2020年4月7日火曜日

【Daily Open Windows】4月7日

四月七日

私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(ガラテヤ一・十二)

彼(パウロ)のキリスト者としての生活と奉仕の根底に置かれていた確信と自信は、このただひとつのことから来ていますた。すなわち、彼がイエスの中にすべてを見たという事実です。全ては・・・・、イエス様の中に。それは、何と大きな自由を彼に与えたことでしょう!何という解放でしょうか!私たちがここで繰り返して語ってきたように、熱烈で狂信的なユダヤ人であったタルソのサウロをキリスト者に、ナザレのイエスを愛するものへと変えられる力は、この世界にはなかったのです。この世界のどのような力にもできなかったのですが、イエスご自身とこうして出会ったことがそれを可能とし、実際にそれが起こったのです!彼は解放され、自由になりました!


彼が書いた全てのものの中で、もっとも過激で、もっとも激しい内容を持つのがガラテヤ人への手紙であることは疑う余地もなく、これは、キリストにおける私たちの解放の手紙であって、次の一文から始まっています、『神が御子を私のうちに啓示され、それが、他の全てのことから私を自由にした。』人に向かって、これや、あれや、他の何かが足かせになっているから、そこから抜け出して、大きくなっていくことを考えるべきだなどと告げても何の意味もありません。それは実りがなく、益もなく、そのまま受け止めれば、誰にとっても、実に危険な言い方となります。しかし、ここでも、もし私たちが、その人たちのもとに、キリストを・・・その神としての大きな特徴と意義と全てを包み込む性質とともに・・・もたらし、そして、聖霊が彼らの心に主を啓示することさえできれば、ああ、それで、うまくいきます!それは、必ずうまくゆき、それを受けた人たちは、もはや、宗教的という重苦しい死に装束に押し込むようなものでは満足できなくなります。

それは、パウロを、他の何をもってしても解放できなかったユダヤ教から解き放ちました。脱出の道、成長の道、忍耐の道とはイエス様に会うことです。それは、学ぶこと、すなわち、学校にいくことによっては起こるものではありません。パウロは、たくさんの学校で教育を受け、中でも、宗教のことは多くを学んできました。パウロは、それを学校を通しては得なかったし、私たちも、学校を通してそれを得ることはありません。キリスト教や、宗教的なことを執り行う手法を習う中で得られるものではありません。ただ、精神的、学問的、あるいは、知性的なこととは全く違います。それは、聖霊の働きです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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