したと思うと、そこで何かが起こり、すべてがひっくり返ってしまうでしょう。・・・

2020年4月8日水曜日

【Daily Open Windows】4月8日


四月八日

わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。(第二コリント三・十八口語訳)

ここにある『映すように見る(behold』とは、強い言葉です。これはただ、眺めているのではなく、『目を離さないでいる』ということです。これが新約聖書の中で言う、映すように見るということ、見なさいということの意味です。私たちは皆、キリストから目を離さず、主が、人としての御自身の姿の中に、神の栄光、神の満足、神の心の全てを、鏡のように映し出すさまを見ています。大切な点として、あなたも私も、主イエス様のことを霊の中でじっくり考え、そして、心は主のことで占められていなければなりません。私たちは、主とともに憩う場所として、自分の至聖所を持たなければなりません。私たちには、主と一緒の時間を過ごすための隠れた場所がなくてはなりません。そして、ある特別の季節だけではなく、どこへ動くときも、私たちの前には常に、主がおられるよう求めなくてなりません。主イエス様を見て、主のことを深く思えば、私たちも同じ姿に変えられてゆきます。聖霊は、私たちの心が主のことで占められるよう手を貸してくれます。

2020年4月7日火曜日

【Daily Open Windows】4月7日

四月七日

私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(ガラテヤ一・十二)

彼(パウロ)のキリスト者としての生活と奉仕の根底に置かれていた確信と自信は、このただひとつのことから来ていますた。すなわち、彼がイエスの中にすべてを見たという事実です。全ては・・・・、イエス様の中に。それは、何と大きな自由を彼に与えたことでしょう!何という解放でしょうか!私たちがここで繰り返して語ってきたように、熱烈で狂信的なユダヤ人であったタルソのサウロをキリスト者に、ナザレのイエスを愛するものへと変えられる力は、この世界にはなかったのです。この世界のどのような力にもできなかったのですが、イエスご自身とこうして出会ったことがそれを可能とし、実際にそれが起こったのです!彼は解放され、自由になりました!

2020年4月6日月曜日

【Daily Open Windows】4月6日

四月六日

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ五・一)

他にも、奴隷の生活から逃れて、自由な空気を呼吸している者を意味することばがあります。奴隷の身分から逃れて、自由な空気を呼吸している――この言い方は、信仰の勝利者たちの姿を実によく描写しており、彼らの有りようをうまく表現しています。私はあえて、もっと踏み込んだ解釈はしません。私たちの中には、キリスト者としての生活、人生の中でも、奴隷の身分から逃れるとはどういうことかを知っている人もいます。ああ、キリスト教の制度と秩序、期待と要求、そして、数々の古びた当番表やら決まりごという古い縛り!――こういったものから完全に自由になるということです!キリストとともに復活するだけではなく、重苦しい死に装束を脱ぎ捨て、霊的な解放という自由な空気を呼吸する!これが、ここで、『残りの者』と呼ばれる者であり、これはキリスト教の外に置かれているのではありません。これこそ、まさしく、主の教会の始まりに見られるものです。

2020年4月5日日曜日

【Daily Open Windows】4月5日

四月五日

『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。(ゼカリヤ四・六)

神殿の幕が裂けたとき、そこでイスラエルがうち棄てられたことは、大きな意味があり、目を引く事実として、あなたの心を打たないでしょうか?イスラエルは、自分たちが特別な民であるという証しを守るように召された人たちでした。キリストが来られ、あらゆる国の民への働きを完成され、そして、全ての民の中心であった垂れ幕、すなわち、神を人から隔てていたすべてのものに、今、手が下されて、そこに道が開かれました。これで、もはや民を区別する必要はなくなりました。こうして、特定の民の管理人は、民の区分とともに消えることになります。ここにあるのは、特定の民についての摂理ではありません。現実の摂理であり、よみがえられた主との天なる一致、そして、それが意味するすべてのものについての摂理です。

2020年4月4日土曜日

【Daily Open Windows】4月4日

四月四日

私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になりたいのです。(ピリピ三・十)

十字架とは、復活のいのちの終わりの場所でもあって、始まりの場所だけではないことを、はっきりと理解してください。他のことはすべて忘れても、これだけは覚えておいてください。主の十字架は、復活のいのちの始まりであると同時に、終わりでもあります、『私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になりたいのです。』多くの人がピリピ書三章を持ってきてはこう尋ねてきました、『なぜ、パウロは、キリストの死を最後に持ってきたのでしょう?どう考えても、反対にしたほうがふさわしいはずです――すなわち、「私は、まず、キリストの死と同じ状態になり、それから、キリストをその復活の力の中で知り、またキリストの苦しみにあずかることも知りたいのです」のように。』しかし、これは間違いではありません。この順序は、聖霊から来るものです。主の復活の力は、まずは死があったことを前提としていますが、よみがえりのいのちはまさしく、十字架へと導くものです。よみがえりのいのちの力の中にいる御霊は、常に、あなたたちを導いて、十字架へと、キリストの死と同じ状態へと引き戻します。死に属するすべてのものを排除するのが、主のいのちの最大の特徴です。まさしく復活の力こそが、死が絶えず打ち負かされる場所へと、私たちを引き戻すものです。

2020年4月3日金曜日

【Daily Open Windows】4月3日

四月三日

わたしはその季節にしたがってあなたがたに雨を与え、地は産物を出し、畑の木々はその実を結ぶ。(レビ記二十六・四)

