2020年4月13日月曜日

【Daily Open Windows】4月13日

四月十三日

主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。(ヘブル十二・六)

息子とされることの目的とは何でしょう?それは、私たちを霊的な責任を持つ立場へと導き入れることです。神は、決して、『公職にある人たち』に責任を課すことをせず、息子たちに託します。このために、神は、子供として訓練することによって、私たちの中に息子としての資質を育み、神の責任を担える立場まで私たちを導かなければなりません。神は、霊的に成熟した状態、完全な成長へと、私たちを至らせようと願っています。これは、人を聖書学校に入れたり、『聖職へと』つけることによってできるものではありません。神は絶対に、公職の側に立って働くことはされません。ああ、そうです、神は、まさしく私たちをご自身の学校へと導き入れます。神はまた、私たちを、この世の訓練機関のようなところで、ご自身の学校へと導くこともできます。神がそうするなら、それもまた祝福されたことです。


しかし、神の学校とは、学術的な活動をするだけのところではありません。み言葉は言っています、『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』この『受け入れるすべての子』ということばに注目してください。ギリシャ語の正確な意味は、『受け入れる』ではなく、『主が配置する』あるいは、そこに置くということです。これは、位置の問題なのです。神は、私たちの中に、ご自身が信頼できる状態を作り上げようと求めています。神が、私たちに手を貸しているとき、その背後では、私たちに信頼を置こうとしているというすばらしい確信を持つことができます。神は、私たちを信頼をおける地位へと導いています。私たちはただのしもべ、機械の部品になりたいのではなく、御父とひとつになっていて、その手に御父が霊的な責任を課すことのできる息子になりたいのです。このことを本当に認めるとき、私たちは、なぜ神が、自分に今のような扱いをされているのかを理解し始めます。しかし、神がその中におられるので、そこに正しい目的があることが、私たちにもわかります。神は、自分の子供たちを、そこまで導き通す方です。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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