花が落ちてしまうまで、実はつきません。花が散った後に来る季節は、夏であって、冬ではありません。もちろん、誰もが、その花がいちばん、きれいなときに見たいと思うでしょうし、夏のあいだずっと、花が咲いたままでいたら、どこか奇妙に感じるはずです。こう言いたくなるでしょう、『何かがおかしい、もう花は落ちている時季ではないか』と。近づいてよく見ると、その場所には確かに何かがあり、それは、約束に満ちて、はるかに大きな価値を持つものです。この咲きたての花は、いのちの兆候かもしれませんが、いのちそのものとは違います。新しいいのちの兆候は、春先に現れるものであり、それは冬が過ぎ去って、復活が始まっていることを示すものです。それは、兆候であって、いのちそのものではなく、それは霊的な幼年期とともに過ぎ去ってゆきます。初期に生じるこの熱情は、神との結びつきの本物の基礎にはなりませんが、私たちの中で何ごとかが起こったことを表す兆候ではあります。この熱情は私たち自身から出てくるもので、神から来るものではありません。神は、これとは別のものです。神は、全てを吹き払おうとはされません。主のいのちが働いており、それ自体をより強く、より深いかたちで表すことになります。・・・・しかし、もし、一方で、永遠のいのちが働いて、生まれたままのいのちから私たちを切り離し、それが私たちと神との関係の基本となるなら、他方では、そこで成されたのは、非の打ち所がないほどすばらしいことです。まさしく、『主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである』と言えます。主は、私たちの肉体にまで入り込んで、私たちが最善を尽くしてやっと可能となることよりもずっと多くのこと、明らかに今の可能性をはるかに超えることをさせます。主は、人間としての私たちが、最良の状態でさえ、まったく役に立たないことを知らせているのです。それを行うのは、主のいのちです。主のいのちは、ひとつの制度を力ずくで剥ぎ取り、別の制度を持ち込んで、その制度が拡がる道を開きます。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年4月2日木曜日

【Daily Open Windows】4月2日

四月二日

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍びました。(ヘブル十二・二)

十字架での受難は私たちが解放される道です。そして、自分が通ってきた霊的な経験のことを考えれば、神と歩いた経験を持つあなたなら、深く耐えがたい苦しみの時を通してこそ、自分が新たな解放、霊的な生活への新鮮な解放を見出したことをよく理解しているはずです。そうではありませんか?そうです、私たちは、霊の苦しみ、たましいの苦しみに責めさいなまれる時へと進んでいきます。私たちは、主が何をしているのか、それによって何を意図しているのか、何を求めているのかを知りませんが、自分たちが経験していることの意味を知っているし、自分が受けている苦しみとは何か、そして、それがこれから続くことを理解しています。私たちはもちろん、それをやめていただくよう、早く終わらせて、そこから解放してくださるよう、主にお願いします。主は、私たちのことを心にもとめません。そして、別の出口から逃げ出した人たちだけが、こんなふうに言います、『神が、気にもとめなかったことに感謝します。』初めのうち、私たちは、主をただ優しく、善であり、正しいことをするお方であると考えていますが、御手の下で生きていくにつれ、私たちは、主が何かに手をくだしていることに気づき、それを感じ始めます。主は、例えば、私たちの高慢、私たちの独立心、私たちの無責任さを正そうとしているのかもしれません。このような問題は必ず持ち上がってきます。そして、私たちは、自分のことで正気を失いそうになるほど問題に、次々に直面しています。私たちの中にあるこの問題がこれほど強かったことを、これまでは、まったく信じていなかったでしょう。ああ、私たちはもちろん、この問題が、広い意味で全ての人間の中に、そして、人類の一員としての私たちの中にもあると信じる気持ちは持っていました。そう、私たちには高慢さ、あるいはそれに似た性質があると言われても、腹を立てはしなかったでしょう。しかし、その性質がどれだけ深く根を下ろしており、どれだけ恐ろしく強いものかということは、火のような試練にあわされて、生活の全てが行き詰ることがなければ、とても信じられなかったはずです。そして、私たちは、生活と神への奉仕の全てが、そこで行き詰ってしまったのを見たのです。・・・・主が目指していたのは、私たちがかつて思っていたように、私たちを打ちのめすこと、全てを失わせることではなく、成長を引き起こすこと、解放を引き起こすことであると、私たちはよく知っています。そして、解放とは常に、主の十字架、主の受難から延びる道の上に置かれています。成長はいつでも、この道の先に横たわっています。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年4月1日水曜日

【Daily Open Windows】4月1日

四月一日

神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(第二コリント四・六)

ガラテヤ人への手紙の内容を要約すると、次のようになります。すなわち、キリスト者とは、実行する指示されたこのこと、あのことや、別の何かを行う人のことではありません。キリスト者とは、禁じられているこのこと、あのことや、別の何かを避ける人のことではありません。キリスト者とは、外から示された生き方、秩序、また、『こうしなさい』とか、『こうしてはいけません』と命じる律法制度に支配される人のことで、決してありません。キリスト者であることとは、この一文から理解できます、『神は、御子を私のうちに啓示することをよしとされた』(ガラテヤ一・十五-十六)。これは、次のことを言い換えているにすぎません、『神は私の目を開き、イエス様を見せてくださった。』この二つは同じことだからです。ダマスコへと続く道がその場所です。『主よ。あなたはどなたですか?』『わたしは、ナザレのイエスである。』『御子を私のうちに啓示することを、神はよしとされた。』これは、全て同じひとつのことです。